【二十三】
鳥居をくぐった瞬間、空気が変わった気がした。
それまで感じなかった、土と古い建物特有の匂い。一歩踏み出せば、木々に覆われた境内の中を、柔らかな風が吹き抜ける。
懐かしいという思いが一層強くなった。
境内の横には、大きな楠があったはずだ。秋には綺麗な黄色に染まっていた気がする。秋祭りは楽しみだったし、それ以外の時も、よくここへ来ていた。
いつも一緒だったのは姉。
『ここへ来ると、とても落ち着く』
そう、彼女は花に言っていた。
そんな時の姉は、いつもより表情も柔らかく、笑顔も多かった気がする。
その思い出がきっかけかのように。
花の中に、様々な場面が浮かび、そして消えていく。
お父さん、お母さん。友だちや近所の人たち。
同時に、彼らがみんなお姉ちゃんのことを忘れてしまって、花だけが取り残された気持ちだったことも。
長い長い、悲しい時間があって、結局は、自分も忘れていってしまったことだけれど。
でも、やはり一番心の中を占めるのは、姉のことだ。
「……おねえちゃん……」
呼び掛けた言葉は、静かな境内に響くが、返事は当然ない。
ここにいるのは、花だけだ。ずっと側にいた狢でさえも、今はいない。
それでも不思議と、不安はなかった。
ゆっくりと境内の中を歩くと、それほど時間もかからす社に辿り着いた。
古ぼけた賽銭箱も、夢で見たままだ。懐かしいと同時に、夢の中とは違い、あたりは明るく、居心地もいい。
―――やはり、誰もいないのだろうか。
ふと、そんなことを思った。
もちろん、花もここに誰かがいるとは思ってはいなかった。
虫の声や鳥の声は聞こえるが、せまい境内の中には、まったく人の気配はないのだ。ただ、一歩踏み出すごとに、記憶だけは甦ってくるのはわかった。
例えば、大きな楠。
あの下で、姉や友達と遊んだ。鬼ごっこやかくれんぼ、ただ座って話をするだけの日もあった。
夏や秋には、祭があったし、正月になれば、初詣に来るのもここだったはずだ。
悪い事をして怒られた時は、社の影で泣いたなという記憶も思い出す。
姉のいた時のことだけでなく、姉がいなくなった後――中学生の時のことや高校時代のことも、今ならばちゃんと思い出せる。
そして、高校を卒業して、大学生になって……。
「あれ?」
自然と花の唇からこぼれたのは、そんな言葉だった。
おかしい、ということに、そこで、気が付いたのだ。
たくさんのことを思い出したと思ったのに、肝心なことがわからないままだ。
姉のことは思い出した。
家族や幼なじみ、たくさんの関わってきた人たちも、だ。
だが、ひとつだけ、思い出せていなことがある。
自分自身の名前だ。
一番肝心なことなのに、何故それだけわからないのか。
まだ、何かやり忘れていることがあるのだろうか。
不安な気持ちを抑えるようにして、花はあたりを見回す。
もう少し、社の方に近づいてみよう―――そんなふうに思ったのは、理由はなかった。
ただ、自然にそう思っただけだ。
その足取りが、自分でも驚くほどに自然だったから、何度もこうやって社まで歩いていたのかもしれない。
そうやって歩いて、賽銭箱の前までやってくると、そうすることが当たり前のように、横の段に腰掛ける。
小学生の頃は、家や公園でゲームをしていると、親に怒られるからと、友達とここで遊んでいた。
もちろん、そればかりではなく、話もたくさんした。
中学生以上になると、ここへ来る回数は減ったが、それでも来ていたのは、落ち着くからだ。
確かに、こうやって賽銭箱の横に座ることに、馴染みがある。
でも、ここだけが、花にとって大切な場所だっただろうか。好きな場所はたくさんあったはずだ。
ここだけではなく、他にも。
例えば?
ぐるりと、花はあたりを見回す。まだ思い出せていない『好きな場所』があったはずだ。
少し記憶を辿れば、すぐに、そこが浮かんでくる。
神社の裏手に、階段があった。
そこは比較的新しいもので、確か駅へと続いていたはずだ。
その駅には、確か桜の木が植えてあって、階段の上から見ると、とても綺麗だった気がする。自然と向かう足は、その場所へと何度も通っていた証拠のような気がして、花の気持ちも高揚してくる。
そうだ、確かに、あそこは大好き場所だった。
一番上の段に座って、友達―――あるいは一人で、駅を眺めたり、お昼ご飯を食べたり、友達と待ち合わせをしたり。遊びに行く時に、近道だからとここを通りぬけることもあった。
そして、何よりも、一番好きな季節だったのは、春。
そう思って、階段に足を踏み出そうとして、そこに誰かがいるのに気が付いた。
「だ、だれ?」
花は、恐る恐る声をかけてみる。
そこにいたのは、浴衣姿の一人の女性だ。
後ろ姿なので、確かなことは言えないが、朝顔に似ている。
「……おねえちゃん?」
朝顔、ではなく、そう呼び掛けてみた。
その肩がわずかに震えたような気がして、花はもう一度『おねえちゃん』と口にする。
「おねえちゃん、なんでしょう? それとも、朝顔さんって呼んだ方がいいの?」
確信があったわけではない。
それでも、そう口にしたのは、頭の中で、ここにいるとしたら、『おねえちゃん』しかいないと、そんなふうに思っていたからだ。
「まいったねえ」
聞き慣れた、少し甲高い声が、あたりに響く。
やはり朝顔の声だ。
だが、彼女は振り返らない。
背を向けたままの後ろ姿は、どこか困っているようにもみえた。
「あんたの前では、ただの『朝顔』でいようとしたんだけど、結局は辿り着いちまうんだ」
「やっぱり、朝顔さん」
呼び掛けると、ようやく『朝顔』は振り返った。
「そうだよ、と答えてあげたいところだけど、残念ながら、ここにいるのは、『朝顔』があんたのために残した幻だよ。……落とし物を取りにきたんだろう?」
「やっぱり、ここに落とし物があるの?」
「そうだよ、ほら、手を出してごらん」
促されるままに、両手を差し出す。
広げた手と、朝顔を交互に見つめていると、朝顔がその手の上に自分の両手を掲げるように差し出した。
その手は、軽く握られていて――ゆっくりと花の目の前で開かれていく。
そこからこぼれ落ちたのは。
「花びら?」
淡い薄桃色の花びらが、朝顔の手から落ち、花の掌に広がり、そして吸い込まれるように消えていく。
じんわりと、まるで染みいってくるような感覚に、花は思わず目を閉じる。
そうだ、自分の名前。
大切な、大切なそれは、『花』の名前の由来していたのだ。
ああ、そうだ、自分の名前は。
「やっと、思い出したね、『 』」
そう言った朝顔の声は、記憶の中にある『おねえちゃん』を思い起こさせるものだ。
例え、狐の面で顔が見えなくても、しゃべり方が記憶と違っていても。
「ここから出てからが大変だ。あれが持っていったのは、私があんたの中に入れていた『紛い物の記憶』だからね」
「そんなこと、いつのまに?」
「秘密、さ。元の世界に戻るあんたが知らない方がいいことだ」
真剣な声に、それは本当のことなのだろうと花は思う。
しばらく暮らしていても、やはりこの世界はどこか歪んでいて、完全に馴染むことは出来ない。それが、『人』である花にとっては、当たり前のことなのだろう。
「本物の私に、会ってやりな。……きっと待っている」
「もちろんです」
「それに、『外』で、狢がやきもきしてるんじゃないか。あれは、ここに入れないから」
私がそうしたからね、と言い切る朝顔に、思わず花は笑ってしまう。
何故か、頭に浮かんだのが、情けない顔をして、うろうろしている狢の姿だったからだ。
「でも、きっと、それでも私を待っている気がします。つきあいは短いけど、それなりに面倒見がいいってわかりましたから」
花の答えに、『朝顔』が笑った。
「あいつは、意外にバカだからねえ。食べたいのなら、さっさと食っちまえばいいのに、妙なところで規律を守りたがる。鬼のくせにね」
さりげなく恐ろしい事を口にする朝顔は、やはりこの世界の住人に近いということなのだろう。
悲しいけれど、もう、昔のようにただ優しいだけの『お姉ちゃん』とは違うのだ。
「ほら、もう行きな。ここは役目を終えたから、もうすぐ消えてしまう」
「はい。……ありがとう、お姉ちゃん」
最後にそう花が言うと、幻に何言ってんだよ、とすぐに明るく返事が返ってきた。
そうして。
その存在が薄くなり、幻だと口にした『朝顔』は、その場から消えてしまったのだった。




