表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
24/26

【二十三】

 鳥居をくぐった瞬間、空気が変わった気がした。

 それまで感じなかった、土と古い建物特有の匂い。一歩踏み出せば、木々に覆われた境内の中を、柔らかな風が吹き抜ける。

 懐かしいという思いが一層強くなった。

 境内の横には、大きな楠があったはずだ。秋には綺麗な黄色に染まっていた気がする。秋祭りは楽しみだったし、それ以外の時も、よくここへ来ていた。

 いつも一緒だったのは姉。

『ここへ来ると、とても落ち着く』

 そう、彼女は花に言っていた。

 そんな時の姉は、いつもより表情も柔らかく、笑顔も多かった気がする。

その思い出がきっかけかのように。

 花の中に、様々な場面が浮かび、そして消えていく。

 お父さん、お母さん。友だちや近所の人たち。

 同時に、彼らがみんなお姉ちゃんのことを忘れてしまって、花だけが取り残された気持ちだったことも。

 長い長い、悲しい時間があって、結局は、自分も忘れていってしまったことだけれど。

 でも、やはり一番心の中を占めるのは、姉のことだ。

「……おねえちゃん……」

 呼び掛けた言葉は、静かな境内に響くが、返事は当然ない。

 ここにいるのは、花だけだ。ずっと側にいた狢でさえも、今はいない。

 それでも不思議と、不安はなかった。

 ゆっくりと境内の中を歩くと、それほど時間もかからす社に辿り着いた。

 古ぼけた賽銭箱も、夢で見たままだ。懐かしいと同時に、夢の中とは違い、あたりは明るく、居心地もいい。

 ―――やはり、誰もいないのだろうか。

 ふと、そんなことを思った。

 もちろん、花もここに誰かがいるとは思ってはいなかった。

 虫の声や鳥の声は聞こえるが、せまい境内の中には、まったく人の気配はないのだ。ただ、一歩踏み出すごとに、記憶だけは甦ってくるのはわかった。

 例えば、大きな楠。

 あの下で、姉や友達と遊んだ。鬼ごっこやかくれんぼ、ただ座って話をするだけの日もあった。

 夏や秋には、祭があったし、正月になれば、初詣に来るのもここだったはずだ。

 悪い事をして怒られた時は、社の影で泣いたなという記憶も思い出す。

 姉のいた時のことだけでなく、姉がいなくなった後――中学生の時のことや高校時代のことも、今ならばちゃんと思い出せる。

 そして、高校を卒業して、大学生になって……。

「あれ?」

 自然と花の唇からこぼれたのは、そんな言葉だった。

 おかしい、ということに、そこで、気が付いたのだ。

 たくさんのことを思い出したと思ったのに、肝心なことがわからないままだ。

 姉のことは思い出した。

 家族や幼なじみ、たくさんの関わってきた人たちも、だ。

 だが、ひとつだけ、思い出せていなことがある。

 自分自身の名前だ。

 一番肝心なことなのに、何故それだけわからないのか。

 まだ、何かやり忘れていることがあるのだろうか。

 不安な気持ちを抑えるようにして、花はあたりを見回す。

 もう少し、社の方に近づいてみよう―――そんなふうに思ったのは、理由はなかった。

 ただ、自然にそう思っただけだ。

 その足取りが、自分でも驚くほどに自然だったから、何度もこうやって社まで歩いていたのかもしれない。

 そうやって歩いて、賽銭箱の前までやってくると、そうすることが当たり前のように、横の段に腰掛ける。

 小学生の頃は、家や公園でゲームをしていると、親に怒られるからと、友達とここで遊んでいた。

 もちろん、そればかりではなく、話もたくさんした。

 中学生以上になると、ここへ来る回数は減ったが、それでも来ていたのは、落ち着くからだ。

 確かに、こうやって賽銭箱の横に座ることに、馴染みがある。

 でも、ここだけが、花にとって大切な場所だっただろうか。好きな場所はたくさんあったはずだ。

 ここだけではなく、他にも。

 例えば?

 ぐるりと、花はあたりを見回す。まだ思い出せていない『好きな場所』があったはずだ。

 少し記憶を辿れば、すぐに、そこが浮かんでくる。

 神社の裏手に、階段があった。

 そこは比較的新しいもので、確か駅へと続いていたはずだ。

 その駅には、確か桜の木が植えてあって、階段の上から見ると、とても綺麗だった気がする。自然と向かう足は、その場所へと何度も通っていた証拠のような気がして、花の気持ちも高揚してくる。

 そうだ、確かに、あそこは大好き場所だった。

 一番上の段に座って、友達―――あるいは一人で、駅を眺めたり、お昼ご飯を食べたり、友達と待ち合わせをしたり。遊びに行く時に、近道だからとここを通りぬけることもあった。

 そして、何よりも、一番好きな季節だったのは、春。

 そう思って、階段に足を踏み出そうとして、そこに誰かがいるのに気が付いた。

「だ、だれ?」

 花は、恐る恐る声をかけてみる。

 そこにいたのは、浴衣姿の一人の女性だ。

 後ろ姿なので、確かなことは言えないが、朝顔に似ている。

「……おねえちゃん?」

 朝顔、ではなく、そう呼び掛けてみた。

 その肩がわずかに震えたような気がして、花はもう一度『おねえちゃん』と口にする。

「おねえちゃん、なんでしょう? それとも、朝顔さんって呼んだ方がいいの?」

 確信があったわけではない。

 それでも、そう口にしたのは、頭の中で、ここにいるとしたら、『おねえちゃん』しかいないと、そんなふうに思っていたからだ。

「まいったねえ」

 聞き慣れた、少し甲高い声が、あたりに響く。

 やはり朝顔の声だ。

 だが、彼女は振り返らない。

 背を向けたままの後ろ姿は、どこか困っているようにもみえた。

「あんたの前では、ただの『朝顔』でいようとしたんだけど、結局は辿り着いちまうんだ」

「やっぱり、朝顔さん」

 呼び掛けると、ようやく『朝顔』は振り返った。

「そうだよ、と答えてあげたいところだけど、残念ながら、ここにいるのは、『朝顔』があんたのために残した幻だよ。……落とし物を取りにきたんだろう?」

「やっぱり、ここに落とし物があるの?」

「そうだよ、ほら、手を出してごらん」

 促されるままに、両手を差し出す。

 広げた手と、朝顔を交互に見つめていると、朝顔がその手の上に自分の両手を掲げるように差し出した。

 その手は、軽く握られていて――ゆっくりと花の目の前で開かれていく。

 そこからこぼれ落ちたのは。

「花びら?」

 淡い薄桃色の花びらが、朝顔の手から落ち、花の掌に広がり、そして吸い込まれるように消えていく。

 じんわりと、まるで染みいってくるような感覚に、花は思わず目を閉じる。

 そうだ、自分の名前。

 大切な、大切なそれは、『花』の名前の由来していたのだ。

 ああ、そうだ、自分の名前は。

「やっと、思い出したね、『   』」

 そう言った朝顔の声は、記憶の中にある『おねえちゃん』を思い起こさせるものだ。

 例え、狐の面で顔が見えなくても、しゃべり方が記憶と違っていても。

「ここから出てからが大変だ。あれが持っていったのは、私があんたの中に入れていた『紛い物の記憶』だからね」

「そんなこと、いつのまに?」

「秘密、さ。元の世界に戻るあんたが知らない方がいいことだ」

 真剣な声に、それは本当のことなのだろうと花は思う。

 しばらく暮らしていても、やはりこの世界はどこか歪んでいて、完全に馴染むことは出来ない。それが、『人』である花にとっては、当たり前のことなのだろう。

「本物の私に、会ってやりな。……きっと待っている」

「もちろんです」

「それに、『外』で、狢がやきもきしてるんじゃないか。あれは、ここに入れないから」

 私がそうしたからね、と言い切る朝顔に、思わず花は笑ってしまう。

 何故か、頭に浮かんだのが、情けない顔をして、うろうろしている狢の姿だったからだ。

「でも、きっと、それでも私を待っている気がします。つきあいは短いけど、それなりに面倒見がいいってわかりましたから」

 花の答えに、『朝顔』が笑った。

「あいつは、意外にバカだからねえ。食べたいのなら、さっさと食っちまえばいいのに、妙なところで規律を守りたがる。鬼のくせにね」

 さりげなく恐ろしい事を口にする朝顔は、やはりこの世界の住人に近いということなのだろう。

 悲しいけれど、もう、昔のようにただ優しいだけの『お姉ちゃん』とは違うのだ。

「ほら、もう行きな。ここは役目を終えたから、もうすぐ消えてしまう」

「はい。……ありがとう、お姉ちゃん」

 最後にそう花が言うと、幻に何言ってんだよ、とすぐに明るく返事が返ってきた。

 そうして。

 その存在が薄くなり、幻だと口にした『朝顔』は、その場から消えてしまったのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ