Ⅱ
赤峰の結婚式の日は、秋晴れだった。
予想通り休日出勤になり、仕事が終わったのは午後四時過ぎ。
二次会の開始まではまだしばらくある。時間的には一度帰宅もできたが、そうはせずに、会場のある最寄駅へと向かった。
再開発ですっかり小綺麗になった駅前に、かつての面影は残っていない。
時間を潰せる場所を探して辺りを見回すと、人混みの中に着物姿の女性が目に止まった。
こちらに背を向けて立っていて、顔はよく見えない。
落ち着いた秋桜色の着物は流水の柄が薄白色に抜かれており、帯は金混じりの焦茶色。手には薄手のストールと小さめの手提げ鞄。
多分自分と同年代だろうに、和服をごく自然に着こなしている。
なぜか目を離せずにいると、何かを探すように彼女は首を傾けた。
肩越しに見えた顎のライン。
緩いまとめ髪から続く白いうなじ、そこに並ぶ二つのほくろ。
――まさか。
「……菖蒲?」
雑踏の中届いたらしい俺の声に驚いて、勢いよく振り向いた顔に見覚えがあった。
菖蒲結衣。
大学時代の、恋人だった。
「っ、ああ、やっぱり菖蒲だ。どうした、迷子か?」
「……徹くん?」
菖蒲は今にも泣き出しそうだった顔を驚きに変えて、こちらを見上げてくる。
学生の頃から道を覚えるのが苦手な奴だった。あまりの駅前の変貌ぶりに、降りる駅を間違えたとか思っていたのだろう。
「久しぶり。赤峰の結婚式だろ、この時間にここにいるってことは、菖蒲も二次会からか?」
――そういえば新婦となった莉奈とは仲が良かった。それでわざわざ上京してきたのか。
確かめるように何度も瞬きを繰り返す顔を見下ろせば、あまりの変わらなさに記憶が揺さぶられる。
「……うわぁ、本当に徹くんだ……ねえ、ここ、どこ?」
「ははっ、再開発してからは初めてか。俺も滅多に来ないからな……そうだな、建物は新しくなってるけれどあの店はまだある。あそこ、見えるか」
先程見つけた、覚えのある看板を指さす。
ガラス張りのビルに変わっているが、半地下にある喫茶店の佇まいはあの頃と同じだ。
「……ああ、本当。信じられない」
目を細めて眺めて、ようやく納得したようだ。あんまり驚いていて可笑しくなる。
「駅前も変わったな。二次会の店はあそこの奥の通りにある。開場の時間までまだあるし、少し暇を潰すか?」
昔、二人でよく通った店は、マスターが変わっていなければ二、三時間はゆっくりできるはず。
まだ戸惑いながらも、菖蒲は頷いた。
着物の歩幅に揃えて少し歩調を遅くする。
そんな俺にまた少しだけ驚いた顔をして、思い出したように菖蒲は笑った。
……変わらない横顔、耳の形。
笑う時に指先を顎に当てる癖。
あまりに自然に隣を歩く彼女に、胸がざわついた。
半地下の店内の奥側は陽が殆ど入らない造りで、雰囲気のある間接照明で黄昏色に染まっていた。
ビル自体は新しくなっているが、この店は取り残されたようにあの頃のままだ。
さほど広くはない店内の、ちょうど空いていた奥のソファー席に腰を落ち着ける。紅茶派だったはずの菖蒲が頼んだのは、ブレンドだった。
「コーヒー、飲むようになったんだ」
「涼さん……旦那さんがね、好きなんだ。淹れてもらっているうちに、私もだんだんね」
予想はしていたはずなのに、どうしてか胸がどくりと音を立てる。
思わず確かめたその手に指輪は見えなかった。
「……結婚、したんだな。ああ、そういえば金属アレルギーだったか」
「治らないわねー。ネックレスだってピアスだってしたいのに」
薬指を触りながら眉を下げて笑う。その表情に、店内に流れるアナログレコードの音楽に、心はあの頃に引き戻される。
「まあ、なくてもいいんじゃないか、着物には」
「お義母さんのを借りてね、お茶の先生をされているの」
「へえ、似合ってる」
ふふ、と照れくさそうにカップを持ち上げた。
「野口」
「え」
「野口結衣になったんだ、私」
「……よかったな、普通の苗字」
「でしょう」
微笑みながらこくりとコーヒーを飲む姿を、知らず見つめていた。
『結衣って、下の名前で呼んでください』
ゼミの自己紹介で、変なことを言う女だと思ったが、理由を聞けば納得はした。
菖蒲、という少し珍しい名字のせいで、身内以外から一度も下の名前で呼ばれたことがないという。
友達と名前で呼び合うというシチュエーションに、子どもの頃からどうしようもなく憧れている。
社会人になったらどうせまた苗字だろうから、せめて今だけは。
そう訴えて皆から、結衣呼びを勝ち取っていた……俺以外は。
『もう、どうしていつまでも名字で呼ぶの?』
『俺は俺の好きなように呼ぶ』
『じゃあ、私が代わりに徹くんって呼ぶね』
どうして周りの奴らと同じ呼び方をしなきゃならない――なんて、今にして思えば、その時とっくに惚れていたんだろう。
外見はどこまでも女なのに、男よりもさっぱりとした性格。
柔らかな声で、一癖も二癖もある院生や教授を論破する。ドライな態度を取っているくせに、結局最後には絆される。
そんな彼女が、どうしようもなく気になって仕方がなかった。
お互い上京者同士でアパートが近かったのをいいことに、しょっちゅう誘い出して付き合わせた。
食事や買い物、ちょっとした外出、飲み会……警戒心はあるが人のいい菖蒲が、うっかり俺に慣れるまで、ただの友達の顔を見せ続けて。
すっかり気を許した頃に、酔わせて半ば無理やり手に入れた。
――どうしても、欲しかった。
「今、徹くんは?」
「……息子がいる。幼稚園の年中」
「え、見たい!」
瞳を輝かして写真をねだられる。
急かされて取り出した画像フォルダにあったのは、三年以上も前の、ハイハイをしているのが最後だった。
「わあ、赤ちゃんだぁ。かーわいい……」
「今はもう、大きいけどな」
「年中さんかあ。七五三、男の子は五歳だよね。こっちの人は数え年齢でするの、それとも満?」
「そうなのか? 知らない」
「ええっ! あーもう、男のひとはこれだから」
写真は後からでも撮れるからお参りだけはしたら、と言いながら、数枚しかない写真を満足そうに眺めてスマホを戻される。
「菖蒲はどうなんだ」
「子ども? 私ね、産んだら死ぬよって、お医者さんと旦那さんに止められてるんだ」
――驚いた。
「あ、気にしないで。仕方ないこともあるのよ」
「……そっか」
子ども、好きだったはずなのに。
何と言っていいか分からず、視線を逸らしてコーヒーを飲む。
菖蒲はそんな俺の顔を覗き込んで、悪戯っぽく目を細めた。
「ふふ。ねえ、困ってる?」
「そんな話を聞いて、困らないわけないだろう」
「相変わらず、優しいのが顔に出ないひと」
「余計なお世話だ」
「照れなくてもいいのに」
そう言って、からからと楽しそうに笑う――まるであの頃のようだ。
あまり動かない俺の表情から感情を読み取れるのは、付き合いの長い赤峰のほかはこいつくらいだった。
別れようと言ったのは俺だ。
就職した菖蒲と、院生になった俺。半同棲の付き合いは続いていたが、慣れないうちから残業や休日出勤が続いた菖蒲は、徐々に体調を崩していった。
社会人二年目の夏。ようやく取れた連休を使って、菖蒲は久しぶりに帰省をして……郷里で倒れた。
直接の病名はアレルギー性胃炎と聞いたが、それだけではなかったはずだ。
入院先の病院からかかってきた電話の声の力のなさに、嫌な予感がしたのを覚えている。
「頼まれたのは、今日送っておいたから」
『うん、ごめんね手間かけて。ありがとう』
「いい。それでお前、どうするんだ」
『……両親は、仕事を辞めてこのまま地元に戻れって』
まあ、そうだろう。
親元を離れた一人娘が入院なんてしたら、手元に戻したいと考えておかしくない。
『おばあちゃんに泣かれちゃった……そうしようかと思ってる』
仕方ないだろうな、そう言って電話を切った。
……引き止めるのは我が儘だとわかっていた。
まだ学生の俺に何が出来る。
就職先こそ内定を取っているが、生活が軌道に乗るまでにどのくらいかかる? その間に体調がまた悪くならないとは限らない。
菖蒲は都会に合っていない、それは付き合い始めてすぐに分かった。
子どもの頃よりは丈夫になったと本人は言うが、よく熱も出すし、人の多いところも苦手。買い物も外食も特に興味がない。
ただ、首都圏はいろいろな催しがあると、喜んで美術館などには出かけていた。
俺の実家は普通の地方都市だが、今やっている勉強を活かせるような職はない。このままここで生きていくつもりだ。
菖蒲は、違うだろう。
話の端々に見える故郷への、家族への想いは「いつか帰る」ことを示していた。
それが今になっただけ――自分にそう言い聞かせた。
二週間弱の入院と自宅静養。退職手続きやアパートの退去の為に一度戻ってきた菖蒲は、顔色は良くなったもののすっかり痩せていた。
「ずっと、飲む点滴みたいなのだけだったんだ。ようやく一日一食だけ普通食になったんだから」
「……そうか」
骨が目立つ手首を見つめて、大変だったなとしか言えなかった。
遠距離はしない。
物理的に離れた人間を言葉で縛ることも、会えない触れられないことに苛立つこともしたくなかった。
何ひとつ、将来を約束できないのに。
ありがとう、そう言って去った菖蒲。
何かあったらいつでも連絡しろと言ったが、決して電話もメールもお互いにしないだろうことは想像がついた。
毎晩のように体を重ねても、外で手を繋ぐことはない。それでも唯一隣を歩く異性……そういう二人だった。
将来に確信が持てず、たった半年の卒業までの時間が、果てしないものに思えて諦めた。
あの時もし、手を離さなかったら。
みっともなくしがみついて、足掻いて、二人が続いていたら――今の俺は。
あのマンションで帰りを待つのが菖蒲だったら。
公園の親子のように、笑えていたのだろうか。




