【参】
明るい光を感じて、花は目を開いた。
朝だ、とぼんやりと思って、次に視界に入った見慣れない部屋に、内心がっかりしてしまった。
もしかすると、昨日あったことは夢で、起きれば元に戻っているかと、わずかばかりの期待を持っていたのだ。
現実には、花は何も思い出せず、狢に連れてこられたマンションの一室にいるままである。
「やっぱり、そんなにうまくいかないよね」
そう呟くと、花は起き上がる。
部屋の中をぐるりと見回すと、夕べのことが思い出され、口元がほころんでしまった。
昨日の夜、狢に連れてこられたのは、可愛らしい外装をしたマンションだったのである。
あまりに普通のマンションだったので、花がぽかんととそれを見上げていると、狢や朝顔に笑われてしまった。
狢によると、この異界には、迷子が落とした記憶を元に造られた物がいろいろあるのだという。曖昧で不確かなこの世界では、記憶から物を再生することができる存在がいて、大昔のものから最新のものまで、ありとあらゆる物があちこちに散らばっているらしい。
言われてみれば、白鷺の家は古民家などではなかったし、町の中を歩いた時にも、様々な家が建ち並んでいた気がする。
『異界』と言われて、それほど違和感がなかったのも、そんな雰囲気のせいかもしれない。
ただ、もやもやした何かだけは、心の内に残っている。
落ち着かないのだ。
狢が案内してくれたこのマンションは居心地がいいが、入口にも廊下にも、人の気配はなかった。外から見たときには、いくつかの部屋に明かりが付いていたから、誰もいないということはないのだろうに。
まるで、無人のマンションに一人でいるようだと思った。
窓を開け放しても、真下の通りを誰かが通ることはないし、上下や左右かの部屋から生活音のようなものも聞こえてこない。防音がしっかりしているという言葉ではかたづけられない不気味さがあった。
それなのに、だ。
もう一度、花は、自分が寝ていた部屋の中を見回す。
「どうして、ここは、こんなにも普通なんだろう」
ありふれたデザインの家具に、どこにでも売っていそうなカーテンやシーツ。
驚いたことに、女性物の服や下着などもあって、思わず『ここに誰か住んでいたの?』と訪ねてしまったくらいだ。
元々、ここはマンションの記憶を持っていた人間の部屋を模したものらしい。
言われてみてば、置かれている家具も、女性が好みそうなものである。
ただ、洋服ダンスの中の服は、花にはサイズが合わなかった。
冷蔵庫もあったが、中身は飲み物やお菓子ばかりだったし、バスルームには石鹸はあっても、タオル類はなかった。
どこか中途半端で、『記憶の中にあった誰かの部屋』と言われれば、納得できそうな場所だったのだ。
それでも、目に見えるところはちゃんと整えられていて、花が今いるベッドの寝心地はよかった。シーツの肌触りも満足できるもので、朝顔と狢があっさりといなくなってしまったことで、一人きりでは寝られないかもと思っていたのが嘘のように、横になったとたん、眠りに落ちていたのだ。
疲れていたのは事実だが、少し自分でもおかしいではないかと思う。
こんなわけのわからない状況で、知らない男に紹介された部屋で無防備に眠るなど、自分でも無謀すぎると思う。
警戒心がわかないのも変だし、ここが安全かの確認さえしなかったのだ。
もしかすると、自分が『落としてしまった』のは、名前や過去だけではないのかもしれない。
それを考えると、ため息ばかりでなく、頭も痛くなってくる。
だいたい、これからどうすればいいのかもわからないのだ。落としたものを探すにしても、手掛かりはないし、何をどこから手をつければいいのかさえもわからない。
質問をすれば、何かしら答えてくれるらしいが、今、花が知っているのは、得体の知れない白鷺、妙になれなれしい狢、わけありそうな朝顔だけなのだ。
本当に頼りになるかもわからない。
それでも、何もしないわけにはいかないのだろう。
あきらめにも似た気持ちのまま、花はベッドから降りると、部屋の隅に放り投げられていた服を手にとる。
寝間着は着ることが出来なかったから、夕べは下着だけになって寝てしまった。服で寝ることに抵抗があったし、ここは暑いのに、身に着けていたのは冬物だったから、というのもある。
このまま、これを着るのは躊躇われたが、他にないのだから、仕方ない。
諦めて、それを着ていると、チャイムが鳴った。
誰か来たのだろうか――とはいっても、ここへ来る可能性があるのは、狢か朝顔だけだ。
朝顔ならともかく、狢だったらどうしよう。
そう思ったのだが。
「おーい。起きてるか」
おそるおそる近づいた玄関で、扉越しに微かに聞こえてくる声に、何故かため息が漏れた。
無視しようかと一瞬思ったが、なんとなく、このままにしておいても、彼は帰らない気がする。
「何もないと思って、食べるものも持ってきたから、開けてくれ……って、あれ?」
そっと扉を開くと、何故か面食らった様な顔をした狢が立っていた。
「おいおい、そんなに簡単に開けるなんて、危機感なさ過ぎだぞ」
危機感、という言葉に、今度は花の方が固まった。
そんなつもりはなかった。確かに、狢とは昨日あったばかりで、何も知らない。一応、寝るところを紹介してくれたが、それが純粋な親切かどうかもわからないのだ。
初対面で囓ろうとした相手でもある。
それなのに、無防備にドアチェーンもかけず、簡単に開いてしまうなんて、だめな気がした。
それとも、普段から花自身がそういう人間だったのだろうか。
「落ち込んだ顔だな」
花の顔を覗き込んで、狢はそう言った。
狢に心配されるほどひどい顔をしていると思うと、花はつい下を向いてしまう。
「危機感がないこともそうだし、いろいろなことを忘れているんですよ。それなのに、私、割と平気でいる。……これって、おかしくないですか」
冷静に考える――そのこと事態もおかしいと思うのだが、昨日のことを思い返して見ても、自分がパニックになったり、無茶をしたりということはなかった。
不安がないわけではない。
周りのことも怪しく思っているし、信じ切れない部分もたくさんある。
ただ、その全てを人ごとのように感じているだけだ。
「どうだかなー。他の迷子に会ったことがあるが、みんなどこかぼーっとして、抜けてる感じだった気はするな」
だからすぐに迷子だとわかるのだと、狢は言う。
「そうだな。まずは、思い出せることを書き出してみるってのはどうだ?」
「思い出せること?」
「そうだ。何もかも全部忘れたってわけじゃないだろ。こうやって言葉は話せるし、物の名前も使い方も忘れていない。だったら、他に覚えていることは何かってことだよ。例えば、名前、好きなものとか嫌いなもの、ここへ来る直前のことはどうか、とか」
直前のこと、はなんとなく記憶にはあるし、狢の言うとおり、花には自分のこと以外の記憶はあるのだ。
「確かに、何もしないよりはいいかもしれない」
どちらにしても、何をしていいのかわからない状態だったのだ。
「うん。とりあえず、何か思い出せるか、頑張ってみます」
心の中のもやもやは、まだ消えないが、少しだけ気分が楽になった気がした。
「ありがとう、狢さん」
お礼をいったのは、特に意味はなかった。少しだけもやもやを晴らしてくれた狢に素直に感謝しただけのことだったのだ。
だが、狢の方は、そんな花を見て、驚いた顔をした。やっぱり危機感がない、などと呟きながら。それでも、最初に会ったときの得体の知れない印象と比べれば、今の狢の方がずっといいと花は思う。
恐くないといえば嘘になるかもしれないが、大きな体と赤い瞳を除けば、普通の人間と代わらないように見えるのだから。
「あー、なんか調子狂う。……で、俺はいつまで玄関先に突っ立って話をしてればいいんだ?」
戯けたように言われ、花はようやく緊張が取れたように笑ったのだった。
部屋の中をいろいろ調べたら出てきたノートとペンを前に、花は神妙な顔をしている。
「私、家に帰ろうとしていたんだと思う」
自分のことで、一番覚えているのは、それだ。
「家、か。どんな家だ?」
「マンション。そうだ、私はそこの3階に住んでいて、帰る途中だった」
「どこから帰ろうとしていたかは?」
「それは……わからない。ただ、辺りは暗くて……冬だった」
何度も言葉に詰まりながら話す花に、狢は根気よくつきあってくれる。
元々面倒見がいい性格なのか、それとも、本人が最初に言っていたように、食べ物としての花に興味があるのか。
「ああ、それで、花が着ている服は暑そうなのか」
厚手のシャツに、コーデュロイのスカート。タイツは脱いでしまって履いていないが、それ以外には、コートも身につけていたはずだが、鞄の類は持っていなかった。
そこまで、考えて、花は、はっとなる。
「そうだ、コート!」
やや興奮気味の花に、狢は驚いたようだが、黙って彼女の行動を見守ることにしたようだ。
「鞄は持っていなかったけれど、もしかすると、コートに何か手掛かりがあるかもしれません」
可能性としては低い。
だが、なんでもいいのだ。何か、自分のことがわかる物が見つかれば。
わずかな期待とともに、花はベッドの側に置いてあったコートを取ってくる。
「……なんだか、ちょっとくたびれたコートだな」
狢の感想に、花は顔を赤くする。狢は『くたびれた』と表現したが、実際は『汚れてしまった』という表現の方が正しい。暑くて脱いでしまったコートは動き回るには邪魔で、手に持っていたのだが、どうやらその途中で汚れが付いてしまったらしい。
移動した場所の中には、埃っぽいところもあったし、濡れている所もあった。
持っていることが面倒になって、つい乱暴に扱ってしまったのがいけなかったのかもしれない。
ひょっとすると、自分はそういうことに無頓着な性格だったという可能性もある。一瞬、落ち込みそうになったが、今はそれどころではないと気持ちを切り替える。
問題なのは、このコートに手掛かりがあるかどうかということだ。
「ポケットは、そんなについていないようだな」
狢の言うとおり、ポケットを調べるのはすぐに終わってしまった。ただ、何も収穫がなかったわけではない。
鍵と、ハンカチ、あめ玉が出てきたのだ。
ハンカチは、シンプルなデザインのもの、飴は何故か薄荷飴。何故と思ったくらいだから、これを本当に好きで持っていたのかもわからない。ただ、見てもあまり食べたいとは思わなかった。
そして、鍵。
鍵そのものは、ありふれたもので、特徴はない。ひとつだけ気になるといえば、それに古びた鈴がついていることだ。赤い紐で鉤と繋がれた鈴は、輝きを失い、少し歪んでいる。振ってみても、音はならず、中でなにかが転がっているような音がするだけだ。
「家の鍵、みたいな感じですよね」
「あんたが住んでいたっていう、マンションの鍵か?」
「持ち歩いていたならその可能性もありそうだけど、ポケットの中に突っ込んでいたってのが、なんともいえない感じです」
ちょっと近くのコンビニに、ということならありえるかもしれないが、その時は、一緒に財布などを持って出ているような気もする。
「まあ、何の鍵かはわからないけど、その鈴、ちょっと変わってるよな」
狢が花の手の上の鍵を、ひょいと取り上げた。鍵の部分を持って、ぶらぶらと鈴を揺らした後、下部分の切れ込みから中を覗き込む。
「……中に、玉は入っているのに、鳴らない鈴、か」
呟かれた言葉に、花は首を傾げた。
「音が鳴らなくなるほど、潰れているわけじゃないのに、変ですよね。それを鍵に付けてもっているっていうのも謎です」
よほど大事にしていたのだろうか。
それとも、何か思い入れのあるものなのか。
……何もわからない。やはり自分の関することだけ、わからないのだ。それ以外のことは、いくらでも思い出せるのに。
「本当に、何から、手をつけたらいいんだろう」
愚痴めいた言葉しか出てこないほどに、花はどうすればいいのかわからなくなっていた。
コートを調べることで、何か手掛かりががあればと淡い期待はしたが、それでますます謎が増えてしまうとは思わなかった。
「俺も、こればかりは、手助けしてやれないからなあ」
狢までもが、そんなことを言う。
もちろん、花にだってわかっている。白鷺に言われたように、自分が何者かは自分で探さなければならないのだ。
「せめて、この鈴がなんなのか、わかれば……」
ため息とともに、狢から鈴を返してもらう。
しっくりとくる感触に、間違いなく自分にとっては大切なものだとは思うのだが。
もう一度、ため息を口から吐き出したとき、ふいにチャイムがなった。
誰か来たのだろうか。狢はここにいるから、後は朝顔くらいしか、訪ねてくる人間は思いつかない。
「朝顔さんでしょうか?」
「たぶんな。不安なら、俺が見てくるが」
「大丈夫、だと思います」
自信はなかったが、何故か大丈夫な気がした。それでも、用心深くそっと扉を開ける。
「やっぱり、朝顔さんだった」
廊下にいたのは朝顔だった。
昨日とは違う色の、だがやはり朝顔柄の浴衣を着て、狐面をつけている。『おはよう』と言ってきた声も、昨日と変わらない。
「服を持ってきたんだよ。どうにか着れたのは、寝間着くらいだろう?」
「……いえ。寝間着も小さかった」
そうでなければ、下着で寝たりはしなかった。
「私が適当に揃えたものだから、合うかどうかわからないけどね」
それがどんなものでも、今着ている服よりはましな気がした。
「ありがとうございます。その、どうぞ」
体をずらし、朝顔にそう言ったのは、ただ荷物を受け取っただけで帰ってもらうのは悪い気がしたのと、行き詰まった今の状態を相談したいという気持ちがあったためだ。
このまま狢と鈴を眺めていてもどうしようもない。朝顔が加われば、いい案が出てくるかもしれない。
「入ってもいいのかい?」
何故か躊躇する朝顔に、花は首を傾げる。
昨日はもっと強引だった気がするのに、何故だろう。大丈夫ですよと言うと、ほっとしたように息を吐かれてしまう。
「それなら、お邪魔するよ……って、どうして狢がここにいるんだい。ま、まさか、あんた花に何かしなかっただろうね!」
かけよって詰め寄る朝顔に、狢は信用ないなあと笑う。
「だって、あんた鬼じゃないか!」
それが全ての理由だと言わんばかりに言う朝顔に、花の方が驚く。
「花は、主から名前をもらったんだろう? だから、今の俺は花を食べることができない」
「そうだけど。だったら、どうして、花に構うんだ。ほっとけばいだろ」
「だって、今のままだと、俺にはどうにもできないし。早いとこ、名前を取り戻して“迷子”"から“人”に戻ってもらわないと」
「やっぱり、食べる気なんじゃないか」
話は見えないが、なんとなくいろいろとやばそうな言葉が飛び交っている気がする。
思い返せば、狢は、最初から花に対して『食べたい』と口にしていた。
「だから、危機感が薄い、って言われるのかな」
思わず口をついて出た言葉に、狢と朝顔が花の方に振り向く。
「ようやく、危機感が湧いてきたか?」
狢は面白そうに。
「遅すぎるよ!」
朝顔はあきれたように。
同時に言われたものだから、つい花は笑ってしまった。
「だいたい、無防備に狢を部屋に上げたのは、花の方かい? 鬼ってことを抜きにしても、男性を部屋に上げるなんて、ダメだろう」
「ご、ごめんなさい」
顔が見えなくとも、声だけで朝顔が怒っているのは十分わかった。
「まったく。仕方ないねえ。迷子だから仕方ないけれど」
「いいじゃないか。迷子は面白い存在だ」
狢は嬉しそうだ。迷子と関わるのが楽しくて仕方がないようにも見える。無邪気に笑うから、花にはどうしても彼が『鬼』であり危険な存在だと言われても、そう思うことができないのだ。
「それで? 二人して、何をしていたんだい? ご飯を食べていただけって感じじゃないだろう?」
部屋の中央に置かれたテーブルには、ノートと鉛筆、コートから出てきたものの他に、食べ物の残りがある。それを不思議そうに眺めている朝顔に、花が『これ』といって、鈴を見せた。
「狢さんに助言を受けて、いろいろ思い出そうとしていたんですけれど、その途中で、コートを持っていたことに気がついて。調べたら、中に入っていたんです」
「……なるほどね」
「でも、問題は、これを見ても、何も思い出せないってことなんですよね。手に馴染むから自分の物だと思うけど、それだけしかわからないし」
結局、狢が訪ねて来る前よりも、謎は増えてしまった。
「壊れた鈴を大事にもっていたってことは、よほど思い入れがあるような気がするんですが……。何かこう、触っただけで、これをどうやって手に入れたのか、わかればいいのに」
「それだ!」
愚痴めいた花の言葉に、朝顔が反応する。
「骨董屋の店主に見せるのがいいんじゃないか」
「骨董屋さん?」
「そうだよ。あそこの店主は、異界から流れてきた不思議なものを集めているんだけど、物の背景を見るって特技を持ってるんだ。それを見てもらうってのはどうだい?」
そんな特技を持っている人――もしかすると人ではないかもしれないが、存在するというのがやはり不思議だ。
もっとも、鬼がいるくらいなのだから、そんな変な人がいてもおかしくはないかもしれない。
少しでも手掛かりがあるのならば、全部試してみたいのも事実だ。
「可能性があるのなら、見てもらいたいです」
「よし、じゃあ、さっそく行こう」
「そうだな。こういうことは早い方がいい」
狢も何故か乗り気だ。
「もしかして、二人とも、ついてきてくれるんですか」
「当たり前だろう? あれは変わり者だから、あんた一人だと会ってくれないよ」
そういえば、この世界の生き物は、よそ者を避けるという話だった。
花が1人で行っても、狢たちの言うように、これを見てくれるという話まで持っていくことはできないかもしれない。
「ほら、出かけるんだから、着換えておいで」
朝顔に促され、花は差し出された服が入った袋を受けとったのだった。




