【十九】
あなたは『おねえちゃん』なの?
そう尋ねた花に、女の子は『そうだよ』と答えた。
「私は、『おねえちゃん』から切り離された過去。でも確かにあなたの『おねえちゃん』、だよ」
その言葉がきっかけでもあったかのように、花の中には、忘れてしまったはずの記憶の一部が流れこんでくる。
記憶の波の中を漂いながら、花は溢れてくる『その人』のことを思い出していた。
だが、自分に関わることなのに、それは物語を見ているような感覚だ。次々と溢れるように情景が浮かんでは消えていく。
それでも、ひとつずつ思い出すたびに、心が温かくなっていく気がした。
『おねえちゃん』のことが大好きだった記憶だからかもしれない。
花が思い出した『おねえちゃん』は、不思議な人だった。
2つほどしか年は違わないのに、随分大人びた少女だった。
花のことを可愛がってくれる、優しくて綺麗な『おねえちゃん』。
いつだって、自慢だった『おねえちゃん』
後をついて回る花を振り返って、ほんの少し唇の端をあげて『秘密だからね』と言うのが口癖だった。
そういう時の彼女は決まって、あそこには恐いものがいるから近づいてはいけないよ、と教えてくれた。
そこに何があるかはわからなかったが、『おねえちゃん』が指差す場所は、どこか薄暗くどんよりしていて、側に寄ると気分が悪くなるようなところが多かった。
それ以外にも、花が転んで怪我をした時、そうっと傷口に手を伸ばし『いたいの、いたいの、とんでいけ』と言った。不思議なことに、小さな傷はそれで治ってしまった気がする。
そうして『誰にも言ってはだめだよ。これは秘密なんだからね』と、言うのだ。
小さな頃、花は何故姉がそんなことを口にするのかわからなかった。
自分には出来ないが、それが出来る人は他にもいるような気がしていたのだ。
けれど、小学生になり、友達が増えてくると、『おねえちゃん』と同じことが出来る人などいないのだと気付く。
だから、『秘密』なのかな、と、わからないなりに思っていたのだ。
他にも不思議なことはあった。
『おねえちゃん』は時々ふいにいなくなる。
それほど長い時間ではなかったが、ついさっきまでそこにいたはずなのに、急に見えなくなり、別の場所から現れる。
一緒に学校から帰っていたはずなのに、少し目を離した隙にいなくなってしまう。
慌てて走って帰ってみれば、応接間のソファーに腰掛けて、『遅かったね』なんて笑う。いつもの道が、一番家に早く帰る方法なのに、そこを通らず家に戻るのは不可能なのに。
何故か、花よりもずっと早く家について、服まで着替えている。
同時に、『奏太おにいちゃん』のことも思い出していた。
隣の家に住む『おねえちゃん』と同じ年の男の子。家によく遊びにきていて、『おねえちゃん』と仲が良かった。
花にとっては、いつも『おねえちゃん』を花から取ってしまう男の子、という認識だ。
嫌いではなかったのは、彼が持って来てくれるお菓子がいつもおいしかったことや、大人しい『おねえちゃん』とはしないような遊びを教えてくれたりすることがあったからだ。
木登りも泥遊びもかけっこも、相手をしてくれたのは『奏太おにいちゃん』だった。
優しい『おねえちゃん』と、時々意地悪だけど、花と一緒に遊んでくれる『奏太おにいちゃん』。
二人といるのは楽しく、こういう日常がずっと続くのだと信じて疑ってさえもいなかった気がする。
それが崩れ始めたのは、いつだったのだろう。
夏が近づくにつれ、『おねえちゃん』は沈みがちになった。話し掛けてもぼんやりとすることが多くなり、ふいに姿が見えなくなることが、前よりも増えた。
そうかと思うと、急に泣き出したり怒り出したりする。
どうしたのかと尋ねても、答えてはくれない。心配しないでいいと、繰り返すばかりだ。
ただ、夢見がちな眼差しで、『私が私らしくいられる場所にずっといたいの』と言う。
それはどこなのかと聞いても、秘密だと、笑って教えてくれない。
「ここには、奏ちゃんやあなたがいるけれど、やっぱり苦しい。ここは私のいるところじゃない」
そう言った姉は、本当に苦しそうだった。
そして、あの日。
姉とのの思い出はあの日で、終わっている。
「あの日、一緒に行かないって言ったのは、理由があったの」
いつのまにか、浴衣姿の女の子が花を見上げていた。
「理由?」
「そう、理由」
女の子の表情は真剣だ。
「あの時、あなたを祭に連れていったら、きっと捕まった」
「捕まった、って何に?」
「それは秘密」
そう女の子は笑う。
女の子が言う『あの日』は、夏祭りが行われた日だ。
花は毎年楽しみにしていて、『おねえちゃん』と『奏太おにいちゃん』と一緒に行くのが恒例だった。
それなのに、その年に限って、『おねえちゃん』は一緒に行かないと口にしたのだ。
どうしてと聞いても、理由を教えてはもらなかった。随分ごねたが、結局花が体調を崩してしまい、なしくずしに留守番ということになった。
何故、姉は花を置いていこうとしたのか。
奏太と二人きりで行きたいのかというと、そういうわけでも無さそうだった。置いていくといいながら、出かける時は、何度も心配そうに振り返っていたのだから。
だが、奏太おにいちゃんとともに戻って来た姉は、いつになく上機嫌だった。
お土産といって渡されたのは、あの鈴。
盗られてしまった小さな鈴は、やはりこのとき『おねえちゃん』がくれたものだったのだ。
「これね、お守りなの。魔除けになるんだって」
得意げな顔で花に言った姉の顔は、前と同じ、大好きな表情だった。奏太おにいちゃんと並んで写真を撮ったときも、にこにこと笑っていた。
「それにね、これは私の思いを込めた特別製なの。私がいなくても、きっとあなたを守ってくれる」
だから、絶対になくさないでね。
花の手に鈴を握らせると、『おねえちゃん』はそう言って、また笑った。言っていることの半分はよく意味がわからなかったが、『おねえちゃん』が笑っているから、嬉しかった。
けれど、次の日。
朝起きたら、『おねえちゃん』はいなくなっていた。
そして、花以外の誰もが『おねえちゃん』のことを忘れてしまっていたのだ。
「思い出した。私が『おねえちゃん』のことを話しても、誰も信じてくれなかった。仲が良かったはずの『奏太おにいちゃん』さえも」
空想の中のお友達だと、両親は決めつけた。
確かに、『おねえちゃん』の部屋だったはずの場所は、物置のようになっていたし、お揃いで買ったはずの食器も、どれだけ探しても見つからない。
一緒に写したはずの写真も、いつのまにかどこかへいってしまっていた。
残った鈴だけが、花の手元に残ったものだ。だが、それも『奏太おにいちゃん』は、自分が買ってきてやったものだろうと、『おねえちゃん』の存在を否定する。
小さかった花は、だんだん姉がいたのか、自分の空想だったのかわからなくなり、やがて本当に忘れてしまった。
「異界に行ったのよ」
女の子が、花にそう告げる。
「異界って、狢さんたちがいる世界?」
「そう。私、あなたから見ても、変わっていたでしょう? 怪我を治したり、淀みを見つけたり」
確かに、『おねえちゃん』は花には出来ないことを簡単にしてのけた。
「他にもね、私その人の体調の良し悪しがわかったり、ここではない場所への入口を見つけたりもできたのよ。物心ついたときから、私にとってはそれが普通だった。それで、両親を戸惑わせたこともあった。でもね、大きくなるうちにわかったの、私、普通じゃないって」
そうして、なるべく目立たないように生活していたのに、ある日突然気がついてしまったのだ。
自分の存在が、何か得体の知れないものを引きつけるということを。
「声がね、聞こえるの。『食べたい』って。得体の知れない何かが『こっちにおいで』って。そこはとても深い闇の中で、私が普段見つけている異界への入口とは全然違う場所だった。だから、思ったのよ、逃げなくちゃ、て」
だが、それと同時に他にも気がついてしまったことがあった。
自分の後ろをついてくる可愛い妹から、とてもよい匂いがしていることを。
そして、その匂いは、自分など比ではないくらい恐ろしいものを呼び寄せてしまう。
「それなのに、あなたには私みたいな、あいつらを避ける力がない」
まったく無防備に、危ない場所に近づこうとする。目を離すと、人でない何かに声をかけている。
「私、ずっと心配だったの。もし私がいなくなってしまったら、あなたを誰が守るんだろうって」
今、目の前にいる女の子は、花よりも小さくて、幼い顔立ちをしている。
にもかかわらず、ずっと年上のような気がした。
少なくとも、その目が肉親を慈しむように花を見つめているのだから。
「だから、鈴をあげたの。これの中に、私の一部を閉じ込めて、あなたの匂いを隠すように」
そのせいで、異界では中途半端な存在となってしまったのだと。
だが、それが彼女のとっても幸いした。
「鈴にはね、私の『名前』とあちらの世界での『私の存在』を封じこめたの。そうすると、私という存在がとても不安定なものになってしまった。異界にありながら、死者でもなく生者でない異形になりきることの出来ない存在。主さまが言うには、そういう人間はいくらおいしそうな匂いがしていても、食べると毒になるって」
ならば、もう『おねえちゃん』は大丈夫なのだろうか。食べたいと言っていた何かから逃げ切ることが出来たのだろうか。
そんな疑問を口にすると、女の子は困ったような顔をした。
「ほんとはね、これはあなたを守ると同時に、私を守るものでもあるの。あなたがそれをあちらの世界でもち続けていれば、大丈夫なはずだったの」
「でも、私はここに来て、鈴を取られてしまった」
大事なものだとわかってはいたけれど、何故大事なのか、本当に思い出せなかった。
そうして、結局、あの鈴は少女に盗られてしまったのだ。
「あいつらは、一度目をつけた獲物に対してひどく執着するって聞いたけど、ここまでとは思わなかった。あなたをこの世界に呼び寄せたのは、あいつらなの」
不完全なままだと、ずっと毒のままだから、と女の子は少し困ったように笑う。
「本当はね、あいつがあなたに何か仕掛けてくる前に、元の世界へ戻すつもりだった。あいつらは、あちらの世界の人間を呼び寄せることが出来ても、直接何かできないし、あなたが自分の名前を思い出すのと同時に、主様にも手伝ってもらって、もっと強いまじないを掛けるつもりだったから」
でも、もう無理、と女の子は言う。
「ねえ、お願い。私の『名前』を守って。あいつらが持っていった鈴はもう抜け殻で、中身は今あなたの中にある。あいつらがそのことに気がついたら、きっと戻ってくる」
「でも、どうやって守るの」
思い出せたとはいっても、全てではない。今花の中に戻ってきている記憶は、『おねえちゃん』と過ごした短い思い出だけだ。
それ以降のことも、自分の名前のことも、まったく思い出せない。
「ごめんね、私は異界へ行くまでに、あちらの世界で存在したものでしかないの。あくまで『名前と記憶』が基本になって作られた存在だから、それ以外のことは、教えてあげられないの」
「それならば、やはり自分の名前は、自分で思い出さないと駄目なの?」
どうやれないいのか、本当にわからない。
そもそも、今戻ってきた記憶さえ、偶然だ
「最初に、この世界で、あなたが聞いたことを覚えてる? 大事なものを落としたんだろうって。それを見つけなければ、帰れないって」
「確かに、そう言っていた。だからあなたは迷子なんだろうって」
「その言葉がヒント。この世界のどこかに、あなたが落とした大事なものがある。どこに落ちているかは、自分で見つけないとだめなの。他人に見つけられてしまったら、その人に支配されてしまうし、異界に取りこまれて帰れなくなってしまう。本当は、もっとゆっくり思い出して欲しかったんだけど」
伏せたまつげが震えている。まるで泣いているようにも見えた。
「どうか、記憶を取り返して。記憶が戻れば、ここの住人ではなく生者でもあるあなたに、あいつらは手出しできない。そのまま、あなたがここから帰れば、あなたの中にある私の『記憶と名前』も、永遠に元に戻ることなく私はここで生きていけるし、あなたもあちらの世界で、変なものに好かれずにすむ」
どうか、お願い。
少女の指先が、花の手に触れた。
ひやりと冷たく、まるで生きていないようだ。
「それから、思い出した私の名前は、口にしては駄目よ。例え、私自身に対しても」
どうして、と口にしようとして、妙な感覚に気がついた。
辺りの景色が歪んでいる。それと同時に、目の前の少女の姿が滲むように揺らぎ始めた。
ああ、目が覚める。
背中を引っ張られるような感覚が加わり、顔をしかめる。
まだ、だめだ。まだ聞きたいことがあるのに。
「ねえ、あなたは朝顔さんなの?」
しかし、そう尋ねた花に対して、返事はない。ただ、優しい微笑みだけが、最後に花の目に映った全てだった。




