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六分儀  作者: 小鳩子鈴
3/4

 

「可愛い息子にかわいい奥さん。希望した職種に新築マンション。何がご不満?」


 気付けば、問われるままに最近の不満をつらつらと話してしまっていた。

 それ惚気? と軽く睨んだ後に、面白そうに身を乗り出してくる。


「そのマンションに居場所がないし、妻だってろくすっぽ話もしない。聞かされるのは愚痴と溜息ばっかりだ」

「息子くんは?」

「レゴに夢中で、お受験幼稚園では元気すぎてお荷物扱いだと」

「あ、レゴはいいねぇ。ふふ、徹くんにそっくり」


 お父さんと一緒に建築の仕事をするようになるんじゃない、そう楽しそうに言ってまたコーヒーを口元に運ぶ。


「……俺に似てる?」

「赤ちゃんの写真しか知らないから、顔は分からないけど。でも、聞いてると中身はそっくりじゃない」

「そうか?」

「徹くん、小さい頃ブロックが大好きで。それに、やんちゃがひどくてお母さんがすっごく大変だったって。それで妹さんの名前が静香ちゃんになったって言ってたでしょう」


 そういえばそうだった。落ち着きのない俺に散々手を焼いた両親は、四歳下の妹の名前に、心からの願いを込めて「静」の字を入れた。

 ――そんなことまで話していたか。


「構ってあげてる?」

「忙しくて」

「もったいない。二十年後に揶揄(からか)えるのに。『お前が小さい時はなあ』って」


 それにね、とカップをソーサーに戻しながら言う。


「幼稚園の男の子だった経験のある『お父さん』のほうが、男の子のことはよく解るでしょう」

「……そういうものか」

「だって『お母さん』は女の子だったもの。帰りが遅くて眠っちゃってるのなら、奥さんとお喋りすればいいの」


 俺が帰ると大抵二人とも寝ているんだが。

 子どもが生まれてからは、夜泣きもあったりしたから寝室は別々だ。今は、留衣と息子の蓮はリビング隣の和室で寝ている。

 そう零せば、朝に話せばいいと。


「うちの妹もそうだったけど。子どもとばっかりいるから、大人との会話に飢えてるんだって。『文法を使って漢字で話がしたい!』って、よく電話かけてきたしね」


 確かに、留衣の実家も地方で、近くに行き来する親戚もいない。

 ……一日中、話す相手は五歳の男児ばかりか。

 送迎で幼稚園に行っても、お行儀重視の園で厄介者扱いの子どもの母親は居心地が悪いらしく、長居はできないと言っていた。

 マンション住民は皆、近場の幼稚園や保育園だ。女の仲間意識は独特だから、知り合いになるのも難しいのだろう。


「……なんでお受験幼稚園なんかに入れたんだか」

「話し合いはしなかったんだ?」

「口を挟む隙もなかった。なんか、将来がどうのとか、俺の親から文句を言われたくないとか捲し立てられて。ちょうど仕事も忙しくてそれどころじゃなかったし」

「ふうん。贅沢な悩みねえ」

「どこがだ」

「愛されてるじゃない」


 ……意味が分からない。

 俺の困惑を流すように、菖蒲はすっかり氷も溶けた水のグラスを手にした。


「徹くんに認めてもらいたいの。立派に子育てしてるねって好きな人に言って欲しいの。考えてもみて、嫌いな人からなんて褒められたって別に嬉しくないでしょ」

「見栄とか自己顕示欲ではなくてか?」

「本人に会ったことはないから違うとは言いきれないけれど、私の知っている小さい子のお母さんは、みんなそう。見栄だって、見て、認めてくれる人がいてこそでしょう」


 だから話しなさいよ、と軽く笑われた。


「二人とも生きているんだから、お喋りくらいできるでしょ。知ってる? 思ってるだけじゃ通じないの」


 テレパシーなんかない、と断言する菖蒲に苦笑いだ。

 そんなことは分かっている。

 だが。


「せっかく好き合って一緒になったんだし」

「……別にそこまで好きだったわけでもない」

「うん?」

「子どもができたから、結婚した」

「……贅沢な悩みね」

「悪いな」


 告白されて悪い気はしなかった。適当に付き合っていたら、半年ほどでいきなり妊娠したと言われたのだ。

 避妊には気を付けていたからすぐには信じられなかったが、堕胎という考えは全く浮かばなかった。

 馬鹿みたいに俺だけを見ている留衣に、それもいいかと思った。


「徹くん、そういうところはキッチリしてたよね。じゃあやっぱり、ご縁があったんじゃない。ね、どんなところが気に入って付き合ったの?」


 どんなところ。

 ……真面目で、気遣いができるところ。嘘をつけないところ。笑うと幼く見えるところ。

 子どもを、蓮を可愛がるところ。


 でもそれは、後から見つけたものばかり。

 最初のきっかけなんて、それは。


「……名前」

「え?」

「名前、留衣っていうんだ。似てるだろう、お前のに」


『結衣』に。最後まで意地を張って、呼ぶことはなかった名前。

 呆気にとられた顔をした菖蒲は少しの間固まって、ゆっくりと目を逸らした。


「……困ったひと」


 一番惹かれたのがそこだった。

 似た名前、似た髪型。それが理由だった。




 空のコーヒーカップを前にしばらくは無言でいたが、菖蒲がぽつりと口を開く。


「向こうに帰ってね、しばらくは休んでいたけれど。また勤め始めて、そこの上司だったんだ」


 結婚相手のことだろう。頷けばまたゆっくりと続ける。


「私、あの入院の時に色々検査とかもしていたから。子どもは望めないって分かっていたし、私自身そんなに長いこと頑張れないんじゃないかって思ってて。だからずっと断っていたんだけど」


 初めて聞いた……だからか。

『仕方ないよね』と別れ話をあっさりと受け入れた時に、ふと見せた安堵の表情を思い出す。


「まあ結局、押し切られちゃって」

「お前、俺の時もそうだけど、絆され過ぎ」

「そうなのかな」


 困ったように笑った。

 ソーサーにかけた人差し指を見ながら、探すようにとつとつと言葉を紡ぐ。


「いらないから、って言われたってねぇ。私だって産みたいのに……すごく大事にされてるの、勿体ないくらい。涼さんにも、お義父さんやお義母さんにも」

「……そうだろうな」

「だからね、自分が悪いなんて思わないで」


 かたり、と触っていたスプーンが揺れた。


「心配しないで、幸せになって」


 上げた目線に映るのは、あまりに変わらない自然な微笑み。

 本当は、手放したくなかった。卑怯な手を使ってもどうしても手に入れたかった、たったひとり。


「いくら私だって、嫌いな人に何度も付き合い酒なんてしないし、そもそも酔っ払うまで飲まないから。好きだったから誘われてついていったの。それに、流されたとしても自力で戻るくらいはできる。そうしなかったのは、私も望んでいたから」

「そんなこと一言も、」

「徹くんが言わないのに? 私がけっこう頑固なの知ってるでしょう」

「……知ってる」


 ふふ、と笑ってメニュー表を手に取る。字だけが並ぶ紙に目を落としながら店員を呼んだ。


「お代わり頼んでいい? それ飲んだら、そろそろいい時間じゃないかな」


 あの頃のようにポットで紅茶を頼み、二人で飲むことにする。

 その日のアールグレイは、ベルガモットの香りがやけに胸についた。




 かなり遠慮されたが、こっちが誘ったのだからと支払いは俺がした。昔から奢られるのをあまり良しとしないところは変わっていない。

 店を出て階段を上り、少し進んだところで、菖蒲の足がはたと止まった。


「……ストール、忘れた」


 言われてみれば、手に持つのは小さい鞄一つだ。


「二次会のお店ってすぐそこだよね。先に行ってて」

「待ってるから取ってくれば」

「ううん、多分トイレだと思う。使用中だったら待たないといけないから」


 そうは言っても。


「お前、さっき駅で迷子になって泣きそうな顔してたじゃないか」

「……そんな顔してた?」


 困ったように片手を頬に当てて、こちらを見上げる。


「すごい、途方に暮れてた」

「……そっか。ありがとう徹くん、見つけてくれて助かったよ。大丈夫、すぐそこでしょ? さすがに私だってこの距離で迷わないし」

「……そうか?」

「うん。ありがとうね。それと、ごちそうさま」


 よく分からないもやもやしたものが胸を掠めたが、菖蒲は屈託のなく笑うとくるりと背中を向ける。


「あ、」

「え、なに?」


 半地下の店舗へと下りる階段の手すりに、菖蒲の指が触れたところで、堪らずに声が出た。

 邪気のない表情で振り返る彼女が今にも消えそうに見えて、何度か瞬きを繰り返す。


「いや、どういたしまして……結衣」


 初めて呼んだ名前は、随分と口に馴染まなかった。

 目を軽く見開いて少し驚いた顔をして、ふっと笑うとひらひらと手を振って下に降りて行く。

 階段を下りる姿がすっかり見えなくなったところで、俺はことさらゆっくりと歩き出した……そうすれば、追いついてくるかと思って。


 忘れ物を見つけるのに手間取ったか、トイレに先客がいたかしたのだろう。後ろから草履の音がする前に、近くにある二次会の会場にあっさりと到着した。

 店前には本日貸切のプレートと、花で飾られたウェルカムボード。こういうの、女は好きだよな。

 カラン、とドアベルを鳴らしながら店内に入ると、既に結構な人数が集まっていた。見知った顔もちらほらある。


「お、佐山!」

「ああ、久し振り」


 あちこちから掛けられる声に軽く応えながら、まずは目に入った受付に向かう。

 そこには同期の女と、後輩の男が座っていた。


「わあ! 佐山くん、すっごい久し振り!」

「国枝はちっとも変わらないな」

「なにそれ、褒めてるの貶してるの。もうアラサーだから、全部褒め言葉に受け取るんだから」


 陽気な店内の喧騒に負けない声で国枝は笑い、受付帳に名前を書かされ会費を払う。

 ふと見れば、すぐ隣にあるテーブルには色紙があり、寄せ書きがされていた。

 ……新婚夫婦に祝いのメッセージか。

 いろいろ趣向を凝らすことだと近寄った俺の目に、信じられない文字が飛び込んでくる。


『早くよくなってね』

『絶対に意識が戻るって信じてる』

『元気になって、あのお店にまた行こう』

『パパも赤ちゃんも待ってるよ』

『頑張れ』


『結衣ちゃん、目を覚まして』


 寄せ書きの色紙は落ち着いた薄い緑色。

 周りに置いてあるのは、いろいろな神社の病気平癒のお守りやお札。

 大学時代の写真。

 何枚もあるそれに必ず写っている一人の姿。


 ――結衣、その名前は他にいたか。


 だって、さっきまで。

 あれは間違いなく菖蒲だった。

 駅前で茫然と、迷子のように佇んでいたのを見つけて――


「やっぱり……知らなかった?」

「どういうことだ……」

「意識不明なんだって。もう二ヶ月になるの」


 出産の時に問題があったらしい。

 帝王切開で子どもは生まれたが、母体(ゆい)の意識が戻らないままだと、国枝の口が動くのをただ見ていた。


『私、産んだら死ぬよって止められてるの』


 秋桜色の着物、刺繍入りの半襟。落ちた横髪を耳にかける指先……仕方ないこともある、そう言って笑った。

 目を細めて口角を上げて、泣きそうに。


 菖蒲、どうしてだ。




 息を切らしてさっきまでいた喫茶店に駆け戻った。ざっと店内を見渡すが菖蒲の姿はない。

 乱暴にドアを開けた俺に、驚いた店員が声を掛ける。


「い、いらっしゃいませ……?」

「っは、ぁ、さ、さっきの、俺の連れは、戻ってきてないか?」

「お連れ様ですか? すみません、僕は交代したばかりで……マスターに聞いてきます。どういう方か特徴を伺ってもいいですか」


 三十代の着物の女性。息も切れ切れに伝えて、空いていた席にどっかりと座り込む。

 全力疾走なんて何年振りだ、心臓も肺も壊れそうだ。

 少しして奥からやってきた初老のマスターに水を勧められ、恐縮しつつ、ありがたく受け取り一気に飲み干す。


「……すみません。お騒がせしました」


 マスターは、ようやく息を落ち着けた俺の前に座ると、目を細めて静かに話し始めた。


「君は、あそこの大学の学生だった子だね。ずいぶん通ってもらったから覚えてるよ」

「……はい」

「いつも同じ女の子と一緒だった」

「そうです。今日も、」

「一人だったよ」


「店に入った時から、出る時まで。君は一人だったよ」


 そんな訳はない、確かに注文は二人分だった。

 給仕をしたのはバイトの店員だったが、ちゃんと彼女の前にカップを……置いたか?

 テーブルの真中に二人分を並べて置かれて、菖蒲が渡してくれたのだったか?

 紅茶を頼んだ時に「カップを二つ」と言った俺に、店員が一瞬怪訝な顔をしたのは気のせいで……記憶があやふやだ。


 ただね、とマスターは言葉を続ける。

 決してふざけてなどいない。ただ淡々と、落ち着いた声で諭すように。子どもに言い聞かせるように。


「この辺も随分変わったろう? 懐かしいなと思って、奥から少し君のことを見させてもらっていたんだ」

「……はい」

「そうしたら時々、君の前の席が揺らいでね、綺麗な……そうだね、何色っていうんだろう。薄い赤紫、いやピンクとは少し違うかな、まあそんな色の着物の女性が、見えるような気がする時があった」


 それは、今日の菖蒲の。


「喋っているようだったけれど、聞こえなかった。君の声も。ただ、気付いたらコーヒーは飲み終わっていたね、二杯とも。そのあとの紅茶も」


 長く生きているとね、不思議なことにも時々出会うよ。


 何かを思い出すようにそう言ったマスターに礼を言って、店を後にする。

 ポケットの中でかさりと音を立てたレシートには、確かに"人数:1名様"の印字。

 くしゃりと、握りしめた。




 会場に戻ると、ちょうど二次会が始まるところだった。俺の姿を見つけた赤峰が、慌てて駆け寄ってくる。


「結衣ちゃんのこと、言えなくて悪かった」

「赤峰……お前、いつから知ってたんだ」

「莉奈が結婚のことを知らせようと久し振りに連絡して、それで。お前ら、別れてから全然連絡も取ってなかったようだし、お互い結婚してるだろう。どう言ったもんかと思ってさ、言いそびれた」

「いや、いい。気を遣わせたな……ほら行けよ。主役、呼ばれてるぜ」


 悪い、と軽く肩を叩いて会場中央に友人は戻った。

 おめでとうの歓声が飛び交う中、受付脇のテーブルにひっそりと残された寄せ書きに目が行く。


 その夜はどれだけ飲んでも酔えなかった。


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