【十八】
気がつけば、花は薄暗い場所に一人で立っていた。
狢の姿もないし、あの少女もいない。
辺りを確かめてみれば、どこかの狭い道の真ん中にいるのだとわかる。
左右には、真っ暗で人の気配もしない古びた家。街灯はあるが、今にも消えてしまいそうで、暗い道を照らすほどではない。
後ろを振り返ってみれば、まっすぐ伸びた道の先は真っ暗で、何も見えなかった。
正面も同じく道は先へと続いているが、後ろ側と違ってぼうっと明るい。
自分はどうしてしまったのだろう。
先ほどまで、確かに花は朝顔の家の前にいたはずだ。
黒い何かに鈴を取られ、体から何かが抜けている感覚があったのは覚えている。それから意識が遠くなって――いつのまにか、ここにいたのだ。
夢を見ているのか、まさかとは思うが、また違う世界に飛ばされてしまったのか。
どうすればいいのかわからず、途方に暮れていると、かすかに、何かの音がしているのに気がついた。
耳をすませば、聞こえてくるそれは、祭り囃子。
もの悲しい笛や太鼓の音が、途切れ途切れに耳に届く。だが、それはどこかいびつで歪んだ音色をしていた。
最初、迷い込んだ時に聞いた音とよく似ているが、耳障りというほどでもない。
集中して音がどこから聞こえてくるのか確かめてみると、ぼんやりと明るい光の方からのように思えた。
あの先には何があるのだろうと、意識して目をこらせば、それは神社の参道だった。
両側に屋台が並んでいて、それぞれから薄ぼんやりとした光が漏れているが、主はおらず、店を覗き込む人もいない。
しかも、ところどころが、まるで消しゴムで消したかのように掠れて黒く見えている。
進むべきか、もう少し様子を見るべきなのか。
どうしようと、ただ立ち尽くすだけの花は、聞こえてくる音が祭り囃子だけではないことに気がついた。
か細く弱々しい泣き声がする。
一瞬、あの少女のものだろうかと思うが、泣くという行為が、結び付かない。
なにより、あの少女と違うと思うのは、その泣き声に懐かしさを感じたからだ。
あんなふうに泣く誰かを知っているような気がする。
もう一度、花は後ろを振り返った。暗くどんよりとした空気はさきほどと変わっていない。声も、音もせず、見ているだけでも不気味だ。
だとすれば、やはり前に進むしかない。
大きく息を吸うと、覚悟を決めて前へと歩き出す。
ここがどこなのか、また違う場所に飛ばされてしまったのか――それとも夢なのかを確かめるために。
それほど歩くこともなく、花は参道に辿りついた。
遠くから見ていたときは、長く続いているように思えた参道だったが、実際は短く神社の社はすぐそこだ。
境内は、参道と比べて明るいが、やはり人はいない。
だが、泣き声は聞こえてくる。むしろ、先ほどよりはっきりしているくらいだ。
もし声の持ち主がいるとすれば、境内の中だろう。そう思ってぐるりと見回すと、賽銭箱の横に隠れるようにして、少女が座り込んでいる。
俯いたまま、両手を胸の前に交差するようにして、何かを持っていた。やはり、すすり泣きはその女の子から聞こえてくるようだ。
用心深く近づくと、その子の姿がはっきりと見えてくる。三つ編みで、その朝顔柄の浴衣には見覚えがあった。
写真の女の子と似ているような気がする。
あの子も、同じ髪型をして、似た柄の浴衣を着ていた。
なにより、胸が痛い。せつないような、苦しいような気持ちが、女の子を見ていると湧き上がってくる。
喉元までせり上がってきたその何かは、熱い塊になって、花の記憶を揺さぶった。
「……おねえちゃん」
思わず口をついて出た言葉に、花自身が驚く。
何故そんなことを言ってしまったのかわからない。何も覚えていないというのに。
だが、花の声を聞いた女の子は、ゆっくりと顔を上げた。
泣いているその顔を見て、息がつまりそうになる。
自分によく似ていた――姉妹だ、と言われれば納得してしまうほどに。
「ごめんなさい」
言葉をなくしてただ見つめることしかできない花に向かって、女の子はそう口にした。
謝られる理由がわからず戸惑っていると、少女の目から再び涙がこぼれ落ちた。
「巻き込んでしまって、ごめんなさい」
その必死さに、花は目を丸くする。何度も謝るけれど、どうしてなのかはわからない。
「でも、でもね、これだけは守ったから」
そう言って女の子が差し出したのは、先ほどまで大事そうに持っていたものだ。
「鈴……」
女の子の小さな手の平には、鈴があった。
花が持っていたものによく似ているが、まだ新しそうに見えるし、潰れてもいなかった。
「私の鈴は盗られてしまったよ」
だから、それは、私のものじゃない。花がそう言うと、女の子は、悲しそうな顔をした。
「うん。だけど、あの鈴の中にあった大事なものは、守ったの。それが、これだよ」
「大事なもの?」
「私が昔、鈴の中に隠したもの」
どういうことなのか聞き返そうとしたとき、女の子は立ち上がり、手を伸ばして、花の胸にその鈴を押し付けた。
その鈴は、花に振れたとたん弾け、同時に火花のようなものが散る。だが、熱くはない。
「それはあなたに返すから、どうするかはあなたが決めて」
女の子がそう言ったとたんに、火花が花の体に吸い込まれ、消えていった。
その瞬間、頭の中に、膨大な量の何かが溢れてくる。
誰かの声、誰かの顔。
懐かしい景色と、楽しかった会話。
花の手を引いて歩いていく、白い影。
これは、全部、『おねえちゃん』の記憶だ。
漠然と、頭の中で、そのことだけはわかる。
追いかける背中に、覚えがあった。
花を撫でてくれた手の感触を覚えている。
けれど、それを『返す』って、どういうこと?
花の疑問をわかっているように、目の前の女の子が微笑む。
泣きはらした顔で、それでも精一杯の笑顔を浮かべている。
「あなたは、誰?」
問いかけの答えは、もうわかっている気がした。
何かの映像を再現しているかのように、頭の中に記憶が戻って来る。
忘れていたことが嘘のように、過去の出来事がしっくりと体の中に入り込み、再生されていくのだ。
「思い出させて、ごめんなさい」
女の子の声とともに、私の意識は、溢れてくる記憶の波に飲みこまれていった。




