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【弐】

 ようやく石段を登り終えてみれば、そこには小さな平屋が建っていた。

 こんなところにあるのだから、彼女は古民家のようなものを想像していたのに、目の前のそれは、ごく普通の近代的な建物だ。

 アルミサッシの窓からは、明るい光が漏れているし、玄関ポーチは近代的なデザインで、おしゃれだ。陶器でできた可愛らしい犬の置物まで置いてある。

 拍子抜けしたような気持ちで、玄関の扉を見つめていると、狐面の女が、背中をつついてきた。

「ほらほら、そんなところで突っ立っていないで、入りな。主様がお待ちだよ」

「で、でも。何か違う……」

 かやぶき屋根の今にも崩れ落ちそうな民家だったら、違和感など感じなかっただろう。

 登ってきた石段が、いかにもという雰囲気だっただけに余計に、だ。

「主様は、新しいものが大好きなんだよ」

「そういうものなの?」

 やはり何かが違う。

 古めかしく狐面の女や大きな男が『主様』というくらいだから、それを連想させるような家を思い浮かべていたのだ。

「ぐずぐずするんじゃないよ」

 狐面の女に押されるように、家へと近づく。その勢いのまま、女が扉を開き中に向かって声を張り上げるのを聞いていた。

「入るよ、主様! 迷子を連れて来たからね」

 中からの返事も待たず、女はどんどん部屋の中へと入っていく。

「あ、待って!」

 慌てて、靴を脱ぎ彼女は女の後を追った。このままだと、玄関に取り残されてしまう。

 妙に清潔感の漂う玄関内は、落ち着かなかったし、また一人きりになってしまうのが怖い。

 だから、本来ならば、許可無く知らない家に上がり込むのはおかしいとわかっているのに、女を見失わないように、急いで靴を脱ぎ、早足で追いかけてしまったのだ。

 そうやって、女の後ろにようやく追いついけば、そこは広いリビングだった。

 余計なものは一切なく生活感を感じさせないリビングには、応接セットがあり、ソファーに人が腰掛けている。

 見た瞬間、白い、と思った。

 ソファーにくつろいだ様子で座っているのは、全てが白い人だったのだ。

 髪も肌も――瞳の色さえも白い。のっぺりとした凹凸の少ない顔のせいなのか、まるで人形のようにも見えた。

 触れれば溶けて消えてしまいそう。そんなことを考えながら、彼女は白い人を見つめる。

「遅かったね、お嬢さん」

 微笑んだその人は、まるで彼女がここへ来ることを知っていたかのようにそう告げた。

「あちこち見て回っていたんだね。あんまり遅いから、今日はもう来ないのかと思っていたよ。朝顔もご苦労さま」

 いつのまにか彼女の側に立っていた狐面の女が深々と頭を下げる。

「いいえ。これは私が望んだことだから」

「え、どういうこと」

 彼女に声をかけてきたのは、偶然ではなかったということなのだろうか。

 思い返せば、あの状況で、自分に話しかけてきたのは確かにおかしい。ここへと導こうとしたし、ずっとついてきた。

 おかしいと思わないでもなかったが、余裕がなく、何故ついてくるのかを突き詰めて考えることはなかったのである。

 問い詰めようと狐面の女に向き直った時、それを止めるように男の声が割って入る。

「ああ、だめだめ。そんな怖い顔をしない。全てを教えてしまうことは簡単だけど、そうすると、キミは帰れなくなってしまうよ。迷子は自分で帰り道を見つけないとね」

「どういう意味ですか?」

 自分はずっと質問ばかりだ。

 そのことが、もどかしい。

 この人たちは、何を隠しているのだろう。何か目的があるのだろうか。

「とりあえず、座って。ずっと歩いていたから足も痛いだろう? それに立ちっぱなしだと、話もしにくい。何も聞きたくないっていうのなら、仕方ないけど」

 そう言われて、彼女は男と向かい合うような形でソファーに腰掛ける。隣に、人が1人分座れるスペースを空けて、狐面の女が座った。

「ああ、そうだ。名前がないと不便だね。私が名前を付けてあげよう」

「え?」

 いきなりそんなことを言われ、彼女は戸惑う。

 確かに名前が思い出せないのは困るが、それをこの人が知っていたということにも驚いた。

「この世界では、名前がないと、いずれは異分子としてはじかれてしまうんだ。またわけのわからない世界に飛ばされるのは嫌だろう?」

 ここではない場所に、また飛ばされてしまう?

 その言葉に、背筋が冷える。それでなくとも、わけがわからないことばかりで混乱しているのに、これ以上妙な目には会いたくない。

「難しく考えなくてもいい。ただの呼び名だと思えばいいよ。呼び名がないと、いろいろと不便だ。だいたい、いつまでも、キミ、じゃ面倒だ」

 男は目を細めて、彼女の姿を見つめている。その鋭い眼差しは、彼女の中の何かを見極めようとしているかのようだった。

 やがて、彼は息を吐くと、口を開いた。

「そうだね、『花』というのはどうだろう」

「花?」

 不思議なことに、その名前はしみいるように、彼女の頭の中に入ってきた。

「どうだい? 体にしっくりくるかな?」

「……はい」

 まるで、最初から自分が『花』だったかのように、違和感がない。

「よかった。よく覚えておいて。この呼び名は、君の中から生まれてきたもの。無くしたものと関係がある呼び名だから、もう落としてはいけないよ」

 落とす、という言葉に首を傾げたが、彼はそれ以上何も言わなかった。

 代わりにその場の空気を変えるかのように、明るい声を出す。

「さて、大切なのはこれからのことだ。君は説明が欲しくて、ここまで来たんだろう」

「迷子はここに来るべきだと言われました」

 隣に座る狐面の女を見るが、彼女は俯いたまま動かない。

 引き結んだ唇は、何の言葉も発することはなかった。

「では、花。改めて自己紹介しようか。私は、白鷺。この世界を纏める者だ」

「纏める?」

 支配するのでも、治めるのでもなく、纏めるといういい方をしたのは何故なのだろうか。

「そう。調停役みたいなものかな。もめ事を解決したり、キミみたいな迷子を保護したりする。そして、君の隣にいる子が、朝顔」

「朝顔、さん」

「すでに、君もわかっていると思うが、簡単に言えば、ここは異界だよ」

「異界?」

「そう、あの世でもこの世でもない。隙間にできた淀みのような場所さ」

 ここがあの世ではないというのならば、少なくとも自分は生きているということだろうか。もしかすると、という可能性は、まだ捨てきれないが。

「ここは、あの世に近く、君たちが住む場所とも触れあっている。とても不安定でアヤフヤな場所でもあるんだ。だから、ここに住むものも皆、曖昧な存在だ」

 人ではないが、人に近いもの。

 そういう存在なのだと、白鷺は言う。

「普段、我々はひっそりと静かに暮らしている。だけどね、時々君のように、この異界に迷い込んで来るものがある」

 確かに、花も気がつけば、ここにいた。迷い込んだといわれれば、そうだったのかと、すんなりと納得できる。

「人である場合もあるし、動物や植物、物の場合もある。彼らは、皆、何か大事なものを落としてしまっていて、帰れなくなってしまっているんだ」

「だから、『迷子』なんですか?」

「そう。だけど、彼らは、ただ偶然迷い込んだわけではない。ここへ来る、なんらかの事情があったということだよ。何もないのに、ここへは入り込めない」

 白鷺の言うとおりだとすれば、花がここにいるのは、きっかけのようなものがあったということだろうか。

 自分が、異界に何か事情があるとも思えない。何者だったかさえ覚えていないのだ。あったと言われても、反論することも、否定することもできない。

 そんな花に、白鷺は尚も言葉を続ける。

「帰る条件は簡単だ。キミがここへ迷い込んだ理由を見つけること」

「もし、理由が見つからなかったら?」

「人でなくなり、ここに住むしかなくなるだろうね、そこの朝顔のように」

 では、彼女も『迷子』だったのか。

 俯いたままの朝顔は何も答えない。

「まあ、大丈夫。ヒントはどこにでも転がっている。例えば、見たもの、感じた物、君の周りにある物」

「どういうことですか?」

「つまり、注意深く辺りを観察しろってことだね」

 曖昧な言葉に、花は途方に暮れる。

 いったい自分はどうしたらいいのか。白鷺は簡単に言うが、迷子になった理由など、まったく思い当たらない。

 自分の感覚としては、『気がつけば、いつのまにか、ここに居た』なのだから。

「とにかく、がんばってみて。こればかりは、私たちには手伝えないことだからね」

 納得はできない。

 だが、何もしなければ、いずれはここから抜け出せなくなるという―――自分の過去が何ひとつわからないまま。

 もちろん、白鷺が言うことが全て本当のことだと仮定してのことだが、今はそれに縋るしかない。

 そのことに、不安しかわき上がってこなかった。



 心の中に不安を抱えたまま、白鷺の家を後にした花の足取りは重い。

 ここへ来るまでは、すぐに抜け落ちた記憶も元に戻るのではないかと期待していたのだが、どうやらそれはなさそうだ。

 これからどうしたらいいのか、そう思って石段のところまで来たとき、あたりが妙に静かなことに気がつく。

 嫌に耳につくようだった祭り囃子の音が、今は聞こえない。

 すでに辺りは暗いから、だろうか?

 聞こえていたときは、あれほど気になっていたのに、なければないで、落ち着かない。

「どうかしたのかい?」

 一向に動こうとしない花を不審に思ったのだろう。朝顔が声をかけてくる。

「なんでもない」

 音のことを聞くのは簡単だ。

 だが、まだ花の中にには、朝顔を信じ切れない感情がある。何もかも話してしまうのは、どうしても躊躇われてしまうのだ。

 だから、朝顔が何かを言う前に、花は石段を下りはじめた。

 暗く、足元がよく見えないせいで、時々すべりそうになるが、何も言わない。後ろにいるはずの朝顔も、花のそんな態度に呆れたのか、下手に刺激しないほうがいいと思っているのか、無言のままだった。

 そうやって、気まずい気持ちのまま階段を下りていた花は、もう少しで石段が終わるというところで、そこに思いがけない相手を見つける。

「おう!」

 手を上げて、人懐っこい笑みを浮かべているのは、行きに会った大きな男だった。

 何故ここにいるのか。驚きのあまり、目を丸くしていると、男は花のところまで石段を駆け上ってきた。

「遅かったな、待ちくたびれたぜ」

「別に待たせてないよ」

 花が返事をするよりも早く、朝顔がそう答えて、飛び出てきた。花の前に立ち塞がると、それ以上近づかないように邪魔をしている。

 しかし、男はそれをまるっきり無視して、大きな体を曲げ、花の方を見た。

「ちゃんと、自己紹介してなかったよな。俺は、狢。あんたは?」

「……花、です」

「へえ、花か。いい呼び名だな。あんたに似合ってる。おいしそうだ」

 おいしいってどういうこと?と突っ込みそうになって、そういえば、この男には囓られそうになったのだと思い出す。

 思わず後退った花に向かって、狢は笑顔を見せる。

「主から、呼び名をもらったんだろ。だから、俺は主の許可なくあんたを喰うことはできないんだよな」

「呼び名をもらうって、そういう意味もあるんですか」

 そうならば、素直にもらっておいてよかったと思う。

「ああ、ただし、あんたが許可くれたら喰えるのかな?」

「あげません!」

「だよな」

 豪快に笑って、狢はばしばしと、何故か朝顔の肩を叩いた。「痛い!」と声を上げる朝顔は、花と狢に挟まれた形になっているので、逃げることもできないらしい。

「む、狢さん。朝顔さんが嫌がっています」

 花がおそるおそるそう言うと、まったく悪びれない笑顔を狢は浮かべる。

「だって、ただの人間を叩いちまったら、壊れちまうだろう?」

「え……」

「朝顔はここの住人だから、少々叩いたくらいで壊れないもんな」

 そういう問題なのだろうか。狢は冗談で言っているようには見えないし、朝顔も否定しない。それどころか、花が驚いていることが不思議なことのように、感じられてしまうくらい、二人とも普通だ。

 突っ込めばいいのか、質問すればいいのか、それとも黙っていた方がいいのか。

 花が悩んでいると、狢は大げさに肩を竦め、再び豪快に笑ってみせた。

「おっと。俺は、別にそんなことを言うために、ここにいたんじゃないんだ」

「そういえば、あんた、なんでここで私たちを待っていたのさ」

 朝顔も、彼がここにいるとは思っていなかったかもしれない。

「花は、まだどこに住むかとか、これからどうするか、決めてないんだろ?」

「そういえば、何も考えていなかった」

 白鷺も朝顔も、あの場では何も言わず、花が出ていくのも止めたりしなかった。

 だが、考えてみれば、今、ここは夜だ。勢いで出てきたが、行くあてなど、花にはない。

「まさか、野宿するわけにもいかないだろう? いくら異界の住人が怖がりであんたの前に姿を現さないからって、そこら辺で寝ていれば、ちょっかいを出してくるヤツもいるかもしれないし。かといって、朝顔や俺の住み処は、あんたには居心地悪いだろうしなあ」

 確かに、花も野宿は嫌だ。

「俺が、ちゃーんと、居心地のよさそうな寝床を見つけてきた」

 そういうと、狢は、手をのばして花の手を掴んだ。

「え、な、なんですか!?」

「案内してやるから、早く来い」

「私、まだそこに行くって言っていないんですけど」

 一応言ってみたが、狢は聞いていない。

「心配するなって。俺は、おいしそうな匂いの持ち主には、優しいんだ」

 微妙な言い回しなのは、気のせいではないはずだ。

「仕方ないねえ。確かに、そういうのは、あんたの方が得意だろうよ」

 しかも、朝顔までが反論せずに、狢の行動を容認している。

 勝手に話を進めないでーと言った花の言葉は、結局聞き入られることはなかった。

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