僕の存在がこの世界の不在だった
「ねえ、もし私があなたを忘れたとしても、あなたは私のこと、好きでいてくれる?」
彼女がそう言って僕の顔をのぞき込んだとき、僕は十六歳になった。彼女のことが好きだった。初めての恋であり、初めての十六歳だった。
「十六歳おめでとう」
わずかに白い歯を見せ、かたちの良いえくぼが浮かんだ。僕はありがとうと言って彼女の言葉と笑顔を素直に喜んだ。二人は防波堤に並んで海を眺めていた。静かな雨が音もなく降っている。
「でも、あんまり変わらないね。十六歳になる前と後で。違いなんてほとんどわからないや」
「当たり前よ。二歳から三歳になったわけじゃないんだから。でも、きっとそれが歳をとっていくということなのよ」
「そうかもしれない。そんなふうに考えたことなかったけど」
「あなたは今、私のことが好き?」
「もちろん」
「十雨年後もずっと?」
今日は僕の誕生日だった。そして彼女はこの日、日本を離れることになっていた。なぜ彼女が日本を離れるのか、僕は知らなかった。知っていたのはその日が僕の誕生日と一緒なのは偶然だということだけだった。もちろんそれが僕を喜ばせる情報にならないことは彼女が一番良く理解しているはずだった。
僕は彼女の質問に何も応えることができずにいた。実際、僕は間違いなく十年後も彼女のことを好きな自信があったし、それを彼女に伝えたいとも思っていた。それなのに僕は何も言うことができなかった。
彼女は右手に頬を置いて俯いた。いつもの癖だった。そして、その癖はいつも僕を困らせた。
彼女が俯いたとき、僕はその表情から何かを読み取ろうといつも試みる。でも、彼女が右側にいると真っ直ぐに伸びた黒髪が顔を隠してしまったし、左側にいると彼女の右手が表情を見えなくした。正面で向き合うと俯いて表情なんてわからなかったし、彼女が後ろにいるとき僕はとんだいくじなしだった。
だから彼女のそんな様子をみると、胸がキリキリと痛んだ。怒っているのか、悲しんでいるのか、失望しているのか。一体どの感情が僕を不安にしているのかわからなかった。
「ごめんね。誕生日だっていうのに」
僕は黙って首を振った。言葉が喉の奥につっかえて何も出てこなかった。二人は黙った。
沈黙の中で僕は彼女の言った「十年後」という言葉を反芻し、その未来を想像した。僕の十年後に彼女がいても、彼女の十年後に僕がいるとはどうしても思えなかった。僕はそれを彼女に言うべきか悩んだ。でも、結局彼女は何もかも初めからわかっていたんじゃないかって、今振り返ってみると思う。僕は彼女のことが好きだった。どうしようもなく好きだった。そしてこのとき彼女が僕と同じ気持ちだということもわかっていた。僕にとってみればこれほどうれしいことはないはずだった。
それでも十年間という時を経て僕らの旅路は大きく異なっていくのだ。彼女はこのときそれがわかっていた。彼女は僕なんかよりも十年分くらい大人だった。
「どこに行ってしまうんだろう?」
ふいに僕はそう言って彼女をみた。風にそよいだ黒髪がゆれて彼女の横顔を隠す。彼女は何も言わずに海をみていた。僕はもうそれ以上質問をしなかった。
静かな時が流れた。息を吸うと胸が少しチクチクした。
「とても悲しい話なの」
ずっと長い沈黙の後、彼女は句読点を打つように言った。それはどこか遠い国の物語のはじまりのようだった。悲しみの城が建ち、悲しみにくれた王が悲しみに満ちた家来を束ね、騎馬隊のラッパが悲しげに響くとき、白馬の王子様が悲しみに眠るお姫様を助けに行く。そんな物語だ。そこには救いも希望もない。あるのは悲しみだけだった。
「悲しい話なんだね」
「うん」
「話すのはつらい?」
「・・・わからないわ。まだ誰にも話したことがないから。でもきっとつらいと思う」
「無理に話さなくてもいいよ」
彼女はそっとこっちをみた。
「こわいのよ。とても」
その声はわずかに震えていた。
「段々と自分が失われていく気がするの。時計の針がコツコツコツって一つずつ進むたびに、自分の一部がかんなで削られるみたいに失われていっている気がするの。ううん、今までは予感みたいなものだったけど、それは今はっきりわかるの。私は失われていっているの」
彼女は早口に語気を荒らげた。今にも泣き出してしまいそうだった。僕はそっと肩を抱いた。彼女の生きたぬくもりがそこにはあった。彼女から一体何が失われてしまったのか僕には一向にわからなかったし、実際何も失われていないように思えた。
「君はいつもの君だよ。何も失われてなんかいない」
彼女はとうとう泣き出した。最初は泣いているのかわからないくらい静かな泣き方だった。でも、彼女は段々と激しさを増し、ついには声を上げて泣き出した。ジョギングするサラリーマンが興味深そうにこちらを見ながら通り過ぎていった。
僕は彼女を強く強く抱きしめた。だけど、強く強く抱くごとに彼女の泣き方は激しさを増していった。
「私、いまとっても幸せよ」
泣いて泣いて、泣き止んだ後、彼女は腕の中でそっとつぶやいた。
「僕だってそうさ」
「本当?」
「本当さ。このまま海に飛び込んでアメリカにだっていけるくらいさ」
彼女は嬉しそうに笑った。それは本当に素敵な笑顔だった。彼女がこのままどこかに行ってしまうなんて嘘みたいだった。
「言葉がね。失くなっていくの」
彼女の吐いた息が僕の胸元を暖かく湿らせた。気がつくと僕らはもうぐっしょりと濡れていた。雨はまだ降り続けている。
「私の中で言葉がひとつ、またひとつ失くなっていくのがわかるの。どの言葉が失われたかはもうそれを失った瞬間にわからなくなってしまうんだけど。ただ、それを失くしてしまったという事実だけが残るの。そいうのってわかる?」
僕は黙っていた。彼女は続けた。
「あなたは自分の中の何かや自分自身の一部が欠けていくような、そんなことを経験したことある?」
「たぶんないと思う。つらい思いやきつい経験をしたことはあったけど」
しばらく考えたあとで彼女は言った。
「私ね。お母さんを事故で亡くしたの」
彼女は体を起こすと袖で顔を拭った。
「知らなかったよ」
「うん、言ってなかったから」
彼女は両手で髪を掻き上げた。顔にパラパラと水滴が落ちてくる。雨はもう殆ど霧みたいになっていた。
「その時、私は小学五年生だった。お母さんはね、新聞の集金のアルバイトをしていたの。いつもダサいお父さんのポーチを身に着けて、近所の家を回っていた。私はそれがすごく嫌だった。だからお母さんの誕生日にポーチを買ってあげた。とっても喜んでたわ。お母さんだってお父さんのポーチは嫌だったのよ。
本当はね、本当はお父さんとお母さんはあんまり仲が良くなかったんだと思うの。何かがあったっていうわけじゃないんだけど、こどもの私でもそれはなんとなく気がついていた。二人は私の前であまり話すことをしなかったし、どちらかが私と一緒にいるときもお互いの話はしなかった。でも、お母さんはいつもやさしかった。いつも笑顔で、いいのよ。大丈夫よ。心配しないでいいからって言ってくれた。太っていたけど、とっても良いお母さんだった」
彼女はまた声を震わせた。でも、今度は泣かなかった。
「お母さんがこの世界からいなくなったとき、私の中にぽっかり穴が空いた。それは本物の穴だった。私は手を触れてその穴の存在を感じることができたし、失われたものの存在を実感できた。何が失われてしまったのかはっきりとわからなかったけど、それは決して取り戻すことができないものだった。
いま、私が感じているのはそういうものなの。母のときほど大きくないにしろ、私の世界からひとつの言葉がこぼれ落ちていく度に、いくつかの思い出や記憶もその穴の中に永遠に引きずり込まれてしまうの」
空は一面薄い雲に覆われ、薄暗いぼおっとした光が地上に青々と降り注いでいた。
「君はどのくらいの言葉や思い出を失ってしまったのだろう」
彼女は防波堤を少し歩くと立ち止まり、また海を眺めた。静かな海だった。波ひとつ立っていない。
「今はまだそれほど多くはないと思う。けど、それは段々と積み重なっていくの。まるで高く積み上げたブロックを上から順番にひょいと持ち上げて別の場所に積み上げていくように、私自身を離れた言葉はそれに付随する記憶とともに別の世界でまた一から積み上げられていくの。私のいない世界で、私の一部だった言葉が私よりも大きくなっていく。そう思うとね、変な気持ちになるの」
「変な気持ち?」
「うん。私はこの世界で自分が段々と薄れていくのを感じる。でも、それとともに違う世界で自分が再生されていくんじゃないかった気もするの。上手く言えないけど。
たぶん、私の言葉がすべてこの世界から消えてなくなっってしまったその日、私は私の言葉と一緒に死んでしまうんだと思う。比喩的な意味でも、実際的な意味でも。思い出や記憶と一緒にね。そして、あなたのこともきっと忘れてしまうわ」
そう言って彼女は悲しそうに僕をみた。彼女の瞳は嘘みたいに澄んでいた。その瞳を通じて僕は彼女の悲しみをみた。その悲しみは僕の悲しみでもあった。でも、僕の悲しみは彼女の悲しみではなかった。僕は知らずに涙を流していた。
「どうして泣くの?」
僕は自分の頬に手をやり、自分が泣いていることに気づいた。
「きっと私達はまた会えるわ」
そっと僕の手を取ると彼女はそれを自分の頬に当てた。
「それももっとずっときれいで混じりけのない静かな世界でね。その世界はきっと静かよ。だってその世界には新しい私とあなたしかいないんだから」
涙を拭って彼女を見上げた。もう涙は出なかった。
「きっとまた君をみつけるよ。そのときはもうこんなふうに泣いたりしない」
彼女はうなずいた。雨はもう止んでいた。ほとんどなんの音も聞こえなかった。僕は目を閉じもう一度彼女を抱きしめた。十六歳の僕が彼女のためにできる唯一のことだった。
僕は目を閉じ二人の未来のことを考えた。僕らはきっと時間と空間が人の心と心を最も遠くに切り離すその地点で十年目を迎えるのだろう。彼女は音もなく飛び立ち宙を舞い、僕は意味もなくその場に立ち尽くす。
「君は風だ」
「あなたは木ね」
そう言ってひとつ微笑みを交わし、二人は遠く遠く離れていった。
彼女が日本を発ってから、時間はまるで止まってしまったかのようだった。何をしても前へ進んだ気がしない。僕はずっとあの日の十六歳を抜け出せずにいた。
高校を卒業すると地元を離れたくて東京の大学に入った。大学では日本語学を専攻した。
大学に入ると僕はその辺の女の子と付き合ったり別れたりしながら時間を浪費させた。一人で何か考える時間を持つのがこわかった。それに沢山の女の子と付き合うというのもなかなか悪くない方法だった。色んな女の子と肌を重ねていると僕は一時的にでも孤独を忘れることができた。そして時々女の子と抱き合いながら、彼女とこんなことができたらどれだけ幸せだったろうと考えずにはいられなかった。
そして、十年が経った。
僕は実際的な意味で二十六歳になった。二十六歳になったときも、僕は二十六歳になったという実感がしなかった。でも、僕はもうあの日の十六歳ではなかった。十分ではないにしろ、僕なりに色々な経験をし、少なくない時間を過ごしてきたのだ。
試しに過去を一本の糸にして順番に手繰り寄せてみると、あの日の十六歳の記憶はちゃんとあと1回引けばすべて手繰り寄せてしまうくらいの末尾にあった。僕はちゃんと十年間を過ごしてきたのだ。
あの日の僕と今の僕の間にどれくらいの風が通り過ぎたのかわからない。色んなことが変わってしまったし、変わらないことより変わってしまったことのほうが多かった気がする。いくつかのことは忘れてしまったし、忘れてしまった多くのことはもう思い出せなかった。
それでも彼女は今でも僕の中にいた。十年後も君は僕の中で生き続けていたんだ。僕はそのことを声を大にして訴えたかった。もし、彼女がいま目の前にいてくれたら僕は十年越しに彼女に言うに違いない。
「十年後も君は変わらずに僕の中にいるよ」
でも、彼女はいなかった。いまどこにいるのかすらもわからなかった。そう考えるのは辛かった。僕は一人ベッドに横になり静かな夜に耳を澄ませた。もしかすると彼女の言葉が聞こえるかもしれない。新しい世界で何かを僕に語りかけてくれているかもしれないと。
そして、さらに十年が経った。
僕は結婚し、こどもが一人いた。妻とは新卒で入社した広告代理店で出会った。スラリと手足が長く、ポニーテールで気が利く女性だった。名前はさえと言った。僕はさえと三年付き合ってからプロポーズし、ハワイで結婚式を上げて、東京の郊外に家を買い、子どもを生んだ。典型的な幸せだったが、典型的な幸せも悪くなかった。僕はさえとこどもを間違いなく愛していたし、今の生活に何の不満もなかった。小さい会社ではあったけど、部門を一つ任されていたし、それなりにやりがいもあった。毎日忙しく働いては、週末に家族と過ごす。そんな日常が僕にはしっくりと合っていた。
それでも僕はたまにふと独りになりたくなるときがあった。そしてそれは決まって家族と過ごしているときだった。なぜかはわからない。僕は家族といる時間が好きだったし、喧嘩をすることもほとんどなかった。それはふと、風のない晴れた日に常緑の葉がぷちっとちぎれて地面に落ちるように、唐突にそしてはっきりと僕のもとに訪れた。
そして正月、実家に帰省しているときに僕は突然独りになりたくなった。僕は家でテレビを見ながら何をするあてもなくだらだらと過ごしていた。こどもは僕の父と庭でボールを転がして遊び、妻と母は晩御飯の支度を始めていた。
僕は出かけてくると言って、コートを羽織って外に出た。その日は雨で天気が悪かった。僕は大きめの傘を差してどこに行くあてもなく歩いた。
正月だからか、通りにはほとんど人はいなかった。みんな家にいるかどこかに出かけるかしているのだろう。当然と言えば当然だった。今日は正月だし、おまけに天気も悪い。一体こんな日に一人でどこに行けばいいというのだ。
僕は大通りから離れるようにして住宅地を真っ直ぐに突き抜けていった。できるだけ静かな場所に行きたかった。住宅地を抜けると鉄橋にぶつかった。今度は川沿いに歩くことにした。右手に野球ドームが見え、左手に市立図書館があった。でも、僕はさらに真っ直ぐ歩き続けた。そうすると、海が見えてきた。
時刻は夕方の五時であの日と同じように雨が降っていた。僕は傘をさし、防波堤に立つと海を眺めた。この日、海は少し荒れていた。白い波がいくつも立ち、鳥たちは飛びにくそうに海の上を舞っている。
僕は三十六歳になっていた。世界に多くの三十六という数字が存在するけれど、僕にとっての三十六という数字が果たしてどんな意味を示してくれるのかさっぱりわからなかった。それは多分、僕はもう三十五歳でも三十七歳でもないし、それに十六歳でもないのだということなのだろう。あれからもう二十年が経っていた。
僕は二十年というときの長さについて考えてみた。二十年、それは一つの系譜のピリオドのように思える数字だった。一つの記憶がここで終わりを迎え、新しい記憶がここから始まる。十年では切りが良すぎるし、三十年では長すぎる。二十年という時間は何かを切り捨て新しいものに向かうのにちょうど良く思えた。
この二十年の間に僕は度々彼女のことを思い出していた。彼女が僕にかけてくれた言葉や僕に対して抱いてくれた想いなんかを。中には擦り切れるほど思い出していたものもあった。そして、その多くは何度も何度も記憶のそこから呼び起こされる度に文字通り擦り切れていった。それは仕方のないことだった。二十年という年月はあまりに長すぎたし、それに約束の十年もとっくに超えていた。
「言葉がね。失くなっていくの」
彼女はあの日、そうつぶやいた。この場所で彼女の言葉を思い出すと言葉は生きたぬくもりを与えられたかのように響いた。あれから、長い時の中で一体彼女はどれくらいの言葉を失ってしまったのだろう。そしていま、彼女の中にどれくらいの思いや記憶が残っているのだろうか。まだ彼女の中で僕は生きているのだろうか。それとも、もう彼女の言葉と一緒に永遠に失われてしまったのだろうか。
雨の日の海岸にほとんど人はいなかった。傘を閉じ、大きく深呼吸をした。世界中でたったひとり、僕は地球に立っていた。水も木も、空気もみなすべて僕のものになった。顔に当たる雨風は僕という存在分この世界に空白を作り出し、それが僕の存在証明になっていた。
僕は気がつくと目を閉じていた。それでも世界は僕の目の前にくっきりと映った。存在する世界の不在が僕なのか、不在の世界の存在が僕なのか。それが段々とわからなくなっていった。心地よい瞬間だった。
その時だった。僕は背後に誰かの存在に気がついた。僕は目を開け後ろを振り向いた。
そこには女性が傘を差してひとり立っていた。赤いロングコートに黒いスキニーと膝まである革のブーツ、肩まで伸びた髪の毛は風にゆれて何度か彼女の顔を隠していた。
彼女はじっと海を見ていた。僕がいることに気がついていないんじゃないかと思ったほど、彼女は海だけを見つめていた。
最初のうちは勘違いだと思った。そんなことは起こりうるはずがないと思った。けれど、それは間違いなかった。それは彼女だった。少し疲れた顔つきをしていたが、ほとんど変わっていない。薄く細い眉と横に切れた大きな瞳。はっきりとした鼻立ちに消え入りそうなほどの小さな唇。僕の心臓が高鳴った。1秒が1分にも1時間にも感じられた。二十年の時を超えて、今彼女が目の前にいた。
あの日から、僕は数え切れぬ日々の中で彼女のことは考えて考えて考え尽くして過ごしてきた。あるときは誰かと肌を重ねているときに、ある時は眠れない夜の日に、僕は彼女のことを考えた。
それがいま、彼女だけを考えて過ごした時間を針で糸を通して引き抜いたみたいに、僕の中の彼女が僕の人生からすっぽりと抜き出され眼の前に生きた肉体として立ち現れた。それはまるで僕の人生そのものでもあるようだった。
僕は色んな言葉をかけたかったし、色んなことを聞きたかった。でも、あの日と同じように僕の声はどこか遠くの場所に行ってしまっていた。僕はただ、彼女だけを見つめた。
彼女は視線だけを動かして僕を見た。二人の視線が交差し、時間が止まった。僕らはその止まった時間の中で動く唯一の存在だった。そして気がつくと僕は十六歳の僕になり、彼女は十六歳の彼女になっていた。それは嘘みたいに静寂で、嘘みたいに綺麗な世界だった。
「待った?」
「少しね」
「少しってどれくらい?」
「何もかも忘れて、忘れてしまったすべてを思い出すくらいの時間さ」
「あなたは思い出したの?」
「思い出せたよ。全部ではないけど。大切なものはちゃんとね。君は?」
「私は駄目ね。すべて忘れてしまったの」
彼女は残念そうな笑みを浮かべた。
「ごめんね。辛いでしょう」
「うん。正直に言うとね。でも、それはしょうがないよ。それはわかっていたことだし、多分一番辛かったのは君だと思うから」
「うん」
彼女の返事は弱々しかった。
「ねえ。その辛さってどっちの私が持っていると思う?」
「どっちって?」
「つまりね、すべてを忘れてしまった今の私か、忘れ去られた言葉や記憶が出来上がった過去の私かってこと」
僕はしばらく考えた。
「どっちだと君はうれしいのだろう?」
「どっちだとあなたは助かるの?」
二人は黙ったまま見つめ合った。
「また会えるかな?」
「きっと会えるわよ。そのときまで私のこと忘れないでいてくれる?」
「うん。忘れないよ」
それを聞くと彼女は嬉しそうに微笑んだ。
気がつくと僕は三十六歳の自分に戻っていた。波の音が突然鳴ったように、遠くから聞こえた。そして目の前にもまた三十六歳の彼女が立っていた。二人はまたこの世界で見つめ合った。でも、そこに言葉はなかった。彼女は何度か足元に視線を落とすと、もう一度僕をみて、僕の背後に広がる海に視線を移した。
僕も後ろを振り返り海を見た。それはあの日の海と同じだった。けど、何かが変わってしまったように僕には思えた。たぶん変わったのは海ではなく、僕の方なのだろう。彼女の方をもう一度振り返った時、彼女の姿はなかった。彼女は行ってしまったのだ。
僕はしばらく彼女がいたはずの場所を見つめて立ち尽くしていた。彼女の存在がこの世界の不在を間違いなく作り出していたその場所を。