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六分儀  作者: 小鳩子鈴
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ろくぶん-ぎ【六分儀】

[物]遠い二点間の角距離をはかる小型の器械。航海・測量用。セクスタント

(引用:旺文社国語辞典)



***



 

 披露宴の招待状を送ってもいいか。

 大学時代の同期からの久しぶりの連絡は、自身の寿ぎを告げるものだった。


「え、お前とうとう結婚するの、相手は?」

莉奈りなだ。変わってないよ』

「へえ、おめでとう……よかったな」


 まあなあ、とスマホの向こうで居心地の悪そうな声がする。

 大学の時から既に十年以上付き合っている二人だった。早い時期に結婚を見据えながらも、お互いの家庭の事情が絡み話が進まないと言っていたが、ここにきてどうにかなったようだ。


『ようやくだよ。で、どうだ?』


 ちょっと日が近くて悪いんだが、と告げられたのは翌月末の日曜日。

 それを聞いて内心で溜息を吐く。


「ああ……、祝いたいのは山々なんだが、今やっているプロジェクトの締めがそのすぐ後だ。たぶん日曜も出勤になるだろうから」

『忙しいな』

「仕事があるだけマシさ。二次会は? 夜だったら行けると思う」


 二次会は俺達が通った大学の最寄駅にあるレストランで予定しているという。そちらへの参加を伝え通話を終えた。

 今の電話で起こされたのだが、時刻はすでに昼に近い。

 金曜の昨日も残業で、帰宅したのは日も変わってからだからこんなものか。

 睡眠時間の割に体の疲れが取れた気がしないのは、しばらく窓も開けていない部屋にこもった空気のせいか、ドアの向こうから漏れ聞こえてくる息子の声のせいか……首を左右に伸ばすとベッドを下りた。

 着替えて顔を洗い、騒々しいリビングのドアを開ける。

 とたん、走って飛びついてくる息子の手荒い歓迎を受けた。


「おとうさん、おっとうさん! これ、レゴのひこうきー!」


 リビングと続きの和室は足の踏み場もないくらいに細かいブロックが散乱している。ソファーの上は、クッションだかブランケットだか洗濯物だか分からないもので座る隙間がない。

 もうじき昼だというのにダイニングテーブルには朝食の食器が置かれたまま。

 椅子にも幼稚園のカバンやら上着やら工作やらが盛り沢山なひどい有様で、はっきり言って居場所がない。

 一応は飛行機と認識できる不格好なモノを目の前で振り回されて、もう少しで顔に当たるところだ。


「ああ、飛行機な。分かったからちょっと離れろ」

「ひこうきー!」


 幼稚園の年中の息子は、よく言えば活発。有り体に言えばうるさい。

 俺から離れるとすぐさまジャングルみたいなソファーに乗り上がり、飛行機を飛ばそうと跳ね回る。


「ああ、れん、危ないってば! ソファーの上でジャンプしないでっ」


 ベランダで洗濯物を干していた妻が、部屋に戻ると同時に小言を言い始める。

 ……そこの服の山を片付ければいいだろうに。

 妻が自分でこだわって選んだソファーもダイニングセットも、買った時のありがたみのかけらも残っていない。

 ありがとう、大事にするね。満足そうに言ったあの時の笑顔は何だったのか。


「あら、ようやく起きたの」

「電話で起こされた。赤峰あかみね、覚えてるか? 結婚式でスピーチしてもらった、俺の大学の同期で」

「ああ、あの……久しぶりじゃない。九州かどこかに転勤してなかった?」


 息子をソファーから抱え下ろしながら、こちらを見ずに口だけで尋ねてくる。


「戻ってきた、つい先月な」


 赤峰は俺達の結婚式に出た後、急な転勤で地方に行った。時々連絡は取っていたが、会う機会などはなかった。

 ……そうか、もう五年か。

 ありきたりだが、あっという間だ。


「結婚するから披露宴に出てくれって」

「ふうん。いつ?」

「来月末」

「えっ、ずいぶん急ね! 普通、招待状って三ヶ月前でしょう」


 そんなの知らん。


「日中は仕事だ。二次会だけ出る」

「……そう。キッチンのカレンダーに書いておいて」


 大仰なため息をまぜて言い捨てると、遊び続ける息子を和室に追いやり、見せつけるように洗濯カゴを持って洗面所へと消えた。


 ……なんなんだ、全く。


 話している間も、一度も目は合わない。

 荒れた家、荒れた態度。最近はこんなことばかりだ。

 口調こそ普通を装っているが、妻も俺も内心のイラつきがそのまんま表情に表れている。

 一週間、残業続きで疲れているのに休まる場所がない。

 このマンションは俺の稼ぎでローン支払っているはずだが、かろうじて居られるのが寝室のベッドの上だけというのはどうかと思う。

 正直、その布団だって最後に干したのは一体いつなんだか。


 裸足の足裏にざらりとしたものを感じながら、財布とスマホをポケットに突っ込む。

 黙って玄関へ向かうと後ろから声が掛かった。


「ちょっと、お父さん? どこ行くの」


 ()()()()

 そうとしか呼ばれなくなってどのくらいだろう。


「どうせ二人は朝飯遅かったから、昼は食べないんだろう。外行って、ついでにメシ食ってくる」

「……夕飯は?」

「あるんなら家で食べる」

「わかったわ」

「おとうさん、おでかけー?」


 僕も僕もと叫ぶ息子の声を遮るように片手を上げて、扉を閉める。

 エレベーターを降りマンションのエントランスを出ると、ようやく息が吐けた。


 急行の止まるターミナル駅から徒歩十五分。閑静な住宅街に建つ、ファミリー向け中規模マンションを購入したのは三年前だ。

 物件を気に入った妻の留衣るいに押し切られる形で手に入れたそれは、もとより俺の意見など反映されていない。

 評判のいい小学校の学区で、各私立中学へも交通至便。

 女性向けに水回りが充実した設備。内装のセレクトは壁紙、照明から家具に至るまで妻主体。

 北欧風だかフレンチスタイルだかの白を基調とした3LDKに、もちろん俺個人の部屋などない。


 最初は塵ひとつでも目くじらを立てていたのに――それもどうかと思っていたが、最近のあれはなんだ。

 もともとたいして料理のできるやつじゃないが、この頃は食事だって出来合いの総菜か、カレーやシチュー。弁当なんか頼もうものなら、冷凍食品で埋められる。

 妊娠中毒症が酷かった留依は、勤めていた会社を辞めて専業主婦になった。息子がもう少し大きくなったら再就職する、と言っているが、どうだか。 


 働くのは嫌いじゃない。

 大学院でまで学んだ希望の職種だ。

 だが、激務でしんどい思いをして稼いでいるのは、何のためだ。


 こんな毎日のためか。


 近所の幼稚園に行かせればいいものを、わざわざ送り迎えをして遠くの園へ通わせている。

 お受験に力を入れている幼稚園で、落ち着きのない息子は持て余され気味だという。

 小さい男の子なんてそんなものだろうと言えば、あなたは何も分かっちゃいないと息を巻く。


 イライラと波立つ気持ちを宥めながら、足を進めた。

 幹線道路沿いにある大きな神社を抜けると、境内に隣接している公園には何組かの親子連れの姿があった。

 笑いながらボールを追いかける父子。

 水筒を手にベンチで応援している母親、ブランコを揺らす別の親子。

 秋めいてきたもののまだ暑さが残る日差しの下で、どの親も子も楽しそうだ。


 自分達と似たような年齢の夫婦、似たような小さい男の子。

 彼らと俺達と、何が違うのだろう。

 どうしてあんなに普通に笑えるのだろう。


 ――普通って何だったろう。


 行きつけの小料理屋の暖簾が出ていることにほっとして、店の引き戸に手を掛けた。


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