はさみさま
「ハァ、ハァ……ハッ、ゲホッ!」
風に揺られ、木々がざわめく。
その音の隙間を抜けるように、草木を縫って走る女が一人。
半袖のシャツ、ミニスカートを着た女の腕や足には枝で負った傷が無数にある。ヒールの高い靴はとうの昔に脱げてなくなり、素足のまま無我夢中で走り抜けてきたようだった。
時折振り返りながら追手を確認するが、その顔には恐怖が貼り付いている。
「な、んで…! もう、許してよ!!」
ゆるく巻かれた長い茶髪は乱れ、濃いメイクが汗と涙で崩れていることを気にする暇もなく、既に限界を迎えている足を必死に前へと進める。
全身の身なりに気を遣っている女からは想像もつかない憐れなその姿を嘲笑うかのように、黒いキャップ帽を被った男が足早に女の後を追っていた。
灰色に光る瞳は狂気を宿し、口元には笑みを浮かべている。月明かりで照らされた男の手には、鈍く輝く二本の小さな刃が握られていた。
「意識高い系のお前が全身ぐちゃぐちゃで、良いざまだなぁ。必死すぎて笑える。こうなったのは全部、俺を裏切ったせいだろ? お前が他の男に色目使うからさぁ、こうするしかないじゃん?」
男の声に怯え、女の体がすくみ上がる。足がもつれてその場に倒れ込み、地面で顔を強く打ち付けた。全身がガタガタと震え、あまりの恐怖に助けを呼ぶ声すら出ない。
目の前で必死に逃げようともがく姿に、男はますます笑みを強めた。
「これで、お前は俺だけの物だな」
刃が一層輝き、女へと振り下ろされる。
金属が重なり合う音が波紋となって辺りに広がり、木々に当たってやがて消えていった。
『昨夜未明、伊戸桐神社付近の山中で体をバラバラに切断された遺体が見つかりました。凶器に使用されたのは、文具用の小さな鋏とのこと。犯人は既に捕まっていますが、しきりに“鋏様のおかげだ”と言っており、今後精神鑑定も含めて捜査が行われるそうです。次のニュースです――』
テレビのアナウンサーが、普段と変わらぬ調子で事件の全貌を知らせる。
地元のニュースが流れたのを見て、テーブルに味噌汁のお椀を置きながら母親がため息をついた。
「やぁね、この辺の事じゃない。果穂、あんたも気を付けなさいよ」
自分の娘にそう声をかけ、湯気をくゆらせる味噌汁をズズッとすする。
果穂と呼ばれた少女は喉の奥で「んー」と言いながら、伏し目がちに茶碗の白米を箸先で弄んでいた。一口サイズに丸め、しばらく転がした後に渋々口へと運んでいる。
そんな果穂の食事の様子を、母親は味噌汁のお椀を持ったままジッと見つめていた。
「……ごちそうさま」
「またこんなに残して! あんた最近痩せてるけどダイエットでもしてるの!?」
「勉強のことで頭がいっぱいなの。高校受験の勉強とか、テストのこととか」
「本当に?」
先程まで食べていた白米は半分以上残され、味噌汁も一口ばかり飲んだだけ。ウインナーや卵焼きなどのおかずには、一切手を付けられていなかった。
せっかく作った料理を無駄にする理由が本当にそうなのか、母親は半信半疑に果穂を見る。果穂は何でもないように、ニコッと微笑んで見せた。
「……まぁ、受験生だものね。思春期だろうし、こういうこともあるわよね」
そう呟きながら、諦めたように息をつく。
これから母親が処理するであろう朝食の残りにチラリと目を向け、果穂は母親にもう一度笑みを見せてソファに置かれたカバンを持ち、まっすぐ玄関へと向かった。
「いってきます!」
元気な声を残し、扉を閉める。
朝とは言え決して優しくない日差しを受け、その眩しさに目を細め眉を寄せながら、果穂は重い足を引きずるように通学路を歩く。
先程まで母親に見せた笑顔とは一変し、憂鬱だと言いたげな表情をしている。それは通りすがりのサラリーマンですら心配そうに振り向く程だった。
十五分歩くと通っている中学校が姿を現し、校門から幾人もの生徒を飲み込んでいる。果穂も生徒の流れに逆らうことなく校門を通り過ぎるが、自分のクラスの靴箱に近付くにつれ歩幅が狭くなっていた。
「(……今日は…?)」
自身の名前が書かれた靴箱の扉の前に立ち、果穂は深く深呼吸をした。ただ上履きを取り出すだけだと言うのに、戸を開く手は汗が滲み震えている。
数人の生徒がその様子を不思議そうに眺めていき、その視線を感じて果穂はゆっくりと戸を開いた。
パラパラと落ちてきた砂や落ち葉、鼻をかんだ後のティッシュや飲みかけの紙パックジュース。ゴミ箱状態の中にある汚れた上履きを見て、果穂は安堵の息をついた。
「(よかった。今日は生ゴミじゃない)」
紙ゴミを両手でつかみ、近くのゴミ箱へと落とす。落ち葉はつまんで捨て、砂は手をほうきとちり取りのように使ってできるだけ取った。最後に上履きの汚れを手ではらい、中を充分に確認してから足元に置く。
これが果穂の、学校生活の始まりだった。
教室に行くと予鈴の五分前だったためか、席についている生徒は少ない。果穂の姿を見た者から順にヒソヒソと声を潜め始めた。
「今日も来たぜ、あいつ」
「ほんと、よく来るわね」
そんな声を聞こえていないふりをし、果穂は教室の真ん中にある自分の席の椅子を引いた。
座る部分が蛍光灯を反射して、テカテカと光っている。それは粘り気を帯びていて、触れれば簡単には取れないということが果穂には分かっていた。
「(スティックのり……。画びょうだったら、元の箱に戻せたのに。どうしよう)」
ふと顔を上げた果穂の視界に、ニヤニヤと笑みを浮かべる少女が入ってきた。
椅子に細工をした張本人であろう少女は、取り巻きの少女数人と話している。
「そんなに学校が好きなら、ずっと椅子にくっついてればいいのよ。あたしって優しくない?」
「美奈ちょーウケる。やさし〜」
それは、果穂の耳にも届く声だった。
わざと聞かせるように喋っているのは明らかで、果穂の表情が歪む。涙をこらえるようにグッと唇を噛みながら、カバンからポケットティッシュを取り出して椅子の上に数枚広げ、ゆっくりと腰を下ろした。
「(今までずっと、美奈とは仲良くしてたのに……何でこんなことに……)」
朝のホームルームは滞りなく終わったが、果穂の地獄はまだ始まったばかり。
机の中には食べかけのおにぎりがあり、いつから置いてあったのかコバエがたかっていた。
授業中には四方八方から消しカスや消しゴムの欠片が飛んできて、休憩時間になればカバンをひっくり返して教材を床にばらまかれる。カッターやハサミで切り刻まれ、落書きでボロボロになったそれを拾う姿は惨めだ。
それなのに、誰一人として果穂を擁護する者はいなかった。
「(……やっと、お昼……)」
トイレの個室で、深く深く息をつく。
疲れきった表情はとても十五歳には見えず、頬も薄らと痩せこけているようだ。
果穂はいつもここで弁当を食べることもなく、持ち物が全て入ったカバンを誰にも奪われないよう抱え、便座に座っていた。
チャイムの音が鳴らないことを祈りながら過ごす、校内で唯一の至福の時間は、わずか十分で終わりを告げる。トイレの扉が開かれ、数人の少女が入ってきたのだ。
「ねぇ、何かくさくない?」
「確かに〜」
「くさいもんは掃除しなきゃね」
「めっちゃ優等生発言〜!」
蛇口から流れる水の音がトイレに響く。
楽しそうな笑い声とは裏腹に、果穂の顔は血の気が引いていた。何が起こるのか想像してしまった果穂は、両手を握りしめて足を閉じ背中を丸めて体を縮めている。
水の音が止んだ直後――。
「ヒッ…!!」
果穂の頭上から大量の水が降ってきた。文字通りバケツをひっくり返した水は、果穂の全身をずぶ濡れにするには充分な量。髪や制服からはポタポタと水が垂れ、冷たさが果穂の体温を奪っていく。
少女達の明るい声が出ていき、水滴の音が分かるほどの静寂が訪れた。
「ふっ……くぅ……うぅ……」
水とも涙とも取れぬものが、頬を伝い顎から落ちていく。
震える両手で顔を覆い、小さく声を上げて泣いた。
チャイムが鳴ってからも、果穂はその場から動けずにいた。
「(もう、耐えられない……)」
嗚咽が治まる頃には体はすっかり冷えきり、全身が寒さでガタガタと震えている。
それでも、瞳の輝きだけは失われていない。
何かを決意したその瞳のまま、担任にも声をかけず学校を出た。
果穂が住む地域には、とある伝承があった。
朝のニュースで流れていた事件もそれが絡んでいると、果穂は分かっている。だからこそ、自宅には向かわず山に向かっていた。
山中にあるその場所はあまり人が踏み込まず、その存在を知っている者も多くはない。だが、果穂は声を上げて泣ける場所を求めて山に足を踏み入れた時、見つけていた。
「ハァ、ハァ……あった…!」
偶然発見した時の果穂は、石の上に作られた百葉箱があると思っていた。
けれど、格子状の観音開きの戸を見て、すぐに“祠”だと気付く。
「ハァハァ……紙は……ノートでいいか」
カバンから引っ張り出したノートの裏表紙から、ページを千切って正方形の紙を作る。ノートとカバンを机代わりにして、ペンを取り出し文字を走らせた。長くはない文を書き終えると、その紙を折って鶴を作る。
筆箱からペン型のハサミを取り出してキャップを外し、祠の戸の前に鶴と一緒に置いた。祠の前に膝間づき、両手を合わせて俯く。
「……は、鋏様、鋏様……どうか、私の願いを叶えてください」
合掌した手に力がこもる。
そよ風が木の葉を揺らし、果穂の体を撫でていく。
半乾きとはいえまだ濡れている服が風で冷たさを増し、果穂は体を震わせた。風が止むと震えも治まったが、風で葉が揺れる音はまだ聞こえる。
不思議に思った果穂が目を開くと、隣に男が立っていた。
『……今度は、娘か』
突然現れた男に驚き、声も出せずにいた果穂は尻餅を付きながらも後ずさる。けれどそれ以上逃げようとしなかったのは、男の立ち姿があまりにも儚く見えたからだった。
少しくたびれたような甚平を着て、サラサラと風になびく灰色の短髪は日の光に当たって銀に輝いている。生気のない瞳も灰色で、肌は雪のように白い。
そして何より、男の向こう側にある木が透けて見えていることに、果穂は驚きを隠せなかった。頭の中に直接響くような声も聞こえ、人間ではないことに気付き恐る恐る口を開く。
「……は、さみ、さま…?」
果穂に目を向け、男は柔らかく微笑んだ。
その後、果穂が折った鶴を手に取り、開いて中の文字に目線を走らせる。内容を理解するためか、目線は何度も往復していた。
『私は、しがない糸切り鋏。付喪神となって崇められる程の力は得たが……この二百年、これだけの量を切りたいと願う者は初めてだ。正気か?』
男は紙を果穂に見せながらそう呟く。
果穂に迷いはなく、目をそらさずに力強く頷いた。
「クラスメイト全員、三十三人です。お願いします…!」
地面に手を付き頭を下げた果穂を見て、男は再び微笑みながら今度は祠に目を向ける。
今まで見たことのないハサミの形に目を瞬かせ、手をかざした。
『面妖な鋏だが、充分だ。……原因の元も絶つ必要があるな。ここから出かけるのも何年ぶりか』
男がハサミを果穂に手渡すと、果穂の手の中でハサミの刃が微かに光る。明らかに何かの力が宿っているそれを、ギュッと握りしめた。
人も殺せるほどの力を持つハサミだが、果穂にとっては救いの手だ。
『これで、お前が思うモノは切れるだろう。だが、私が手を貸してやれるのは“切る”だけだ。その後の人生を、自ら紡いでいく覚悟はあるか』
「……はい!」
果穂のハッキリとした返事に微笑み、男は祠の裏へと歩いて行く。
立ち上がって祠の裏側を見た時、もう男の姿はどこにもなかった。
「……夢、じゃないよね」
手の平に収まる程の、ペン型の小さいハサミ。
いつも使っている道具がいつもと違う輝きを帯びていることに、果穂は違和感を覚えつつも小さく笑みを浮かべている。胸の高鳴りすら感じているような、期待の眼差しを向けていた。
「……これでようやく、終わらせられる」
翌日、果穂はハサミをスカートのポケットに忍ばせて家を出た。微かに熱を持っているハサミをスカート越しに触れ、平静を保つために何度も深呼吸をしていた。
三度目の深呼吸を始めた時、果穂の目に同じ制服を着た女生徒の姿が映る。後ろ姿を見て動悸が激しくなったのを感じて、クラスメイトで間違いないと悟った。果穂が直接関わったことはないが、イジメられているのを外野から眺めて笑っていた人物だ。
先程よりも歩調を強くしながら、スカートに手を入れてハサミのキャップを片手で取り、ハサミの持ち手部分を握りしめる。
その時、クラスメイトと果穂の間が線が見えた。
「(え……これは、糸…?)」
白とも銀とも言えない輝きを宿した糸が、クラスメイトの背中と果穂の胸を繋げている。その糸は風に揺れることもなく、横切る通行人が気にする素振りを見せないことから、この糸は果穂にしか見えていないようだった。
「(これが、鋏様の力? これを切れば……)」
ゴクリと喉を鳴らし、糸にハサミの刃をかける。
けれど、いざその時になると動悸は激しさを増し、果穂の息は見る見る内に荒くなっていった。
一度目をギュッと閉じた後ハサミを持つ手に力を込め、意を決してひと思いに糸を切る。刃が擦れ合わさる金属音の後、糸は切り口からスーっと消えていった。
微かに震える手に残る、確かな感触。それに戸惑っていた果穂だが、ハッとして前を向く。ちょうど、クラスメイトがコンクリートに倒れ込む瞬間だった。全身の力が抜けて重力に従い崩れていく様は、操り人形の糸を切ったかのようだ。
果穂は額に汗を滲ませながら、ゆっくりとクラスメイトに近付く。
「い、息は……死ん、でる…?」
肩に手を当てたり、口元に手をかざしてみる。
次第に、果穂の頬が緩み始めた。口角が上がり、唇の下から白い歯が覗く。瞳は、灰色に光っていた。
「……いける、これなら…!」
周りには人がおらず、果穂はすぐにその場を後にする。
女生徒は体温を保ち横になったままピクリとも動かなかったが、今にも消え入りそうな細い糸が女生徒と胸と果穂の背中を繋いでいた。
それから果穂は胸の高揚感を動力に、足早に学校へと向かう。
口元の笑みは不気味さを漂わせ、校内で別のクラスの同級生達が思わず後ずさって離れていく。教室へ辿り着く頃には、果穂の前には生徒達が廊下の端に寄って道ができていた。
「……あ〜、ほんと懲りないね。何しに来たの?」
教室の後ろ側にある友人の机に腰をかけている美奈が、教室に入ってきた果穂を見て呆れたように笑った。取り巻きの少女達は果穂の様子がいつもと違うことに気付き、訝しげに果穂を見つめている。美奈は果穂の変化をただの強がりと感じたのか、全く気にも止めていないようだった。
そんな美奈にチラリと目を向けて一瞬悲しげな表情を見せた果穂は、唇を噛んで眉間に力を込めて教卓へと向かう。黒板を背にクラスを見回した時には、美奈の表情はイラ立ちを隠せず歪んでいた。
そんな彼女達の胸から糸が伸び、果穂の胸と繋がる。
「何よ。何かやるつもり? 今までの文句を発表でもするんですか〜?」
美奈の声に、クラスメイト達が笑いをこらえ切れず吹き出した。
笑い声に包まれる教室の中で、果穂だけは冷静な眼差しで皆を見つめている。
そこでようやく、美奈が気付く。果穂の瞳が、灰色に光っていることに。
「……私は……さよならを、言うために……ここに来た」
その言葉の後、果穂は今まで握りしめていたハサミの刃を美奈に向けた。美奈の目が驚愕で見開かれ、教室中から笑い声が消えてどよめきが広がる。
地元で鋏様の噂を知らない人間はいない。そして、先日起きた殺人事件。この後何が起こるのか、全員が容易に想像しただろう。数人の女子は目に涙を浮かべ、男子は応戦するためかペンや定規を手にしている者もいる。
「……最後に、聞きたいことが、あるの……ねぇ、美奈」
「な、何よ…!」
強気な態度で果穂を睨むが、その手は微かに震えている。自身が一番に手を下されると察している恐怖に、必死に耐えているようだった。
美奈と距離のある果穂にはそれが分からず、ただ悲しげに目を細める。
「去年まで……一緒に遊んだり、仲が良かったよね。何で私に、酷いことしたの…?」
「ハハッ、呆れた……そんなことも分かんないの!?」
突然の大声に、果穂の肩がビクリと震える。
美奈の顔は怒りで赤く染まり、手は震えていたが力強く握りしめられていた。
「そりゃ分かんないよね! あんたはずっと! 幸せそうだったからな!!」
「私が…?」
「どうせ最期なら、教えてあげる。三年になってすぐの時、私は進路のことで悩んでたことをあんたに相談した。その時あんたは何て言った!?」
「……一緒の、学校に――」
「そうよ!! 父親がクズなせいで母さんが病気で入院してるのに、あんたは簡単に“一緒に行こう”って言ったんだよ!! その時に、私のことなんか何も考えてないって分かったんだ。あんたなんか友達でも何でもなかった!!」
美奈の目から大粒の涙が零れる。
今まで溜め込まれていた感情を吐き出され、果穂は驚きのあまり声も出せなかった。
「……先に裏切ったのは……私……」
声に出して反芻すると、手から少しずつ力が抜けていく。
目の焦点が合わず俯くと、果穂は目の前が光っていることに気付いた。光を放っているのは、今にも手から零れ落ちてしまいそうなハサミの刃。
強い意志を持ってここに立っていることを思い出した果穂は、再びクラスメイトに目を向ける。
果穂の瞳が、灰色の強い輝きを宿していた。
「……ごめんね。でも、もう決めたの」
イジメに加担した者、傍観者を決め込んで見て見ぬふりをしていた者、手は出さず笑って見ていた者。教室にいるクラスメイト全員の糸が交わる部分が果穂のすぐそばにあり、そこに開いた刃を当てる。
自分達に刃を向けられたと思っている生徒達が、一人、また一人と悲鳴や怒号を上げた。
「嫌、嫌だ! 死にたくない!!」
「俺達は何もしてねぇだろ!? 関係ねぇだろうが!!」
美奈だけは覚悟を決めたのか、怒りを込めて果穂を睨みつける。
それとは裏腹に、果穂は微笑んでいた。穏やかな表情で、灰色の瞳から涙を流しながら。
「みんな、さよなら」
――……シャキンッ
数ヶ月後、果穂は朝日の差し込む窓を見上げていた。
今では着慣れた服の胸元を掴み、深く息を吐く。
祠を訪れてハサミを手にした日々を思い出し、微笑みを浮かべた。
「――!」
窓の向こうから叫ぶ声が聞こえてくる。
外を見ると同じ服を着た人物が手を振っていて、それに応えて果穂も手を振った。
「……果穂〜! 美奈ちゃんが来たわよ!」
「はーい!」
勉強机に置かれた真新しいカバンを手に、果穂は自分の部屋から出る。
玄関を開ければ笑顔の美奈が立っていて、果穂も笑みを浮かべた。
「おはよ、果穂」
「うん。おはよう、美奈」
同じカバン、同じ制服。二人は高校生になっていた。
果穂がハサミを使ったあの日、予鈴と共に教室に来た担任はあまりの光景に腰を抜かした。クラスにいた生徒のほぼ全員が床に倒れて気を失い、ただ一人果穂だけが、教卓で立ちすくみ虚ろな目から涙を流していたのだ。
そのわずか数分後、生徒達は一斉に目を覚ます。
皆口々に「いったい何があったんだ?」と首をかしげた。
その中で、美奈は果穂の姿を見て駆け寄る。
「何かあったの…?」
「……美奈……美奈!」
果穂に抱きつかれ、美奈は目を見開きながらも果穂の背中をなだめるためにポンポンと叩く。
その行動が果穂の涙腺を更に緩め、大粒の涙を零しながら美奈の腕をつかんだ。
「私、これから頑張るから…! だから、また……友達に…!!」
「果穂……」
果穂が涙を流す理由が、美奈には分からない。
美奈やクラスメイト達の中で果穂の存在は、イジメの対象ではなく、ただのクラスメイトになっていた。
「それにしてもさ、さすが果穂だよね」
「何のこと?」
「授業真面目に聞いて受験勉強も頑張ってたし、果穂に教えてもらってすごく助かった」
「……美奈がいてくれたから頑張れたんだよ。一人だったら……確実に、今の高校には行けなかった」
山の中を歩きながら、果穂はバツが悪そうに笑っていた。時折こんな表情をする果穂を不思議に感じながらも、美奈は隣を歩く。
しばらくして、二人の前に祠が現れた。
「果穂が行きたがってた祠ってこれ?」
「うん。ごめんね、今日は朝早く出ようって言って」
「全然平気! 昨日の内に母さんに言っといたから、朝ご飯も弁当もバッチリ!」
グッと親指を立てて誇らしげに笑う美奈。
それを見て果穂は嬉しそうに笑いながら、制服のポケットからある物を取り出す。ノートの切れ端で作られた、折り鶴だ。
「何で折り鶴?」
「んー……これはお礼の手紙、かな。今までの私とお別れできたから」
「へ〜。ここの神様のおかげで?」
「……うん。私の人生が変わるくらいの願い事が叶ったよ」
折り鶴を祠の前置き、果穂は手を合わせる。
真剣なその様子を見て、美奈も隣で同じように手を合わせた。
「美奈?」
「よく分かんないけどさ、果穂の願いを叶えてくれてありがとうございますって言っといた」
「……そっか」
「母さんの病気が治ったのも、父さんのギャンブルとか酒癖がなくなったのも、果穂とまた仲良くなれてからだったし。関係あるのかも、って思って」
照れながらそう言う美奈は風に揺れる木の葉を見つめていて、果穂の目に涙が浮かんでいたことを知らない。
思わず零れそうになるのをこらえて、手の甲で拭いながら果穂は微笑んだ。
「そういえば、お母さんが変なこと言っててさ。知らない男の人が来て、古いハサミで空中の何かを切って出ていった夢を見たんだって。神様だったのかな」
「うん、そうかもしれないね」
「果穂が私の願い事も一緒にお願いしてくれたの?」
「……美奈が幸せになりますようにって、ずっと想ってたよ」
「そうなんだ! 果穂とまた仲良くなれてよかった」
「何か恥ずかしいよ。そろそろ学校行こうか」
「そうだね。遅刻したら怒られるし!」
「一緒に来てくれてありがとね」
「何言ってんの! 親友の頼みは何だって聞くんだから!」
果穂の腕に自分の腕を絡ませて美奈は笑う。美奈の手を握って、果穂も満面の笑みを浮かべた。二人の楽しそうな声が木々に反射して、山彦のようにいつまでも響いていく。
その声が遠ざかる祠では、付喪神の男が折り鶴を手に微笑んでいた。
『上手くいったか。糸は切れるが、結ぶこともできるものだ。やはり私は、人の肉よりも糸を切る方が性に合っている』
祠の戸を開いたそこには、錆の目立つ糸切り鋏が置いてあった。
懐から折り鶴を取り出し、糸切り鋏の前に二羽を隣同士に並べる。
『イジメの対象からただの他人に変わり、そこから友人関係を新たに築くのも楽ではなかっただろう。娘の努力の賜物だな』
祠を満足そうに見つめ、男はスゥと姿を消した。
その後、祠に折り鶴を捧げて願いが叶ったという話が広まった。
人斬り鋏ではなく、どんな悪縁も切って繋ぎ直せる“縁結びの鋏様”として。
噂に便乗して、「彼氏と別れて新しい出会いが欲しい」などの願い事を書いた折り鶴を置きに来る女子生徒達が後を絶たなかった。
――クラスメイトとの悪縁をお切りください
私にもう一度
縁を結び直すチャンスをください
end