最後の平穏
場所取りの争いなど、僕には無関係な話だ。ああいうものは、全国紙とか大手ウェブメディアが繰り広げるものにすぎない。僕の席は、誰が用意したわけでもないが、なぜかいつも後列にしっかりと空席のまま残されている。
十分に席が空いているのを確認して、傍に用意されているウォーターサーバーの水を一杯いただく。席取り争いがない以上、あまり早く席についても手持ち無沙汰だ。僕と同じような若い記者は、たいてい落ち着かないまま席に座り、特に読んでいるわけでもないタブレットを左右に撫で回して左右を見比べたりする。いっそのこと携帯ゲームでもやっていた方が落ち着くと思うのだが、そういう肝の据わった若手はそうそういない。
側から記者たちを眺めていると、科学記者の界隈ではよく知られた顔が紛れているのに気付いた。反対側の壁際で若手から挨拶を受けている。こちらから挨拶に行くのが礼儀だろうが、ここは気づかなかったことにしておこう。大真面目なタイプはどうにも馬が合わなくて嫌いだ。
しかし、彼が来ているということは、少なくとも次のように評価するべき会見なのかもしれない。少なくとも今この瞬間、日本で一番報道するべき科学ニュースは、この会見場で発表される。それはつまり、日本という国が生産しうる先端技術の上限を露呈するという意味でもあるのだが。
残りの水を一気に飲み干して、腕時計を見る。まだもう少し時間がある。紙コップをダストボックスに放って、もう一度記者たちの顔を検める。若い男の腕章に、大学新聞の文字が見えた。少し首を動かして覗いてみると、未来工科大学の大学新聞らしい。
記者会見が始まるまでの余興に、さっきの女の苦情でも叩きつけといてやろう。いくらかマシな暇つぶしにはなりそうだ。
「やあ、学生かな?」
「はい。お疲れ様です」
まだ20代前半の青年は、スーツに背筋を伸ばしたまま、自分が何も間違っていないみたいな顔をして愛想笑いをする。まったく嫌になる顔だ。
「敬語はよしてくれよ、そういうのは嫌いなんだ。それはそうと、君のところに女の子の記者、いるだろ?」
「え? ああ、たしか、いたと思います。彼女が何か?」
「さっき外で声をかけられてね。あれは、使えないだろ?」
こちらがどういうつもりで声をかけたのかわからないようで、視線に戸惑いが伺える。どういうスタンスで話しかけられているのか分からなければ、自分の言葉すら見つけられない、ありがちなボンクラ野郎のようだ。
「はあ。あまり、知らないものですから」
こういう真面目でそつないのが評価される世界だ。言葉で勝負する連中がそろって失語症ときているのだから、まったく話にならない。
「ありゃおたくの評判下げるぜ? まあ大学新聞の評判なんて、あってないようなものだけど、ほら、就職活動の評価は下げたくないだろ?」
まるで自分が大手の有力記者であるかのように話してみる。学生はその辺の力関係に疎いから、こういう冗談にすぐに騙される。そのあたりからして、記者には向いていない。
「なにか失礼がありましたか?」
「彼女が今日何をやっていたか、直接聞いてみな。道行くおじさまに個人レッスンのお願いなんて、いまどきの子はわからないねぇ」
そこまで言って、一方的に席を離れる。嘘は言っていないが、完全に誤解させる表現だ。あとで彼女の耳に入れば、彼女はいくらか静かに過ごすようになるだろう。それでもムキになって積極的に活動するなら本物と認めてやらなくはない。本物のバカだと。
さて、小さな暇つぶしを終えたところで、仕事に戻ろう。後ろの方で、うちが契約している写真会社のカメラマンが仕事をしているはずだ。挨拶をしておかないと、僕がサボったものとして社長に伝わりかねない。
会場の後ろの方を見れば、それだけですぐに彼の所在がわかる。馬みたいに面長な顔にブロッコリーみたいな髪を乗せて、ランボーか何かのような肉体に弾帯のごとくカメラを装備した男がそれだ。
「斉藤さん、どうも」
「あ、古小路さん! どうもお世話になっております」
同い年か一つ上か。そんな年齢で、わりと話もわかる相手だ。ちょっとだけ頭の回りが遅いのだが、記者ではなくカメラマンなのだから、それを求める気もない。
「先に参考写真とかってもらってます?」
ごくまれに、模式図や特殊な条件下での写真が各報道局に配布される場合がある。今回は望み薄だったが、一応聞いておくに越したことはない。
「いや、今回はありませんよ。完全初公開です。事前に見せたら人が集まらないのか、それとも相当度肝を抜かす仕上がりなのか…」
顔に比例して随分発達した前歯を見せて馬のように笑う。タバコを吸わないからか、白いエナメル質が健康的なのが幸いだ。彼自身気にして手入れしているのだろう。
「たぶん人が集まらない方でしょうね。なんなら賭けますか?」
「いいや、賭けはよしときますよ。二人とも同じ方に賭けちゃ賭けにならない」
「それもそうか。それじゃ、いい写真お願いしますよ」
「ええ、そちらもよいご質問を」
それだけの挨拶を交わして、僕はようやく自分の席に移動する。残り時間はもうほとんど残っていない。これなら退屈せずに会見を迎えられそうだ。
懐から電子メモを取り出し、付属のペンでノックする。画面が立ち上がり、初めの文句を書きはじめた。
2017年4月26日(水)14時
東京未来工科大 岩川キャンパス 1号館
佐伯京介教授・丸山峙大准教授 新型ロボット発表会