表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

理想に溺れる僕たちは

『君は凡庸な人間なんだよ』と誰かが言った。


 凡庸。―平凡で、優れた点がないこと。またはその人。


「違う」と僕は言い返した。


 誰かとは、彼のことだ。そしてその彼とは、僕のことだ。

 もちろん、僕という人間がこの世界にふたりも存在していて、お互いに向かい合って会話をしているというわけではない。

 肉体はひとつ。そしてその肉体に宿っている、無数にある僕の人格のうちのふたつ。

 自分が特別な人間じゃないことに気付いた僕―『彼』と、それを認めない「僕」。そのどちらも僕自身の人格であることに間違いはなかった。


『またそうやって目を背けるのか。そろそろ自覚しろよ』


 彼は責めるような口調で僕に言う。


『君自身、というか僕自身が一番良く分かってるだろ。才能もない。能力もない。かといって人一倍の努力すらしない。それなのに、自分は価値のある人間だと心の奥底では思ってる。その他大勢の人間とは違うといつまでも自分に言い聞かせてる』

「...」

『正直、見てるこっちが恥ずかしくなるくらいに()()よ。その行為に何の意味があるんだ?』


 僕は言った。


「価値のある僕であり続けるためだ」


 苛立っていた。僕の言動や感情を、痛いなんていう陳腐な表現で一括りに片付けてほしくなかった。その思いが、長い言葉となって表れる。


「君の言う通り、もしかすると僕には才能がないのかもしれない。能力だってないのかもしれない。努力だってそんなにしていないように他人からは見えるかもしれない。

 けれど、それを僕が心から認め、そして自覚してしまったら、終わってしまうんだ」

『終わる?』

「終わるさ。自尊心と全能感で構築された僕が」


 こんなことは言葉にするべきじゃないのだろう。ましてや人に向かって話すようなことでもないのだろう。たとえその相手が僕であっても嫌だった。

 それでも、彼の言動が癪に障った。そんな単純な動機から、僕は話すことを止めなかった。


「―本気で闘わない限り、負けではないんだ。何事にも全力を出さない。何事にも全力で取り組まない。傷つくことを恐れて挑戦を避け、逃げ道を確保し続ける。―まだ僕は本気を出していないから。これは本気で取り組むほどのことじゃないから。挫折しそうになったら自分にそう言い聞かせることで、僕はこの自尊心と全能感を維持する。それをこれからも変えるつもりはない」

『幼稚な考え方だな』


 彼は鼻で笑う。僕をわざと苛立たせるためにとった、意図的な動作のように思えた。


『この世界に全能な人間なんていない。考えてもみろよ、誰もが思い通りの自己像を実現できるわけないだろ。厳しい現実に直面して挫折し、諦める。理想の自分を捨てて、妥協する。その過程を経て初めて等身大の自分を知ることができるんだ。それが成長ってものなんだよ。―なあ、いつまでも子どもみたいに未熟じゃいられないんだ。いい加減もう少し大人になれよ。この身体は今、何歳だ?』


「うるさい!」


 僕は心の中で叫んだ。もしも口に出していたのなら、それはきっと悲鳴のような声となっていただろう。


「うるさいんだよ! 等身大の自分とかいう気持ちの悪い言葉で自分自身を騙しやがって。現実はままならないなんてことを勝手に知ったような気になるなよ。―なあ、君はそんなふうに物事を達観して眺めている自分を満更でもないと思ってるんだろ。凡庸な人間であることを悟った、それこそ精神的に成長した自分が好きで好きでたまらないんだろ」


 自分が特別な人間なんかじゃないことに、僕だってきっと本当は気づき始めている。

 けれど、僕はそれを無視している。目を合わせない。これからも無視し続ける。なぜなら、もしもそのことを真っ直ぐ受け止めたら、もう僕は立ち上がれない。この両足は、いとも簡単に崩れてしまうだろう。

 今まで築き上げてきた自分を否定し、新しい価値観を持った自分を再構築する。今更そんなことができるほど、僕は強くない。


「僕は強い。ただ黙って自分が弱いことを認めた君よりは、ずっと強い」


 哀れだな、と彼に言われたような気がした。それきり、彼の声は聞こえなくなった。


 僕は思った。

 もし、彼が最後に発した言葉が僕の気のせいだったとしたら。それは、僕自身が僕を哀れんでしまったということだ。他の誰でもない僕が今までの僕を否定したということだ。


 気がつくと、僕の目からは涙が溢れていた。

 きっと僕は悲しいから泣いているのだろう。けれど、僕はこの感情と向き合うこともしない。

 悲しくて泣くのは、弱いからだ。それを認めてしまったら、おわりだ。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ