【二十二】
外は、花が今までこの世界で見てきた風景とは、何もかも変わってしまっていた。
色あせてくすんだ景色。
作り物めいた町並のあちこちに見える、滲んで黒くなった穴のようなもの。
そして、その穴は、じっと見つめていると、吸い込まれてしまいそうになる。
「これでも、かなり減ったんだ」
狢の言葉に、皆が『朽ちかけた女』の張った結界の中に隠れたという意味がわかってしまう。
こんな状態で外にいれば、確かに危険だ。
「穴から出てくるのは、雑魚みたいな奴ばっかりだからな。そういうのを好んで食べる奴が、さっきまでその辺をうろついていたんだが、いないってことは、食い尽くしたんだろうなあ」
しみじみと言われて、花は真っ青になる。
「どうした? 花。おじけづいたか」
わかっているだろうに、にやにやと笑う狢は意地が悪い。
「大丈夫です。……たぶん」
できれば、狢の言う『好きこのんで雑魚みたいなものを食べる奴』とは遭遇したくない。花のことは食べたりはしないとは思うが、体の方は反応してしまいそうだ――怖いと。
心だけが怖さについていかないのも、きっと気持ち悪い。
「心配すんな。さっきも言ったように、花を食べるのは俺なんだから、どんな相手が来たって守ってやるよ」
声は甘いが、いつかのようにその目だけが捕食者のようだ。
少しだけ不安になりながらも、花には他に頼る人はいない。
「よろしくお願いします」
今は、狢を信じるしかないのだ。
だから、花は狢に向かって頭を下げた。
最初に訪れた神社は、はずれだった。
真新しい社は、まったく見覚えがない。
「平地にある神社だと思うんです。階段を登ったという感じはなかったから」
そう花が言って、一番近いところからと案内されたのはここだったが、やはり簡単にはいかないらしい。
「まあ、まだ幾つかあるからな。それよりも、足元注意しとけよ」
狢に言われて、花は思わず下に視線を向けてしまう。
穴は、空間にだけ開いているわけではなかった。地面や石の上、池の中にも穴はある。
気を付けていないと、そんな穴に落ちてしまうのだ。
さっきも、辺りを見回していて下を注意していなかった花は、穴に躓いて落ちそうになった。一緒にいた狢が引っ張ってくれなかったら、とんでもないことになっていたかもしれない。
「……気を付けます」
自信なげに答えると、狢はどこかの悪い人が浮かべるような笑顔を見せた。
「手でも繋ぐか?」
おまけに、とても楽しそうに、そんなことも言ってのける。
「え、大丈夫です」
反射的にそう答えてしまって、しまったと思ったことが顔に出たのか、狢の顔はますます人が悪そうな顔になった。
「遠慮するなって」
「いえいえ、遠慮なんて……」
していません、と口にしようとしたのに、その時にはもう右手を掴まれていた。
ぐいぐいと引っ張られるように進む方が危なっかしい気がするが、手を繋いでもらったとたん、足元が安定したように感じてしまう。先ほどまでふわふわとして嫌な感じだった地面も、今はしっかりと固くなっていた。
「……なんだか、納得いかない」
自分は結局一人だと何も出来ないと思い知らされるようで、花は少し落ち込んだ。
ここまでも、一人だけの努力ではなく、いろいろな相手に助けられ、ようやく一部の記憶を取り戻せたのである。
その時、花を身近で助けてくれたのは狢だ。
最初に会った時よりも、心を許しているのも確かだ。
だから、時々怖くなる。
本当にこれでいいのかと。感情ではなく、体が感じる『怖さ』も気になっていた。
それでも、こうやって頼ってしまうのは、何故なのだろう。
ふと湧き上がってくる『怖さ』ではない感情は何なのか。気がついてはいけないと、強く思うこの感情の意味を、知りたくはないと思う。
だからきっと、それらをひっくるめての『納得いかない』なのだ。
何も出来ないくせに、気持ちだけがぐるぐる同じところを回っていて、まだ狢を信じ切れない自分がいる。
皆はそれでいいのだというけれど、本当にそうなのだろうか。
いろいろ問題もある人だけれど、疑ってばかりいるのも、おかしな気はする。
利用すればいい、と依然狢は言った。それが彼の優しさなのか、それとも打算的な考えがあるのか。花にはやはり判断できない。
「なんだ、また変な顔をしているぞ。くだらないことでも考えているんだろう」
狢に引っ張られながら、自ら進んで歩いていたわけではない花に向かって、彼はそう声をかけてくる。
「くだらないことなんて考えていません。いろいろ真剣に、悩んでいるんです」
ついムキになってそう言うと、そうかそうかと笑われた。
「ただ、まあ、今は目的のものを探すのに集中した方がいいと思うぞ。……時間は限られているんだからな」
そうだ。
確かに、やらなければいけないことが花にはある。
「前に言っただろ? 花は俺を安心して利用すればいいんだって」
「でも。狢さんはそれでいいんですか?」
「いいんだよ。俺は俺で、いろいろ考えているんだから」
また、あの獲物を追い詰めるような目を、狢はする。この目を見る度に、これ以上は踏み込んではいけないと思ってしまう。
「……今は、神社を探すことに専念します」
結局、花はそうすることを選択した。ついでに狢が繋ぐ手から逃れようとするが、それは無理だった。
狢の力が強すぎるのと、繋いでおいた方が安全だと言われてしまったからだ。確かに狢と手を繋ぐ前の花の足元はおぼつかなかった。いつ穴に落ちても仕方ない危うさだった。
ここは仕方ないと諦めるべきなのか。
導かれるように、というよりは引き摺られるようにして歩きながら、花は小さなため息をひとつついた。
やはり、流されてしまっているような気がすると思いながら。
その後、あの夢の中で見た神社の様子を、思い出せるかぎり口にしてみた。
狢が場所を特定しやすいようにという気持ちからだ。
もちろん、その記憶は曖昧で、間違っている部分もあるかもしれない。そのことを心配したが、狢自身が、なんでもいいから話してみろと言ってくれたことも大きい。
しかし、花の言葉を頼りに、狢が案内した神社は幾つかあったが、やはりどれも記憶の中にあるものとは違っていた。
本当にあるのだろうか。
そう不安に思いはじめていた頃だった。
まばらに植えられた木々の間を抜け、突然に現れた鳥居に驚いた花は、その風景に見覚えがあることに気がついた。
ああ、懐かしい。
その古びた鳥居を見たときに、確かにそう思った。
硬い石畳。
大きな見上げるほどのご神木。小さな社の前にある賽銭箱。
「む、狢さん!」
思わず花は狢の手を引っ張ってしまう。足を止めてしまった花を怪訝そうに振り返った狢は、すぐに嬉しそうな表情になった。
「ここか?」
「はい。間違いないと思います」
夢の中で見た神社そのままだった。
だが、懐かしいとは思うものの、その神社を前にしても、何も起こらない。
「ここからどうすればいいんでしょう。今のところ、まったく記憶は戻ってこないです」
「進むしかないんじゃないか?」
二人は、鳥居の前に立っている。
境内には、まったく人はいないが、今まで歩いてきた場所のように、穴が開いている気配もない。
「ここから先は、俺は手伝えない」
そう言うと、狢は、握っていた花の手を放した。
それだけで心許なくなって、花は狢を見上げてしまう。
「大丈夫だ」
狢の笑顔に、花は覚悟を決める。
結局、最後の選択をするのは自分なのだ。他の誰かに譲ることはできない、花が一人でやらなければならないこと。
「行ってきます」
もう一度だけ、狢の顔を見て、花は歩きだした。




