【十六】
「朝顔さんは、一人で暮らしているんですよね」
朝顔が去った後、家の中に足を踏み入れた花は、広すぎるリビングルームを見回して、つい呟いてしまった。
「誰かと一緒だなんて、聞いたことないぞ」
狢の言うとおりならば、やはりこの広さはおかしい。
この世界の住人が、以前関わった家を参考にしているというのなら、部屋の広さなど関係ないのかもしれないが。
そもそもどうやって建てるんだろう、とふと思ったが、勝手に服が綺麗になってしまう世界だ。知らない方がいいような気がした。
「狢さんの家も、広かったりして」
花は狢がどこでどういう生活をしているのかは知らない。いつもふらりと現れるが、どこから来るのかも、気にしていなかったのだ。
「見に来るか?」
そう言った狢が何故か舌なめずりをしたので、花は迷わず否定した。うっかり行ったらとんでもないことになりそうだと、本能が訴えている。
狢はどこまで本気だったのか、花の返事を豪快に笑い飛ばした。
「朝顔は好きに見ていいって言ったんだ。ちなみに俺は何も出来ないから、花、がんばれよ」
つまり、この家の中を見て回り、ヒントを見つけるのは、花自身ということなのだろう。狢は側にはいるが、手は出さないつもりのようだ。
「頑張ってみます」
そう言ってみたものの、何からどう手をつけていいのかわからない。
仕方がないので、とりあえず、この家の中を調べてみることにした。
外から見た感じでは、ありきたりの2階建てだったが、中はどうなのだろう。今いるリビングルーム、他には和室に洋間。2階を階段下から覗いてみれば、扉が3つほど見えた。
ざっと見回しても、どこもおかしいところはないように思う。
よくあるリビングに、対面式のキッチン。置かれたソファーやテーブル、テレビなどは、特に特徴のないものだ。
キッチンには割と大きめの冷蔵庫と、食器棚。レンジなどが乗せてある棚も見える。
「食器、結構多いですよね」
一人暮らしの量ではない。
もらい物などを並べたというには、少し枚数も多い気がする。
「普段使いしてそうなのは……4人分?」
お茶碗も湯呑みもマグカップも4個ずつ。
二つは大きくて、残り二つはやや小さめだ。
大人用と子供用。
ふと、そんな考えが頭をよぎる。
だが、朝顔は一人暮らしだという。
考えられるのは、朝顔の記憶の中にあるこの家は、4人家族だったかもしれないということだ。彼女もその中の一員だったのだろうか?
でも、まだわからない。
花が今住んでいるマンションのように、誰かの知り合いの家に似たところにたまたまいるだけかもしれないのだ。
「こっちが、和室ですよね」
リビングルームから廊下を挟んで襖があり、そこを開くと六畳ほどの和室があった。
窓もあるというのに、ここはどことなく薄暗く湿っぽい。微かに黴の匂いもする。使われていないというよりも、長い間放置していたという感じだ。
そのくせ、埃一つ落ちていない。
和室には、蛍光灯以外一切の家具はなく、ただぽつんと仏壇だけが置かれている。
仏壇の扉はきっちりと閉められていて、試しに引っ張ってみても、開かなかった。鍵などついていないし、古びて固くなっているわけでもないのに。
この部屋には、他には何もなく、結局花は何も得ることが出来ないまま、そこを出た。
後1階にあるのは、トイレと風呂、いくつかある押し入れなどで、調べてみたが、特に気になるものは見つからない。
「ヒントはここにあるって朝顔さんは言ったけれど、何もないですよね」
「まだ2階があるだろう?」
先ほどから無言で花の後ろを着いてきていた狢が階段の方に目をやった。
「2階……そうですよね」
そう言って見上げた花だが、何故か気乗りしない。
2階への階段を登ろうと思うと、足が竦んでしまうのだ。
「花? 大丈夫か」
狢が手を伸ばして、くしゃりと頭をかき回した。
「恐いなら、俺が先に上がってみようか?」
狢には、花が怖がっているように見えたのだろうか。
……そうなのかもしれない。恐いというのとは少し違うが、どうしても2階にはあがりたくないと思ってしまうのだ。
だが、きっとそれではいけない。
狢も、チャンスは2度はないと言っていたはずだ。
「行きます」
覚悟を決めて歩き出すと、先ほどまでと同じように、黙って狢はついてくる。余計な事を言われないことが、今は嬉しい。
変に慰められたりすれば、ますます気持ちが逃げる方向に行ってしまいそうだったから。
なるべく余計なことは考えないようにして、ゆっくりと、急な階段を上っていく。
一段ごとに、辺りが薄暗くなるような気がした。
足も重い。
どこか湿っぽい空気も、嫌な感じだった。
2階には窓もあるはずなのに、どうしてこんなに暗いのだろう。
妙な感覚を押し込めるように、それでも用心しながら、花は階段をのぼりきった。
まっすぐのびた廊下は、真正面が突き当たりで窓、左に二つ、右に一つ扉がある。
右の扉は僅かに開いていて、中を覗いてみると、ダブルベッドが置かれていた。クローゼットはあるが、念のため開いてみても、中はからっぽだった。
「こっちは鍵がかかっているのか、開かないぞ」
狢の声に廊下へ戻ると、彼が扉の一つをひっぱっていた。
「こっちは開いているみたいです」
狢が空けようとしていた扉の隣に手を伸ばすと、そちらはあっさりと開いた。
「お、かわいいな」
いつのまにか、後ろに立っていた狢が部屋の中を覗き込んで感想を口にする。
確かに、この部屋の中は『かわいい』という表現がぴったりだった。
薄桃色のカーテンと、花柄のベッドカバー。勉強机の上には、教科書だけでなくぬいぐるみが沢山並べてある。
不思議なことに、他の部屋に比べて、ここだけは明るい気がした。
それに。何故か懐かしい気持ちがする。
「なんだか、花と同じ匂いがする」
妙な感覚に戸惑っていると、狢がそんなことを言い出した。
「匂い、ですか?」
花には、まったくわからない。
だが、狢は間違いない、と言う。
狢の言葉を疑うわけではないが、もしそれが本当ならば、やはり花と朝顔には何か関わりがあると考えるのが自然だ。
そのことを狢に告げると、あっさりと『ならば何かないかこの部屋を調べてみればい』と提案された。
「自分の意見は言えないが、何か聞きたいことがあったら聞いてみればいい」
「その言い方だと、狢さんは何か知っていそうに思うんですが」
「どうだろうなあ」
にやにやと笑う狢の真意はわからない。
でも、それ以上彼が何も言わないだろうことはわかったので、とりあえず部屋の中を調べることにした。
覗いていた時には気付かなかったが、机の横に赤いランドセルがかけてある。
ということは、この部屋の主は小学生なのだろう。
近寄って勉強机の上の棚を見てみると、教科書やノートが並べてあった。
そのうちの一冊を手にとって見れば、何故か名前の部分が汚れて読めなくなっている。
あの絵日記と同じだ。
念のため、他のノートを見てみたが、どれも名前の部分だけ掠れたようになって読めなかった。
他にも何かあるかと探してみたが、机の上には、それ以上手掛かりになりそうなものはなかった。
「ごめんなさい、開けさせてもらうね」
机の主に謝ってから、花は引き出しを開けた。
中にはほとんど何もはいっていない。数本のえんぴつと使いかけの消しゴム。それから一枚の写真。
写っていたのは浴衣姿の女の子と男の子、その間に挟まるように立っている幾分年下らしい女の子だ。だが、男の子以外の顔は汚れて見えない。
ごく普通に見える写真だけれど、目を引くものがひとつだけあった。
真ん中にいる女の子が、手に鈴を持っているのだ。
赤い紐のついた鈴。
それは花が持っている鈴とは違い、歪んではいなかったが、似ているような気もする。
写真を裏返してみると、つたない字で、『おねえちゃんと、そうたくんと、』と書かれていたが、最後に書かれていた名前はやはり薄汚れてしまっていて読めなくなっていた。
「この子も鈴を持っているんですね」
「そうだな、花と一緒だ」
確かにそうだ。そのことに、わずかばかりの引っ掛かりを覚える。
気になることはもう一つあった。
「絵日記に書かれていた名前も奏太だったはずですよね」
「ああ」
「だとすれば、あの絵日記の持主と朝顔さんは何か関係があるのかな」
偶然と言ってしまうには、一致することがいくつかある。
鈴を持っていることも、名前のことも。それに、あの日記には、お土産として妹に鈴を買ったと書かれていた。
あの奏太とこのソウタが同一人物だとすれば、妹がこの写真に写っている女の子ということになる。
そして、同じように鈴を大切にしていた自分の存在は、ひょっとすると。
「私がこの写真の真ん中に写っている女の子なのかもしれません」
確証はない。
まだ、まったくの偶然だと否定できないのだ。
「そうだとすれば、『おねえちゃん』は誰かってことになるのですが……」
すぐ後ろにいるはずの狢に話し掛けながら、振り向く。
彼は無言だったが、花を見つめる目が、答えを促しているように見えた。
「朝顔さん、だったりするんでしょうか」
「花は、そう思うのか?」
「そうですね、可能性はあると思います」
花はもう一度、写真をながめる。
「花がそう思うなら、そうなのかもしれない」
随分と曖昧な言い方だ。
ならば、花が違うことを言っていたら、どうだったのだろうか。今のようなこと同じ言葉を狢は口にしたのだろうか。
「この写真のこと、朝顔さんに聞いてみたいです」
何かを見つけたら、会いに来いと、朝顔は言っていたはずだ。
ならば、何か答えてくれる気はあるということなのだろう。
「よし、なら、白鷺のところに戻るか」
「はい。あ、念のため、もう一度、部屋の中を確認させてください」
他にも何かあるかもしれない。だが、他の場所を探してみても、写真以外、手掛かりになりそうなものは見つからなかった。
結局、花は写真だけを手にして、部屋を出ることになる。
後ろにいるはずの狢は、相変わらず当然のようについてきていて、きっと白鷺のところにも一緒に行くことになるのだろう。
それが嫌でなくなってきている――むしろ、当たり前のことになりつつあることに、僅かに不安を覚えながら、花はちらりと狢を見た。
こうやって彼に頼る部分が増えて行くのは、まずい気がしているのに、狢を突き放すことは出来そうにないのだ。
「どうした、花。俺の顔に何かついているのか」
にやにやと笑いながら、そんなことを行って来るのも、花にとっては当たり前のことになりつつある。前はもっと、距離を置いていたはずなのに、いつからこんなに近い場所にいるようになったのだろう。
「それとも、そんな目で俺を見るのは、俺が好きだからか?」
以前に聞いた言葉を、狢は口にする。
だが、花の返事もあの時と同じだ。
「わからない」
狢は意外に優しい。
時々意地悪ではあるが、花が困った顔をすれば、結局は助けてくれる。
あの恐い少女が近づいてくれれば追い払ってくれたし、それ以外にもいろいろと手伝ってくれる。
それでも、いまひとつ男の気持ちがわからないのは、彼が花に自分のことを好きかと尋ねても、決して彼女を好きだとは言わないからだ。
まるで、義務で尋ねているかのようだと、その柔らかな口調とは裏腹にそれを聞く時の男の眼に、何の感情もないことに気持ちが落ち着かなくなる。
もし好きだと答えたらどう反応するのだろうと考えるが、何故か恐くて口にはできない。
それを言ってしまえば、なにかとんでもないことになるのではないのかと、警戒してしまうのだ。
朝顔の言葉が常に心の中にあるせいかもしれない。
『よそ者に平気で近づく者は、よそ者になにかを望むか、よそ者が嫌いなものかのどちらかだ』
朝顔は前者だと言った。
理由はまだ聞かせてもらっていないが、あれは真実の言葉だったのだろうと思っている。
では狢はどうなのだろう。
花を食べたいと口にした彼は、本当のことを言っているのだろうか。
「つれないなあ、花」
笑っているはずなのに、狢の目は、やはり何の感情も映さない。
いつのまにか、隣にいることが当たり前になっていることが、正しいのか間違っているのか。
今はどうやっても結論が出せないままだった。




