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【十二】

 相変わらず、町で誰も見かけない。

 それなのに、生活感だけは感じられるのが、花には少し不気味だった。

 花がここを通るまでは、確かに誰かが遊んでいただろう、おもちゃが無造作に外に投げられている。

 いい匂いが漂ってくるのは、すぐ先にある飲食店だ。わずかに開いた引き戸からは、さっきまで誰かがいたかのように料理が並べられたテーブルが見える。

 それなのに、生き物の気配だけが、そこにはない。

 それほどまでに、人間が嫌なのだろうか。

 花の方には、危害を加える気持ちなどないし、彼らの生活の邪魔をしようとも思わないのに。

「どうした、花?」

 きょろきょろと回りを確かめながら歩いていたからか、狢が声をかけてくる。

「あ、いえ。なんでもないです」

 他の住人に会ってみたいといっても、狢も困るだけだろう。そんなふうに思って、花はなるべく明るい口調でそう言った。

 だが、狢には花が戸惑っている理由がわかったらしい。繋がれた手に力が籠もる。

「隠れている奴らに対して、気を悪くしないでやってくれよ。悪気はないんだ。それに、あいつらが花を避けているってことは、あんたがまだこの世界に染まってないってことだしな」

 この世界に染まれば染まるほど、元の世界へ帰ることが難しくなる。

 そう言われたことは、花も忘れていはいない。

「まあ、今はそんなことより、息抜きだ、息抜き!」

 一瞬二人の間をよぎった暗い雰囲気を吹き飛ばすように、狢が大きな声を上げた。

 かなり強引ではあったが、花は狢に連れられて、息抜きとやらにいく途中だったということを思い出す。

「息抜きはいいんですが、どこまで行くんですか?」

 狢はもうすぐと行って、ずっと花を引っ張っている。だが、その『もうすぐ』という言葉は、繰り返されるばかりで、狢の目的地にはまだつかない。

「この道を抜ければ、すぐだ」

「本当ですか?」

 少しばかり疑うような目で花は狢を見てしまった。

「本当だって。ほら」

 ぐいと引っ張られて、指差された方向に向くと、潮の香りがした。かすかに、波の音も聞こえる。

「海……ですか」

 そういえば、最初の時、あれだけうろうろしていたというのに、海は見なかった。

 だから、なんとなく、ここの近くには海などないと思っていたのだが、そうではなかったようだ。

「すごい」

 目の前に広がる海は、美しかった。

 余計な人工物など何も無い。ただ自然な姿のままの海だ。

 だが、まだ日が高いというのに、海の向こう――地平線へと繋がる辺りだけ、色が違う。

「綺麗な色」

 やや紫がかった濃い青色は、花がこちらの世界に来て見上げた暗い空の色とは異なっていた。

「あの先は、別の世界へ繋がっているって、昔から言われている」

「別の世界?」

「そうだ。それに、海の中にも所々違う世界に繋がる"穴"のようなものがある。うっかりそこにはまると、どこか違う場所へ飛ばされるっていうから、ここの住人は海へは近付かない」

 だから、ここはこんなにも静かなのだろうか。

 人間から隠れるようにしている住人だけでなく、動物の姿さえない。

「狢さんは、ここへはよく来るんですか?」

 彼は、まるで平気な様子で海へと近付いている。他の人たちのように、怖がったりしないのは、狢が鬼という存在だからだろうか。

「そうだな。この風景が、なんとなく好きだからな」

「意外です」

 狢が一人、海を眺めている姿というのは、普段の彼の知っているならば、想像できない気がした。

「似合わないと思っているんだろう」

「それは」

 その通りだと言うのは躊躇われて、花は少しだけ視線を逸らした。

「いや、いい。柄にも無いってことは、自分でもわかってるんだ」

 拗ねたようにそう言う狢を、何故か妙に可愛いと思った。

 大きくて、鋭い眼差しをしていて、花を食べると言っている相手だというのに、だ。

「でも、見ていると、不思議と落ち着きますね。狢さんが好きだっていうのも、わかる気がします」

 自分の中にわき上がってきた気持ちを誤魔化すように、花が海を見つめた。

 打ち寄せる波を見ても、遠くまで続く地平線を眺めても、狢が言うようにどこかの世界に繋がっているようには思えない、穏やかな風景だ。

「花は、やっぱり帰りたいか?」

 じっと海を見続けていた花に向かって、狢が問いかけてくる。

「帰りたいです」

 この景色を見るのは好きだと思うけれども、それでも、違和感がある。

 そう、ここは、花が知らない世界で、いるべき場所ではないと、感覚的に感じるのだ。

「その気持ちを持ち続けることが大切だ。うっかりここが居心地いいと思うと、朝顔のようになるぞ」

「朝顔さん?」

「……あれは、異界に流されて、この場所に魅入られたもんだからな。元々、現世では生きづらい魂を持っていたから、仕方ないといえばそうなんだろうが」

 その話も前に聞いたことはあった。だが、狢はもう少し朝顔について具体的なことを知っているのかもしれない。付き合いは長そうだし、彼らは最初から気易く話していた。

「狢さんは……?」

「俺か? 俺は気がついたらここにいた」

 そういえば、鬼は生まれた時から『鬼』らしいと、聞いた。親がいて産まれるという存在ではないから異質なのだと、そう言ったのは朝顔だっただろうか。

「だから、他のやつのように、親だとか、兄弟だとか、そういうものは存在しない。子供だったという記憶もないな」

 狢によると、ある日目覚めると、今の姿で立っていて、自分が『鬼』という生き物だとすぐに自覚できたのだという。

「そうやってみると、鬼って変な生き物だよなあ」

 苦笑しながら狢は言う。

 自分で言うことではない、と花は呟いた。それは狢には聞こえないほど小さかったはずなのに、狢には届いていたらしい。

「そういう生き物なんだよ、理屈じゃなくてな」

 そんなふうに片付けていいものなのだろうか。

花には、わからなかった。

 狢はそのことを悲観しているようにも見えないし、かといって受け入れているようにも見えない。

 花がじっと見つめていると、狢は困ったよう表情を浮かべた。

「……人間って、難しいものだな」

 そう告げた狢は、とても優しい目をしていた。

 何故だろう?

 それについて尋ねようとした花を遮るように、狢が言葉を紡ぐ。

「こっちを怖がっているくせに、こういう時だけ、そんな目をして俺達を見る」

 花としては、ごく普通に狢を見ているはずなのだが、彼はそう思ってはいないようだった。

 どんな目なのかと聞き返しても、はぐらかされてしまう。

「ただ、勘違いするなよ。鬼は『怖い』生き物だ」

 何度も聞いた言葉に、花は目を見開き、狢の顔を見上げた。

「私から見たら、狢さん――鬼の方が難しいです」

「そうか?」

「そうですよ! 食べるって言うくせに、時々親切だし、助けてくれたりもする」

 自分は恐いといいながら、狢は花に優しい。

 矛盾している態度だと思うのだが、花の疑問を狢は笑い飛ばした。

「あれだよ、下心があるからだよ」

「下心だと、意味が違ってくるような……」

「人を惑わして食うのが、鬼だから」

 いつかのように、その赤い瞳から何の感情も読み取れなくなる。

「花はなかなか惑わされてくれないから、じっくりゆっくり時間をかけているだけだ」

 狢の手が、花の頬に触れる。

 ごつごつした手が、言葉の割りには優しく頬をなぞった。

「もっともっと俺に心を許してくれれば、大成功なんだけどな」

「そんなことを言うから、だめなんですよ」

 狢が言う『恐い』部分を見せなければ、花は今よりも狢に頼っていたかもしれない。体の方が反応したとしても、情の部分がまさって、彼の親切を素直に信じただろう。

 実際そうなりそうだったこともあったが、いつも狢自身の態度によって、壊されてしまう。

 だからこそ、狢の本心というのが花にはわからなかった。

「花に嫌われたくないからな」

 当然のことのように、狢は言う。

 だが、やはりその目が笑っていない。本当に嫌われたくないと思っているのかと聞いてみたい気分になる。

「狢さんは、本当は――」

 自分のことをどう思っているのか。

 真剣にそう尋ねようとしたのに、狢の表情がふっと緩み、頭をくしゃりと撫で回された。

「あー、残念。邪魔が入った。だから、この話はこれでおしまいだ」

 そのまま狢は、ある一点を指差す。

「……花」

 狢が示した方向を見るよりも早く、聞きなれた声が、響いた。

 振り返ると、朝顔がこちらに向かって歩いてくるのが見える。

「朝顔さん! もう大丈夫なんですか」

「ああ、問題が片付いたと主様が言ったからね。もう外に出ても大丈夫だと」

 そう言うが、やはり声には元気がない。

 歩き方も、どこかおぼつかないように思えた。

「それにしても、随分探したんだよ。家にもいないし。あんたたち、どこをほっつき歩いていたんだい」

「息抜きしてたんだよ、息抜き」

 狢が言うと、朝顔から呆れたような溜息が漏れる。

「だからって、何も海に連れてこなくても…」

「大丈夫だって、なにしろ俺がいるんだから」

「だから、余計に心配なんだよ!」

 狢と言いあっているうちに、いつのまにか朝顔の声に覇気が戻っている。

 狢が花にだけわかるように、唇の端を歪めて笑ってみせたので、ひょっとすると、わざとああいう言い方をしているのかもしれない。

「朝顔さん。あれから、いろいろあって、骨董品屋さんのところで、絵日記帳を見付けたんです」

「絵日記帳?」

 花は、朝顔に、これまであったことを話す。

「田中奏太……そう書いてあったっていうのかい?」

「はい」

「なんてこと」

 呟いた声は、震えている。

「朝顔さん? 何か心当たりがあるんですか」

 それに対しての返事はなかった。

 やはり、何か知っているのかもしれない。

「もしあるのなら、教えてください」

「すまない、花。私は……」

 うろたえたような声とともに、朝顔は俯いてしまう。

「口に出来ないことは、無理に話すな、朝顔」

 珍しく、狢が朝顔を庇った。

 ならば、花は推測するしかない。答えないということがきっと『答え』なのだ。

「花……」

 近くに寄って来た朝顔が、ぎゅっと花の手を握り閉める。

「肝心なことは何も言えないことがもどかしいよ」

「朝顔さん……」

 顔の表情はわからなくても、苛立ったような声音から、朝顔の辛そうな思いが伝わってくる。

「大丈夫です。答えてもらえなくても、そこからいろいろ考えることはできます」

 周りをもっとよく見て聞けと、狢は言った。おそらく、それはこういうことも含むのだろう。

 思えば、最初から、朝顔は不思議だった。

 これだけ人間から距離を置いている住民だらけの中、花に話し掛けてきたのは、彼女だけだ。それからも、なにかと花の面倒を見てくれている。

 朝顔には、何か秘密がある。

 そう感じてはいたが、ひょっとすると、花と朝顔の間には、何かあるのではないだろうか。

 それを見つけることが、もしかすると記憶を取り戻す鍵になるのかもしれない。

 ならば、もっとたくさんのことを朝顔と話してみたい。

 聞きたいことを具体的に思いついたわけではないが、そうやって話をすることで、わかることがあるような気がした。

「ねえ、花。たくさんのことは言えないけれど、一つだけ、花にお願いがある」

 決意を新たにして朝顔を見つめていた花に、朝顔が消え入りそうな小さな声を投げかけてきた。

「お願い、ですか?」

 いったいどんな願いなのか、一言も聞き漏らすまいとする花に、朝顔は抱きついた。

 強い力に息が詰まりそうになった。

「絶対に鈴はなくさないでくれよ。どんなことがあっても、手放しちゃだめだ」

 祈るように言う朝顔の言葉に、花はただ頷くしかなかった。

 狢も何も言わない。少し離れた場所で、花たち二人を見守るように立っている。

 鈴と朝顔。

 やはりそれが花の記憶に関わっているのだ。

 そのことは、すでに確信に近かったのかもしれない。

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