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【二十四】

 気が付けば、花は社の前に立っていた。

 景色は先ほどまでと同じなのに、流れる空気が違う。

 見慣れた鳥居と社ではあったけれど、確かにさっきまでいた場所ではないのだと、花にもわかった。

 それに。

「狢さん?」

 鳥居の先には、こちらに背を向けて狢が立っている。

 だが、その姿はどこかおかしい。やや前屈みで、片腕をだらりと下げているようにも見えたし、花が呼び掛けても、返事がないのも不思議だった。

「狢さん!」

 先ほどよりも大きな声で呼び掛けながら近づこうとすると、ようやく彼から声が返ってくる。

「……おう、花か。タイミング悪いなあ、お前」

 こちらを振り返らないまま、そう言った狢を間近で見て、花は息を飲む。

 垂れ下がった腕の先から、したたり落ちているのは、血ではないだろうか。

 よく見れば、身につけている服にも、赤黒い血のようなものがついている。

「狢さん、怪我してるんですか?」

「少しばかり、囓られちまったからなあ」

「か、囓られたって……」

 そこで、花は、辺りの様子がおかしいことに気が付いた。

 狢から少し離れて、小さな人影がひとつある。

 肩で切り揃えた髪と、白いブラウスに、紺色のスカート。何度か目にし、花から何かを奪ったと思っている不思議な少女。

 だが、おかしなことに、今、花の目の前にいる少女は、人の姿をしているのに、曖昧な印象しか感じられない。何かに例えるならば――そう、まるで二次元の絵でも見ているかのようなのだ。

 そして、その少女は、唇を開き、その真っ黒な穴のような場所から、言葉を発する。

「私に、偽物の記憶を渡したな!」

 もはや少女のものとは思えない、低く太い声だった。

 その絡みつくような不吉な声に、思わず花は狢の背中に隠れてしまったが、そのおかげで、さらに大変なものを見ることになった。

「む、狢さん! 背中もざっくり切れてる……」

 囓られただけだと狢は言うが、どう見てもそれだけではない。よく見れば、あちこち傷だらけだ。花が思わず掴んだ狢のシャツも、嫌な感じに湿っているが、おそらく血なのだろう。

「たいしたことは、ねえよ。それより、落とし物は見つかったみたいだな。さっきと全然存在感が違う」

 狢はそう言うが、花には、記憶を取り戻した以外は、特に自分が変わったようには感じない。

 それに、今はそんなことを言っている場合ではないはずだ。

 狢と対峙している少女であるはずのものは、黒い霧を撒き散らしながら、花に向かって呪詛のような言葉を投げつけてきている。

「だけど、花は、ホントにタイミング悪いぞ。どうして、こういう場面でひょっこり出てきちまうかなあ。せめて俺がかっこよくあれを追いやったところで現れてほしかったな」

「そういう問題じゃないでしょう!」

「いや? そういう問題だろ」

 軽く言われて、怪我をしている姿では説得力はないよと、花は思わず呟きそうになってしまった。

「とりあえず、花が無事落とし物を見つけたってわかったんなら、俺もそろそろ本気ださねえとな」

 今まで本気でなかったとしても、その怪我はないだろうという視線を向けると、こちらをちらりと振り返った狢がにやりと笑う。

「今の花なら、わかるだろう? あれに形なんてないことに」

 言われて、もう一度、花は少女を見て―――気が付いてしまった。

 確かに、形としては『人』だと思うのに、よく見ようとすると、その形そのものを認識できなくなる。

 言葉さえも、最初に聞いたこと以外、意味をなしているようには思えない。

「あれは、自分と相性のいい人間を喰らうことで、力をつけていくんだ。それなのに、今回は獲物を喰らいそこね、偽物の記憶を飲みこんで、力も限界に来ている。でなければ、なりふり構わず、俺のことを囓ったりしない」

「偽物の記憶のこと、知っていたんですか?」

 さきほどあった朝顔は、花の中に嘘の記憶を隠していたのだと言っていた。それを狢も知っていたのだろうか。

「知らなかったが、あれがべらべらいろんなことを教えるからな。大体の事情はわかったつもりだ」

「偽物の記憶を取りこむのは、いいことではない?」

「毒みたいな感じらしいぞ。あれの自己申告によると」

 それはもう苦しいらしいと言う狢の顔は、今までで一番楽しそうにも感じられた。

「で、今の花は、今名前を思い出した『生身の人間』だ。ここの誰よりも強い生命力ってもんがある。それにな、あれが恐れるのは『生者』だ。『生者』の生命力にあれは勝てない。加えて、毒を喰らったことで、随分弱っている」

 花が強いかどうかは、彼女自身にはわからないが、あの少女だったものが、弱っているということは、なんとなくわかった。

「だから、逃げるな。自分の大事なものは自分で取り戻せ」

「でも、どうやって?」

 大事なものとは、恐らく鈴のことだろう。

 あの中に、花の記憶はなかったとはいえ、姉からもらった大切な鈴だ。できれば取り戻したいという気持ちはある。

「花、俺に、力を貸せ」

「え、食べるとか囓るとか駄目ですよ!」

「違う、念じろ。俺のことを、強い、絶対に負けないって、そう念じてくれ。そうすれば、あれに隙を作ってやる」

 それは、隙をみて、鈴を取り返せということだろうか。

 いまひとつよくわからないが、念じればいいということだろうか。

「うまくいくかどうかわからないけれど、やってみます」

 どちらにしても、今の花ではあれには近づけない。見ているだけで、気持ち悪くなってしまうのだ。

 けれども、それに怯むわけにはいかない。

 だから、狢が口にしたように、必死で念じる。

 大丈夫、狢さんは強い。そもそも鬼は強いのだと、誰かに聞いた。きっと負けたりなんかしない。

 花が心の中で、そう何度も狢に念を送っていると、やがて変化が訪れた。

 狢が一歩踏み出すたびに、あれの姿が揺らいでいく。

 明らかに、相手は怯えているのだ。

 最初にあった時の印象とは違う。どこかこちらを下に見たような態度はない。

 ゆっくりと狢が近づくと、それはどんどん形を崩していった。

「あああ、何故、鬼に力など与える!」

 言葉にはならない叫びのような怨嗟の声から、花が読み取れたのはそれだけだ。後は、何を言っているのか、わからない。

 ただ、確実に、あれは狢と花を恐れている。

 そう感じられるのは、花が記憶を取り戻したせいだろうか。それとも、毒を飲みこんだという事実が、あれを苦しめているのか。

「捕まえたぞ!」

 嬉しそうに声をあげる狢の手が、しっかりと『それ』を掴んだ。

 その時には、それはもう、人の形をしていなかった。

 もやもやとした黒く霞んだなにかにしか、今の花には見えない。

「花、こいつが飲みこんだはずのものがどこにあるか、今のお前になら見えるだろう」

 狢の言葉に気持ち悪さを堪えながら、じっとそれを見つめる。

 黒いぼんやりした中に、わずかに淡い光のようなものを感じたとたん、胸の奥が熱くなった。

 あれは、自分のものだ、とはっきりと思う。

「返して、私の大事なもの」

 お姉ちゃんからもらったもの。

 誰のものかわからなかった時でさえ、大切に肌身離さず持っていた。花とお姉ちゃんを繋いでいた大切なものなのだ。

「返してよ」

 伸ばした手が、黒い固まりに触れる。

 瞬間、体中に走った痛みに顔をしかめるが、手を引くことはしない。

 ずぶり、と手がその中に入ったときは気持ち悪かったが、それでも必死でそれの中から鈴を探す。何度か彷徨った指先は、やがて、温かい何かに触れた。

「見つけた」

 花がしっかりとそれ―――鈴を握り締め、手を引き抜く。

 確認するように掌を開けば、くすんだ色の、少し形が崩れた鈴がちゃんとそこにあった。

「これで、終わりだな」

 狢さんが、ふてぶてしい笑みを浮かべた。

 いまや、随分小さくなってしまった黒い固まりは、狢の手の先でぶるぶると揺れている。

「ほら、そこの閉じかけた穴から、あっちへ帰れ。そうしないと、お前、消滅しちまうぞ」

 黒い固まりが、何かを言ったようだが、やはり花には聞き取れなかった。

 だが、狢の方は、その意味を理解したらしい。

「いつでも受けてたつぜ。こっちに来られるならな」

 そう言い放って、ひょいと手を振った。

 そのまま、地面に叩きつけるように、黒い固まりから手を離す。

 そこには、いつか見た様な黒い穴があり、固まりは抵抗することもなく、その穴の中へと吸い込まれていった。

「この穴は、後で白鷺に閉じてもらうか」

 狢は穴の奧を覗き込みながら、楽しそうだ。

「終わったの?」

 これで帰れるのだと思うと、自然と顔がほころんでくる。

「そうだな、しばらくは、あれはこちらへは出てこれないだろうし、花がこの世界から元の世界へと帰れば、朝顔も大丈夫だろう」

 あまりにもあっさりと狢が言うので、花は拍子抜けした。

 帰るといえば、もっと、食べたいと騒ぐかと思っていたからだ。

 そうされないことを残念に思うなど、おそらく間違っているはずなのに、こちらに背を向けてしまった狢の態度を、何故か花は寂しいと思ってしまった。

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