暗い海を往く
深い闇を切るように舟は進む。
月明かりすらない。船灯だけが僅かに照らしている。
私と妻、そして船頭の弥平だけが乗っている小さな船。波は穏やかで微かな風と弥平が漕ぐ音しか聞こえてこない。潮の匂いに包み込まれている。私に寄りかかり目を閉じている妻。
「もうすぐ春になる。そうしたら花見がしたいな」
私は思わず呟く。妻も弥平は答えなかった。
目を閉じて、私は思い出を振り返る。
妻と出会ったのは、まだ元服して間もない頃だった。武家に生まれた者の宿命である、子孫を残すという行ないのために婚姻したのだ。当時私は十六で妻は十四だった。深く頭を下げた妻を前に緊張したのを覚えている。己の小心さを露呈するようで恥ずかしいが、偽らざる思いでもあった。
「静、といいます。これからよろしくお願いします」
鈴を転がしたような声。素直に可憐だと思った。私は「仁野盛武といいます」と思わず頭を下げた。
すると妻はあっけにとられて、それからクスクスと笑った。
「どうかしましたか?」
「いえ。何ゆえ敬語なのかと……」
「あっ。これは失礼つかまつった」
「失礼ではありませぬ。少しだけ面白いと思っただけです」
そして妻はにっこりと微笑んで言う。
「あなた様となら上手くいきそうな気がします。よろしくお願いいたします」
私はそれに対して「ああ、そうだな」と馬鹿みたいな返答しかできなかった。
それから私は城勤めに励んだ。体格に恵まれたので藩主さまの御付に抜擢されたのだ。周りからのやっかみも多かったが真面目に取り組んだので次第に無くなっていった。
私のやる気が保てたのはひとえに妻のおかげだった。何かと気遣いをしてくれた。私が仕事で落ち込んだときは何も言わずに受け入れてくれた。藩主さまから褒められたときは一緒に喜んでくれた。何もないときでも変わらず笑顔で居てくれた。そうした小さな積み重ねで私と妻の絆は深まっていった。
しかし悲しいことに子供ができなかった。気に病む妻に心配しなくてもいい。いずれできると私は何度も告げた。
婚姻して十年経ってもできなかったので、私は医師に相談した。すると妻は子供を授かることはできないと告げられてしまった。
そのときの妻は酷く落ち込んで私はかける言葉が見つからなかった。
私は気遣って妻を花見に誘った。天福桜と呼ばれる名所に連れていったのだ。
「草木は子孫を残せるのに、どうしてわたしは残せないのでしょう」
散りゆく桜を見ながら妻が呟く。私は何も言えなかった。情けないことだ。
妻は海が好きだった。家の用事を済ませるとよく高台に行き、海を眺めていた。
私も海が好きだ。どこまでも広く深く青い。見ているだけで心地良かった。
だから一緒に高台で眺めていた。
「もしも来世があるのなら、わたしは魚になりたいです」
「魚? それでは喰われてしまう。鯨では駄目か?」
私の言葉に妻は笑って、そして言う。
「ふふ。あなた様はわたしに優しすぎますよ……」
目に光るものがあったが、指摘しなかった。
ただ、海を見ていた。
そして今、私たちは暗い海を往く。
「泊めてくれ。ここでいい」
告げると弥平は黙って従った。ここなら十分だろう。
私は妻を見る。目を閉じている。出会った頃から二十年経っているが、変わらずに美しかった。
私は妻を抱きかかえて、最後に妻の顔を見た。
それから――海に落とした。
一年ほど前、妻は肺を病んでしまった。
「お願いします。わたしが死んだら、海に葬ってください」
「馬鹿なことを言うな。私は――」
「医師から聞きました。もう永くないと」
悲しげに喘ぐ妻に私は仕方なく頷いた。妻が死ぬ三日前のことだった。
沈んでいく妻。重りを付けたがそれでも沈むのは遅かった。
仰向けで海底へと向かう。とても悲しかった。
弥平はちらりとこっちを見た。
「ああ。もう行っていい」
その言葉にも返事せずに弥平は舟を漕ぎ出した。
後悔はなかった。
ただ悲しかった。
それだけが心を占めていた。




