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六分儀  作者: 小鳩子鈴
2/4

 

 赤峰の結婚式の日は、秋晴れだった。

 予想通り休日出勤になり、仕事が終わったのは午後四時過ぎ。

 二次会の開始まではまだしばらくある。時間的には一度帰宅もできたが、そうはせずに、会場のある最寄駅へと向かった。


 再開発ですっかり小綺麗になった駅前に、かつての面影は残っていない。

 時間を潰せる場所を探して辺りを見回すと、人混みの中に着物姿の女性が目に止まった。


 こちらに背を向けて立っていて、顔はよく見えない。

 落ち着いた秋桜(コスモス)色の着物は流水の柄が薄白色に抜かれており、帯は金混じりの焦茶色。手には薄手のストールと小さめの手提げ鞄。

 多分自分と同年代だろうに、和服をごく自然に着こなしている。


 なぜか目を離せずにいると、何かを探すように彼女は首を傾けた。


 肩越しに見えた顎のライン。

 緩いまとめ髪から続く白いうなじ、そこに並ぶ二つのほくろ。


 ――まさか。


「……菖蒲(あやめ)?」


 雑踏の中届いたらしい俺の声に驚いて、勢いよく振り向いた顔に見覚えがあった。

 菖蒲(あやめ)結衣(ゆい)


 大学時代の、恋人だった。


「っ、ああ、やっぱり菖蒲だ。どうした、迷子か?」

「……(とおる)くん?」


 菖蒲は今にも泣き出しそうだった顔を驚きに変えて、こちらを見上げてくる。

 学生の頃から道を覚えるのが苦手な奴だった。あまりの駅前の変貌ぶりに、降りる駅を間違えたとか思っていたのだろう。


「久しぶり。赤峰の結婚式だろ、この時間にここにいるってことは、菖蒲も二次会からか?」


 ――そういえば新婦となった莉奈とは仲が良かった。それでわざわざ上京してきたのか。

 確かめるように何度も瞬きを繰り返す顔を見下ろせば、あまりの変わらなさに記憶が揺さぶられる。


「……うわぁ、本当に徹くんだ……ねえ、ここ、どこ?」

「ははっ、再開発してからは初めてか。俺も滅多に来ないからな……そうだな、建物は新しくなってるけれどあの店はまだある。あそこ、見えるか」


 先程見つけた、覚えのある看板を指さす。

 ガラス張りのビルに変わっているが、半地下にある喫茶店の佇まいはあの頃と同じだ。


「……ああ、本当。信じられない」


 目を細めて眺めて、ようやく納得したようだ。あんまり驚いていて可笑しくなる。


「駅前も変わったな。二次会の店はあそこの奥の通りにある。開場の時間までまだあるし、少し暇を潰すか?」


 昔、二人でよく通った店は、マスターが変わっていなければ二、三時間はゆっくりできるはず。

 まだ戸惑いながらも、菖蒲は頷いた。


 着物の歩幅に揃えて少し歩調を遅くする。

 そんな俺にまた少しだけ驚いた顔をして、思い出したように菖蒲は笑った。

 ……変わらない横顔、耳の形。

 笑う時に指先を顎に当てる癖。


 あまりに自然に隣を歩く彼女に、胸がざわついた。




 半地下の店内の奥側は陽が殆ど入らない造りで、雰囲気のある間接照明で黄昏色に染まっていた。

 ビル自体は新しくなっているが、この店は取り残されたようにあの頃のままだ。

 さほど広くはない店内の、ちょうど空いていた奥のソファー席に腰を落ち着ける。紅茶派だったはずの菖蒲が頼んだのは、ブレンドだった。


「コーヒー、飲むようになったんだ」

「涼さん……旦那さんがね、好きなんだ。淹れてもらっているうちに、私もだんだんね」


 予想はしていたはずなのに、どうしてか胸がどくりと音を立てる。

 思わず確かめたその手に指輪は見えなかった。


「……結婚、したんだな。ああ、そういえば金属アレルギーだったか」

「治らないわねー。ネックレスだってピアスだってしたいのに」


 薬指を触りながら眉を下げて笑う。その表情に、店内に流れるアナログレコードの音楽に、心はあの頃に引き戻される。


「まあ、なくてもいいんじゃないか、着物には」

「お義母さんのを借りてね、お茶の先生をされているの」

「へえ、似合ってる」


 ふふ、と照れくさそうにカップを持ち上げた。


「野口」

「え」

「野口結衣になったんだ、私」

「……よかったな、普通の苗字」

「でしょう」


 微笑みながらこくりとコーヒーを飲む姿を、知らず見つめていた。




()()って、下の名前で呼んでください』


 ゼミの自己紹介で、変なことを言う女だと思ったが、理由を聞けば納得はした。

 菖蒲、という少し珍しい名字のせいで、身内以外から一度も下の名前で呼ばれたことがないという。

 友達と名前で呼び合うというシチュエーションに、子どもの頃からどうしようもなく憧れている。

 社会人になったらどうせまた苗字だろうから、せめて今だけは。

 そう訴えて皆から、結衣呼びを勝ち取っていた……俺以外は。


『もう、どうしていつまでも名字で呼ぶの?』

『俺は俺の好きなように呼ぶ』

『じゃあ、私が代わりに()()()って呼ぶね』


 どうして周りの奴らと同じ呼び方をしなきゃならない――なんて、今にして思えば、その時とっくに惚れていたんだろう。

 外見はどこまでも女なのに、男よりもさっぱりとした性格。

 柔らかな声で、一癖も二癖もある院生や教授を論破する。ドライな態度を取っているくせに、結局最後には絆される。

 そんな彼女が、どうしようもなく気になって仕方がなかった。


 お互い上京者同士でアパートが近かったのをいいことに、しょっちゅう誘い出して付き合わせた。

 食事や買い物、ちょっとした外出、飲み会……警戒心はあるが人のいい菖蒲が、うっかり俺に慣れるまで、ただの友達の顔を見せ続けて。

 すっかり気を許した頃に、酔わせて半ば無理やり手に入れた。

 ――どうしても、欲しかった。


「今、徹くんは?」

「……息子がいる。幼稚園の年中」

「え、見たい!」


 瞳を輝かして写真をねだられる。

 急かされて取り出した画像フォルダにあったのは、三年以上も前の、ハイハイをしているのが最後だった。


「わあ、赤ちゃんだぁ。かーわいい……」

「今はもう、大きいけどな」

「年中さんかあ。七五三、男の子は五歳だよね。こっちの人は数え年齢でするの、それとも満?」

「そうなのか? 知らない」

「ええっ! あーもう、男のひとはこれだから」


 写真は後からでも撮れるからお参りだけはしたら、と言いながら、数枚しかない写真を満足そうに眺めてスマホを戻される。


「菖蒲はどうなんだ」

「子ども? 私ね、産んだら死ぬよって、お医者さんと旦那さんに止められてるんだ」


 ――驚いた。


「あ、気にしないで。仕方ないこともあるのよ」

「……そっか」


 子ども、好きだったはずなのに。

 何と言っていいか分からず、視線を逸らしてコーヒーを飲む。

 菖蒲はそんな俺の顔を覗き込んで、悪戯っぽく目を細めた。


「ふふ。ねえ、困ってる?」

「そんな話を聞いて、困らないわけないだろう」

「相変わらず、優しいのが顔に出ないひと」

「余計なお世話だ」

「照れなくてもいいのに」


 そう言って、からからと楽しそうに笑う――まるであの頃のようだ。

 あまり動かない俺の表情から感情を読み取れるのは、付き合いの長い赤峰のほかはこいつくらいだった。


 別れようと言ったのは俺だ。

 就職した菖蒲と、院生になった俺。半同棲の付き合いは続いていたが、慣れないうちから残業や休日出勤が続いた菖蒲は、徐々に体調を崩していった。


 社会人二年目の夏。ようやく取れた連休を使って、菖蒲は久しぶりに帰省をして……郷里で倒れた。

 直接の病名はアレルギー性胃炎と聞いたが、それだけではなかったはずだ。

 入院先の病院からかかってきた電話の声の力のなさに、嫌な予感がしたのを覚えている。


「頼まれたのは、今日送っておいたから」

『うん、ごめんね手間かけて。ありがとう』

「いい。それでお前、どうするんだ」

『……両親は、仕事を辞めてこのまま地元に戻れって』


 まあ、そうだろう。

 親元を離れた一人娘が入院なんてしたら、手元に戻したいと考えておかしくない。


『おばあちゃんに泣かれちゃった……そうしようかと思ってる』


 仕方ないだろうな、そう言って電話を切った。

 ……引き止めるのは我が儘だとわかっていた。

 まだ学生の俺に何が出来る。

 就職先こそ内定を取っているが、生活が軌道に乗るまでにどのくらいかかる? その間に体調がまた悪くならないとは限らない。


 菖蒲は都会に合っていない、それは付き合い始めてすぐに分かった。

 子どもの頃よりは丈夫になったと本人は言うが、よく熱も出すし、人の多いところも苦手。買い物も外食も特に興味がない。

 ただ、首都圏はいろいろな催しがあると、喜んで美術館などには出かけていた。


 俺の実家は普通の地方都市だが、今やっている勉強を活かせるような職はない。このままここで生きていくつもりだ。

 菖蒲は、違うだろう。

 話の端々に見える故郷への、家族への想いは「いつか帰る」ことを示していた。

 それが今になっただけ――自分にそう言い聞かせた。


 二週間弱の入院と自宅静養。退職手続きやアパートの退去の為に一度戻ってきた菖蒲は、顔色は良くなったもののすっかり痩せていた。


「ずっと、飲む点滴みたいなのだけだったんだ。ようやく一日一食だけ普通食になったんだから」

「……そうか」


 骨が目立つ手首を見つめて、大変だったなとしか言えなかった。

 遠距離はしない。

 物理的に離れた人間を言葉で縛ることも、会えない触れられないことに苛立つこともしたくなかった。

 何ひとつ、将来を約束できないのに。


 ありがとう、そう言って去った菖蒲。

 何かあったらいつでも連絡しろと言ったが、決して電話もメールもお互いにしないだろうことは想像がついた。

 毎晩のように体を重ねても、外で手を繋ぐことはない。それでも唯一隣を歩く異性……そういう二人だった。


 将来に確信が持てず、たった半年の卒業までの時間が、果てしないものに思えて諦めた。

 あの時もし、手を離さなかったら。

 みっともなくしがみついて、足掻いて、二人が続いていたら――今の俺は。

 あのマンションで帰りを待つのが菖蒲だったら。


 公園の親子のように、笑えていたのだろうか。



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