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【十四】

 白鷺の家へ辿り着いた時には、雨は相当ひどくなっていた。

 地面を跳ねる雨粒と、花や狢が歩く度に飛び散る水で、足先も濡れてしまって冷え切っている。

 幸い、白鷺の家からは明かりが漏れていて、誰かがいるのは間違いなさそうだ。雨の中、無駄足にならずによかったと花が思っていると、呼び鈴を鳴らすよりも早く、玄関の扉が開いた。

「ああ、やっぱり花だ。白鷺があんたが来るって言った時は、こんな雨の中まさかと思ったけど」

 呆れたような声も、狐の面も、前と変わりない様子で出て来た朝顔に、花は目を丸くしたまま、固まってしまう。

 まさか、またここに来ていたとは思っていなかったのだ。

「おう、ここにいたのか、朝顔」

 朝顔がいきなり扉を開けたことなど、まったく気にする様子もない狢は、畳んだ傘を玄関先に放り投げるように置くと中に入ろうとしている。

「ちょっと待ちなよ、狢! あんたの足元、ひどく濡れているじゃないか」

「そりゃ雨の中、歩いてきたんだからな」

 悲鳴のような叫び声を上げる朝顔に対して、相変わらず狢は状況を気にしていない。

「何か拭くものを持ってくるから、絶対上に上がるんじゃないよ。もちろん、花も同じだからね!」

「は、はい!」

 花が返事を返してしまったのは、朝顔の剣幕に押されたからだ。確かに、濡れた足のまま上がってしまえば、綺麗に磨かれた床が汚れてしまう。

「恐いなあ、朝顔は。ここは大人しくしておくか」

 表情だけ見ていれば、とても大人しくするつもりがないように見えるのだが、狢がそれでも動かないところを見ると、一応朝顔の言葉を聞くつもりはあるようだ。

 ほどなくして戻って来た朝顔に花は強引にタオルで濡れた部分を拭かれ、靴下を脱がされてしまっていた。隣では、タオルを渡され、自分でやれと言われた狢がぶつぶつ言っている。

「どうせ、服なんてすぐ乾いちまうんだから、ほっときゃいいのに」

 確かに時間はかかるが、ここへ来てから、洗濯をしなくても、いつのまにか、服は綺麗になっている。

 便利ではあるが、花はそれを見る度に、やはりここは別の世界で、おかしなところなのだと実感するのだ。

「気持ちの問題だよ、き、も、ち」

『気持ち』の部分を強調する朝顔に、その点ばかりは同意だと花は頷く。いくら綺麗になったからといって、同じ服を毎日着るのには、抵抗がある。

「さてと。これで少しはましになった。主様は、あんたたちが来るのをお待ちだから、気の済むまで話を聞けばいいよ」

「朝顔さんは?」

 花とは反対に、外へと出て行こうとする朝顔に、慌てて声をかける。

 てっきり、彼女も一緒にいるものだと思い込んでいたのだ。

「私は、帰るところ。……少し疲れたからね。主様は中にいるから、聞きたいことを聞けばいい」

 朝顔はそれだけ言い残すと、花が何か声を掛けるよりも早く、玄関の扉を開けて出て行ってしまった。



 朝顔の態度が気になりながらも、狢に促されるようにして入ったリビングで、ようやく花は白鷺と会うことができた。

 相変わらず白いイメージの彼は、ソファーに腰かけたまま笑顔を浮かべている。

「突然お邪魔してしまって、ごめんなさい」

 花が頭を下げると、気にしないでという声が返ってきた。

「私に話があるんだろう? 長い時間留守にしていて悪かったね。とりあえず、二人とも、座って」

「あ、はい」

 花は白鷺に促されるように、向かい側のソファーに座った。もちろん、当然のように狢が彼女の隣に座る。

「で、穴の方はその後どうなったんだ?」

 まず最初に口を開いたのは、身を乗り出した狢だった。

「普段より大きかったから、厄介だったけれど、ちゃんと閉じたよ。だから、少し疲れたかな」

 白鷺は言うが、あまり疲れたふうには見えない。

「穴を塞げるのは、あんただけだしな。頼りにしているぜ」

「君に言われると少しばかり気持ち悪いな」

 二人は和やかに会話を続けているが、もちろん花には意味がわからない。

 確かに穴の説明は聞いた。白鷺がその穴を塞ぐことが出来るということも。だが、その説明は、花の中ではまだあまり理解できていない。

「ああ、花は、穴については知らないんだったかな」

「いえ、簡単には説明してもらいました」

「そう。狢に聞いたの?」

 ちらりと狢を見た目は、妙に鋭い。それを受け流すように狢は肩を竦める。

「余計なことは言っていないって。それに、説明なら、俺よりあんたの方がいいだろうし」

「……信じることにするよ」

 白鷺の笑顔に、今までとは違う薄ら寒いものを感じて、花は身を竦める。たまにここの住人は、得体の知れない怖さを滲ませる時がある気がした。

「穴っていうのはね、便宜上そう呼んでいるけれど、あの世とこちらを隔てる空間が薄くなって、一部が混じり合う現象を言うんだ。元々、この世界は不安定だからね、何かのはずみでそういうことが起こる。起こる原因は様々だけど、一種の自然現象みたいなものだね」

「穴を塞ぐっていうことは、空いたままだと不都合なことがあるんでしょうか」

「そうだね、穴が空いて繋がってしまうと、互いの住人が迷い込んでしまったりする。例えば、花みたいに」

 それは、花のいた世界とこちらが『穴』に寄って繋がったのだと思っていいのだろうか。

 その一瞬の偶然によって、花はこちらに来たと、白鷺はそう言っているのだ。

「あまりよくないことだから、穴が空けば、私が塞いでいる。しかも、今回に限っては、穴は自然に空いたものではないようなんだ」

「無理矢理空けることも出来ると?」

「……手順を踏めばね」

 手順、という言葉に引っ掛かりを覚えて、花は顔を顰める。見れば、白鷺の顔は、不愉快そうに歪められていた。

 花の想像でしかないが、もしかするとその『手順』はあまり気持ちのいい方法ではないのかもしれない。

 だから、花はそのことには触れず、別のことを質問した。

「穴が繋がって、迷い込む人がいるって言いましたよね? 繋がった先があの世、ってことは、死者がこちらにやってくるとか?」

「それならいいんだ。死者が迷い込んできたからって、この世界がどうかなるわけじゃない。問題は、こっち側にある。ここにはね、死者でありながら、本来行くべき死の世界を拒んだものたちがいるんだよ。彼らは穴に近付けば、引っ張り込まれてしまう」

 死者、と花は口の中で繰り返した。

 鬼がいるなら死者がいてもおかしくはない。

「彼らは理由があってこちらに来て、私が保護した者たちだ。彼らを受け入れた以上、私には守る義務がある」

 彼の言葉はゆるぎも迷いもない。

 ただまっすぐに、自分が為すべきことを口にした。そういう風に、花には見えた。

「まあ、死者に関しては、対処法を教えてあるから、よほどのことがなければ大丈夫。問題は、そうではない、中途半端な生者かな」

 花が首を傾げると、白鷺は曖昧な笑みを浮かべた。

「そのことに関しては、花には話せない。だから、中途半端な生者って何?という質問には答えられない」

 答えられないということは、本当のことを言えないということだろうか?

 彼らは、花に対しては嘘はつかないと言っていた。何かを口にすればそれは嘘になってしまうなら答えない、と。

「納得してくれた?」

「……釈然としませんけれど」

 これ以上、何を聞いても穴については話してはくれないだろう。

 話してくれる内容は、嘘をつかなくてもいい――花に話していいことだったのだろうから。

「さて。私の話はここまでだ。花、君は何か聞きたいことがあったといったね。それは、町の中で出会った"少女"のこと?」

「は、はい」

「大体のことは朝顔から聞いているけれど、私は花からも起こった事を教えてほしい」

「もちろんです。そのことを相談したかったんですから」

 花は出来るだけ詳しく、なるべく客観的になるように話しはじめる。

 少女の外見と、彼女が鈴を欲しがったこと。

 花の本当の名前を知りたがったこと。

 少女に取引を持ちかけられ、それを断ると強引に連れていかれそうになったこと。

 それ以外にも、思い出せる限りを、白鷺に告げる。

「狢さんたちは、彼女が違う世界から来たと言っていました。だから余計にわからないんです。何故、彼女がこの鈴を欲しがるのか」

 そう言って、花は鈴を取り出して白鷺に見せる。

「私に言えるのは、それは花にとっては大事なものだということだけだ」

 何故大事なのかは、やはり教えてくれそうにはない。

 誰に聞いても答えは同じ。大事だと言われても、花には鈴に関する記憶がまったくないのだ。嘘はつかないとわかっていても、もやもやした気持ちは胸の中に残ってしまう。

「鈴に関しては言えないことだらけだけど、花が会った少女については、心当たりがある。あれは、たまに穴を通って、こちらにちょっかいを賭けてくる困った存在だ。こちらにいる『死者』を狩ろうとしたり、力の強い存在を取りこもうとする」

「場合によっては、鬼も食っちまう恐ろしい存在なんだぜ」

 それまで黙っていた狢がそう言ったものだから、花はぎょっとした顔で彼の方を向いた。

「狢さん、そんな相手にケンカをふっかけようとしたんですか」

 花を助けるためだったとはいえ、相手が引いてくれなければ、狢が怪我をしたかもしれないのだ。

「心配してくれるのか? 大丈夫、少しぐらい囓られたって、負けはしねえよ」

「囓られたら、駄目じゃないですか」

「怪我は、いつかは治る。魂さえ囓られなきゃ、平気なんだよ」

「でも、囓られたら痛いし」

 そう口にすれば、狢に笑われた。

「鬼を心配するなんて、本当に花は面白いなあ。ここの住人じゃないからって、鬼に優しすぎだ」

「そうそう、鬼は簡単には死んだりしないよ、花。狢が他の鬼と比べても強いことは、私が保証しよう。もし狢が負けるとすれば、誰もあれには敵わないんじゃないかな」

「あんた、自分の強さを棚に上げてるだろう」

 呆れたような狢の言葉に、白鷺はめずらしく声を上げて笑った。

「とにかく、あれは恐い存在だ。また花を狙ってくるかもしれない。狢、花を食べたいなら、しっかり守ることだね」

「おう」

 食べること前提で話が進んでいるのは、気のせいではないはずだ。

 しかし、やけに嬉しそうに任せとけと言う狢の態度に、毒気を抜かれてしまって、文句を言う気持ちにもなれない。

「その少女が恐い存在だというのはわかりました」

 狢がそこまで言う相手なのだ。

 だからこそ、ますますわからなくなる。

「そんな存在が、どうして私の鈴を欲しがるのか、やっぱりわかりません」

 鈴を渡せば、花を元の世界へ帰すと行った。それが嘘でなければ、目的はあくまでこの鈴で、花はどうでもいいとも考えられる。

「そうだね、じゃあ、ひとつだけ助言を。君の記憶を取り戻すためには、鈴が必要だ。だから、絶対に手放してはいけない」

「……わかりました」

 皆と同じことを白鷺も言う。

 だが、白鷺も皆と同じで、それ以上教えてはくれそうにない。

「君の前に現れたあれの存在に頼って帰れないことはないと思うけど、鈴を渡せば花の記憶も名前も戻らない。それだけは言えるよ」

 花自身も、得体の知れない存在よりも、少しでも信用できる部分がある白鷺たちの言うことの方を信じたい。

「他に聞きたいことはあるかな?」

「あの、それならばもう一つ。朝顔さんのことなんですけれど」

 穴が空いたという話を聞いた時から、ずっと気になっていたことがある。

 何故彼女は穴が空いたことを恐れるのか。

 狢は特に気にしてはいなかった。そのことから、ここの人間全てが、穴を恐れているわけではないのだと思う。

 だが、朝顔は違う。怯えて、白鷺の家から出ようともしなかったのだ。穴がふさがったということがわかり、落ち着いてから、ようやく花を探しにきたくらいだ。

 穴が恐い。

 今回繋がった穴は花が知る『あの世』に近いのだという。

 そして、その穴は『死者を引きずり込む』と白鷺は言った。もしそれが本当ならば、朝顔は。

「朝顔さんは、『死者』なんですか?」

 白鷺は微笑んだ。

「それを知りたければ、直接朝顔に尋ねてみればいい」

 教えてくれるかどうかはわからないけれど。

 そう呟いた白鷺の表情からは、何も読みとれなかった。

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