【六】
目が覚めると、すぐそこに、大きな背中があった。
上着は脱いでしまって、薄いシャツだけだが、お腹のあたりには、誰がかけたのか膝掛けのような物が見える。
幸い、部屋の中は暑くも寒くもない。
花自身は、朝顔がどこからか引っ張り出してきたタオルケットを体に巻き付けているだけだ。
朝顔はと探してみると、少し離れた場所で、同じくタオルケットにくるまって丸くなっていた。狐面はつけたままなのが、なんだかおかしい。
「結局、雑魚寝なんだ」
思わず笑ってしまった花である。
夕べ、結局三人で、このマンションで御飯を食べたのだ。
材料は、狢が揃えた。
お酒まであった。
嬉々として料理を作る狢と、放っておけばいいよと笑う朝顔を前に、困ってしまったのも覚えている。
気がつけば、テーブルの上には、料理が並び、サア喰えとばかりに満面の笑みを浮かべる狢がいた。
そのうち、酔っ払った狢が泊まるといいだし、危ないと文句を言う朝顔まで泊めることになり、それからは、もう宴会状態だ。
狐面を器用にずらして食べ物とお酒を口にする朝顔と、水の如く酒を飲む狢。
花は、見ているだけで酔ったような気になってしまったのと、自分の年齢がはっきりしないという感覚があるため、酒には口をつけていない。狢も朝顔も勧めてはこなかった。
そうこうしているうちに、花はいつのまにか眠ってしまい、その後の二人がどうなったかは知らない。
きっと二人は酔いつぶれてしまったのだろう、と想像するだけだ。
ただ、夕べ、二人が花を心配して気を遣ってくれたことが嬉しかった。なるべく場が暗くならないように、面白い話をしてくれたりもした。
その中で、花に起こったことも忘れたりせずに、ちゃんと話し合った。
出た結論は、白鷺に相談してみるということだった。
二人によると、あの奇妙な少女は、この異界の者ではないらしい。
花にはわからないが、別の界のものが突然現れて、その界の者にちょっかいを出すのは、大問題なのだという。
そういうことは、鈴のことがなくとも白鷺に報告するべきだ、というのが狢の主張だった。
明日になったら、白鷺のところへ行く。
そう約束したのは確かだ。その後、安心してしまった花は、目の前の料理をお腹いっぱい食べてしまい、気がつけば寝ていたというわけだ。
もう一度、目の前の大きな背中を見つめる。
まだ、花には『鬼』という存在が何なのかわからない。会うたびに『囓らせろ』というが、実際にそれを実行したことはないし、花が本気で嫌がれば何もしてこない。
だから、変な人、ちょっと恐い人、と思う程度にしか思えないのだ。
敵か味方なのか、現時点ではわからない。
けれども、敵であってほしくないと思う。
朝顔にしてもそうだ。
二人が自分に敵対するものでなければいいと願ってしまうくらいには、気持ちを許してしまっている。
気弱になっているとは思うが、こんな状況なのだ。
きっと一人だったら、ここまで気持ちに余裕はなかったはずだ。
「ああ、もう朝なのかい」
ぼんやりと、朝顔を見つめていると、眠たげな声が彼女から聞こえた。
「おはようございます」
そう言いながら花が起き上がると、すぐ側の大きな背中が動いた。
「なんだよ、もう朝か」
狢の声は、かすれていた。
恐らくお酒の飲み過ぎだろう。
「朝御飯を食べたら、主様のとこに行かないとねえ」
昨日話し合ったことは、ちゃんと覚えておいてくれたらしい。
「朝御飯、私が作りますね」
そのことが嬉しくて、まだ動きの鈍い二人に声をかけると、花は立ち上がったのだった。
「もう一度登ることになるなんて」
長く続く石段を見上げて、花がため息をつく。
最初の日、この石段を登るのはきつかった。途中、何度も諦めようと思ったくらいだ。
再度、朝顔に確かめても、この石段以外の道はないと言う。
「俺が背負っていってやろうか」
にやにやと笑う狢は、どう見ても何か企んでいそうな感じだ。
「いいです。報酬に囓らせてくれとか言われると嫌だし」
「信用されていない」
落ち込んだように肩を落としても、顔は笑っているのが、ますます怪しかった。
「まあ、疲れたら言えよ。休憩を途中で入れればいいんだから」
がんばります、と曖昧に答えると、後はもう無言で足を動かすだけだ。
そうやってようやくたどり着いた頂上だが、一番先頭を歩いていた朝顔が立ち止まって辺りを見回しはじめる。
「変だね、妙に静かだし、生き物の気配がない」
朝顔が言えば、狢も頷く。
「何の匂いもしないってのは変だな。主は留守なのか? だとすれば、めずらしいんだが」
「そうだね、とりあえず、入ってみよう」
二人は、勝手に扉を開けて中に入っていく。鍵はかけないのか、そもそも相手の返事も待たずに入るのはいいのか、と悩むのもばかばかしいほどに、二人の態度は自然だ。
いつものことなのか、これがこの家では当たり前なのか、不安に思いつつも、小さな声でお邪魔します、と言うと、花は家の中に入る。
狢たちの姿は、もう見えない。
どこの部屋にいるのだろうかと思っていると、前に入ったことのあるリビングから、狐の面が覗いた。
「やっぱり、主様は留守みたいだよ。伝言のメモが置いてあった。万が一花が訪ねてきた時のためにって、わざわざ残していったようだね」
言葉とともに手が現れ白い紙がひらひらと揺れる。
「用事があって、出かけているみたいだね。それから、今ちょっと、西側がごたごたしているから、そっちには近づくなだってさ」
「それって、どういう意味でしょう」
「さあねえ。主様は、ここを纏めるのが仕事だからね。問題が起こったら、それを解決しないといけない」
白鷺が自分自身で、調停役のようなものだと言っていたはずだ。
実際、どんなことが起きたとき、何をするのかはわからないままだが、それが仕事だと言われれば、花には邪魔をすることはできない。
今日はこのまま帰った方がいいのだろうか。
白鷺を待つというのもひとつの手だが、いつ戻ってくるのかもわからないのだ。
どうするべきかと考えながら、花が狢を見ると、やけに深刻な顔をしていた。
「狢さん?」
花が声をかけると、いつものような陽気さを見せず、目を細めた。
「西、っていうのが気になるって思ってな。方角は気にしていなかっただろうが、夕べ、花が厄介事に巻き込まれた場所は、この町の西側なんだ」
思い出してみれば、あの少女は、妙な空間を作り出していたようだった。結界、と朝顔は言っていたが、それが異界に何か影響を及ぼすというのならば、狢たちにとっては大きな問題なのだろう。
「ちょっと、様子を見てくるかな。もし厄介事なら、俺も役に立つかもしれないし」
「大丈夫なんですか?」
「大丈夫、大丈夫。花と朝顔はここにいろ。俺か白鷺が帰ってくるまで、外に出るんじゃないぞ」
そう言い残して、狢は行ってしまう。
取り残された形の花は、朝顔に勧められるままにソファーに腰を降ろすが、落ち着かない。
同じようにそわそわとしている朝顔は、何度も窓の外を見ている。
「……嫌な感じだねえ」
小さな声だったが、静かな部屋の中ではやけにはっきり聞こえた。
「ここは、元々、問題事は滅多に起こったりしないところなんだよ。大抵は主様が出る前に解決する」
「そうなんですか?」
「ああ。界によっては、常に危険と隣り合わせってところもあるようだけどね、ここは比較的穏やかな場所なのさ」
確かに、ちぐはぐな感じを受け、生きて動いている存在にはわずかしか会っていないが、危険だとはあまり思わなかった。むしろ、出会う相手が皆妙な人たちなので、そちらの方が気になってしまったほどだ。
あの少女に会うまでは、焦りはあるものの、身の危険に関しては本気で心配はしていなかった気がする。
「この鈴、何なんだろう」
ポケットの中に入れていた鈴を取り出して、じっと見つめる。
あれから、何度も無くなっていないかと確かめてしまうことになった鈴。手放してはいけないと思うのに、それが何なのかはわからない。
「……それは、自分で見つけないとね」
誰かに問いかけたというわけではなかったが、朝顔からはそんな返事が返ってきた。
それはわかっている。
頭では理解もできているのだが、やはり心の内ではもやもやしたものがあるのだ。手掛かりが少なすぎるということも要因なのかもしれない。
ため息をひとつついて、花は鈴をポケットにしまった。
今はここで悩んでいても仕方がない。それよりも、気になるのは、白鷺が行った『西』で何かあったのかということだ。昨日会った少女と関係があるとすれば、それは花にも関わることかもしれないのだ。
「狢さん、大丈夫かな」
様子を見に行くといって出て行った狢はどうしているのだろう。無事白鷺と会えたのか。
「狢のことが心配なのかい?」
朝顔に問われ、頷く。
「あれは大丈夫だよ。鬼だからね」
なんでもないことのように朝顔が言うものだから、わずかに身を乗り出して花は彼女を見つめた。
皆が皆、『彼は鬼だから』という。本人さえも、そう告げた。それで全てが解決してしまっているかのような態度だが、ここの住人ではない花には、今ひとつぴんと来ない。
「ねえ、花。こんなことを私が言うのも変だけどね。鬼は、所詮鬼なんだ。狢はいい奴だし、私は嫌いじゃないけど、あんまり気を許さない方がいい。花は、まだこちら側ではないんだから」
「鬼って、そんなに恐いものなんですか?」
聞きたくて、聞きそびれていたことが、今なら言える気がした。
花にとって、知っている鬼は狢だけだ。おそらく、朝顔や骨董屋の店主の態度から、彼ら自身は鬼ではない。一見友好的に接しているように見えながら、朝顔達は鬼という存在を恐れているようにも見えた。
「恐いとは思わないよ。ただ、おかしな存在だとは思うね」
「おかしな存在?」
「鬼は、ある日突然、異界で生まれるんだ。花のようにどこからか流れてきたわけでも、異界の者同士が結ばれた結果生まれた存在でもないんだよ。生まれた時には、もうあの姿だし、老いることもない。死はあるけれど、それだって、突然消えちまって、姿さえも残らない」
見た目は、人と変わらないように見えるのに、やはり人ではないということなのか。
「狢は、鬼としてはまだ若い方だけれどね、それでも人に比べればずっと長く生きている。それだけなら、他にもいるけれど、鬼は時々突拍子もないことをするから」
「……人間を食べるから?」
小声で訪ねると、朝顔はあっさりと頷いた。
「そうだね、鬼達はそう言っている。いろいろ制約はあるみたいだけれど、その辺りも私にはわからないよ。食べるところを見たわけでもないし」
「他の鬼も、あんな感じなのかな」
「狢以外とは、あまり交流がないからねえ。でも、雰囲気は似たようなものだ」
皆が狢のようだとすれば、他の鬼に会った時も気を付けなければいけないということだろうか。
「まあ、最終的に、どうするかを決めるのは花だ。ただ、頭の中に鬼というのは、得体が知れない存在だということを入れておいてほしいってことだよ。他の鬼に会っても同じだからね」
念を押すように言われれば、頷くしかなかった。
花がわからないだけで、やはり鬼はとても恐ろしいものなのかもしれない。初めて会った時、確かに『恐い』と思ったはずだ。狢と接する内に忘れてしまっていたけれど、あの直感が正しいのだとすれば。
「やっぱり、わからない」
思わず口に出してしまったが、それが聞こえたであろう朝顔はそれについては何も言わなかった。
黙ったまま、視線を窓に向けると、『帰ってこないねえ』と呟いた。
それほど時間がたっていないと思っていたが、そうでもなかったらしい。壁に掛けられた時計の針は、ここへ来た時よりもかなり進んでいる。
「本当に、嫌な感じだよ」
再度呟いた朝顔は、それきり黙り込んでしまう。
沈黙の中、花は、開かない扉をぼんやりと見つめるくらいしかできなかった。




