【十三】
雨が降っている。
ベッドの中で、花はそんな風に思った。
カーテンの向こうは薄暗く、微かに雨音が聞こえて来る。
起き上がって、部屋の隅にあった時計を確認してみれば、もう7時を過ぎていた。
雨のせいなのか、昨日よりも暗く沈んで見える部屋に、花はため息をつく。
いつもなら、そろそろ狢か朝顔が顔を覗かせそうなのに、今日に限って、来る気配もない。
出かけるには雨がひどいし、どうしようかと考えていると、テーブルの上に置きっぱなしになっているノートと、絵日記帳が目に入った。
狢と一緒に思いついたことを書こうとしたノートは、ほとんどが白いままだ。
もう一度絵日記帳を見直しながら、わかったことを纏めてみようかと思う。
不思議な少女のこと、絵日記のこと、鬼のこと、それから海。
思いついたことを箇条書きで記してみると、思いの外ページが埋まった。
そうしておいて、改めて、自分がやるべきことは何かを考える。
「白鷺さん……」
呟いてしまったのは、昨日、やり残してしまったこと思い出したからだ。白鷺を会いたいと考えていたのに、いろいろあって、すっかり忘れてしまっていた。
彼に聞きたいことはたくさんある。白鷺が塞ぎに行ったという穴のことも、詳しく聞きたい。
やはり今日は彼に会いに行ってみよう。
そう決めてしまうと、少し気持ちが楽になった。何もせず、雨の音ばかり聴いているのも、よくない気もする。
以前、朝顔が持って来てくれた衣服の中から、適当に選び身に付けた。不思議なことに、最初に花が持っていた自分の服以外は、いくら着ても汚れることがない。服を脱ぎ、翌朝になると、まるで新品のようにキレイになっているのだ。
最初は気持ち悪い気もしたが、人間慣れてしまうものらしい。
下着だけは気分的な問題で軽く手洗いして乾しているが、それ以外はすっかり抵抗感なく着てしまっている。
こういうのも、この世界に染まってしまうことになるのだろうか。
たまにそんな風に不安になるが、なるべく今はそのことは考えない。
靴を履き、玄関の隅にあった少し派手な傘を手にとって、扉を開けて外を覗く。
薄暗い廊下には誰もおらず、人の気配もしない。
狢も朝顔も、今日はいないようだ。
一人で出かけるしかないことに、少し不安になるが、それを振りはらうように勢いをつけて、廊下へと出る。
白鷺の家への道は、それほど難しくはなかったはずだ。
頭の中で、一度道順を思い返して、花はマンションから出た。
いや、出ようとしたのだが。
「狢さん? どうしてこんなところで、突っ立っているんですか」
いつもならば、遠慮なく花の部屋にやってくるのに、今日に限っては、それをしないのが不思議で、思わずそう尋ねてしまう。
「まあ、いろいろあってな」
言葉を濁して、視線まで逸らされてしまったから、余計に花は混乱する。
「俺だって、悩むことはあるんだよ」
具体的な悩みの事は言わず、狢は自身の頭をがしがしと掻きむしった。
「な、悩むって何をですか?」
花が問うと、狢の顔は険しくなった。
元々、きつい顔立ちだから、そうすると、一歩引いてしまうくらい怖い。
「いろいろ、だ。いろいろ!」
「意味わかりませんよ!」
狢が大きな声を出すものだから、花も同じように声が大きくなる。
「って、なんで花まで怒鳴るんだよ」
「つ、つられたんです」
「つられたって、お前なあ」
狢が笑いだした。
「悪い。ちょっとばかり、気が立っていたみたいだ。花を怒らせるつもりはなかったんだ。……というか、お前、ようやく元気になったな。そんな大声が出せるのなら、大丈夫だろう」
狢の言葉に、そうかもしれないと花も思う。
先ほどまでの自分は、少し気分が落ち込んでいた。雨のせいだけでなく、一人きりで行動するということが不安だったのだ。
「感情が露わになるってのはいいことだ。花はまだまだ感情を抑え気味だしな。そういうのは、よくない」
うんうんと一人納得しているが、花にはわけがわからない。だが、理由を問いかけても、狢はにやにや笑うだけで答えてはくれなかった。
「もういいです」
拗ねたような声を出すと、狢が笑って悪いと謝ってきた。それ以上の言葉はなかったけれど。
「で、こんな雨の中、どこに行くつもりだったんだ?」
そこでようやく花は、自分が何をしようとしていたのかを思い出した。狢のペースに乗せられて、すっかり本来の目的を忘れるところだった。
「白鷺さんのところに行ってみようかと思って。ずっと行けなかったから」
「そういえば、結局花はあれから白鷺に会っていないんだよな」
よし、行くか、と言って狢が花の手を掴む。そのまま歩き出そうとするが、彼は傘を持っていない。
「ちょっと、狢さん。濡れますってば」
雨は、かなり激しく振っている。
花の持っている傘はそれほど大きくない。しかも、まだ手の中で閉じられたままだ。
「少々濡れても大丈夫だって」
「この雨、少々じゃないよ」
慌ててどうにか傘を開き、頭上に掲げようとするが、背の高い狢には届かない。
結局二人とも濡れてしまうことになる。
「ああもう、面倒だな」
狢の空いている方の手が伸びてきて、花の傘を奪い取った。
「こうすれば、いいだろ」
ぐいと引きよせられ、見た目は完全に相合い傘になってしまっている。狢は気にしていないようだが、花は落ち着かない。
それに、しつこいようだが、肩の辺りは濡れている。
もう一度抗議しようと思ったが、結局花は諦めた。雰囲気的に何を言っても無駄な気がしたのだ。
だから、もういいですと小さく口にして、抵抗するのはやめてしまった。
そんな花を見下ろす狢の表情は、どこか楽しそうだ。
「なあ、花。俺のことをどう思う? 好きか、それとも嫌いか?」
花を見る目は、とても真剣なのだった。胡散臭い雰囲気は微塵もない。それなのに、花が身構えてしまうのは、その真意がわからないせいだ。
好きか嫌いかの二者択一ならば、恐らく気持ちは「好き」に傾くだろう。
だが、その「好き」は、花の中では微妙だ。
悪感情を抱いていないということも、少しばかり心を許してしまっていることも、自覚はしていた。
嫌いではないから、好きというわけではないくらい、花にもわかっている。
ならば、花が狢に抱く感情は何なのか。
友情、は違う気がする。
愛情を抱いているということは、ありえないだろう。
それにそもそも、狢が言う「好きか嫌いか」はどう好意的に見ても、愛の告白には感じられなかった。
「わかりません」
なので、花が口にしてしまったのは、そんな返事だ。
正直すぎる答えに、狢がどういう反応を返すのか不安になるが、彼は一瞬驚いたような顔をしたものの、怒ったりはしなかった。
反対に、笑い出す。
「なんだ、その答え。嘘でも、好きとか言ってくれれば、嬉しいのに」
また、花は頭をぐしゃぐしゃにされる。狢の手が濡れているせいで、髪が変な感じに乱れてしまう。
「まあ、正直なのはいいことだ」
何がいいのかさっぱりわからないが、狢は上機嫌で、そのことに花の方が戸惑ってしまった。普通、あんな返事を返されれば、気分は良くないだろうに。
「とにかく、白鷺のところに急ごう。雨もひどくなってきてるしな」
結局、いつものように、狢に引っ張られるようにして、花は歩き出す。
いつもと違うのは、二人の物理的な距離感だけだ。
そのことを微妙に意識してしまうのは、先ほどの狢の言葉のせいなのだろうか。
そんな、もやもやしたものを消せないまま、花は黙って狢についていくしかなかった。




