【九】
「これ、本当に大丈夫なんでしょうか」
何故か時々勝手に動く風呂敷包みに、花はびくびくしながらも尋ねた。
本音を言えば、持っていたくはないのだが、狢が鬼は持つことができないものだと告げる。鬼が触ると、中身が変化するらしい。
何がどう変化するのかは、やはり恐くて聞けない。
そもそも、この中に入っているものは、生きているものなのか、何か妙なものなのか。動くから生き物かとも思うが、こんな箱に入る生き物とは何なのだろう。
小鳥、それとも鼠?
見たことのない生き物の場合、これ以上持っていたくない気がする。
「もうすぐ付くから、それまでの辛抱だ」
狢は笑うばかりで、あまり真剣に聞いてはくれない。
「大丈夫だって。箱から出さない限り、悪さなんてしない」
狢の言い方では、彼は中身が何か知っているのだろう。
敢えて聞いたりはしないが。
しばらくは黙って並んで歩くことにする。場所は狢が知っているのだから、ついていけばいいだろう。
「あそこに大きな木が見えるだろう? あの先を曲がれば、沼が見える」
狢に言われ、そちらに視線を動かすと、見上げるほどに大きな木が言えた。
その先にも道はあるはずなのだが、ぼんやりと霞んでいて、よく見えない。
砂埃が舞っていたはずの道も、歩いて行くうちに、どこか湿り気を帯びてきた。
両脇にぽつりぽつりと建っていた家も、いつのまにかひとつもなくなっている。
気温も少し下がってきたのではないか。いや、下がってきたというよりも、背中がぞくぞくするような悪寒のようなものを感じ始めている。
「な、なんだか出てきそう……」
一言で言えば、そんな感覚だ。
「出てきても、俺がいるから大丈夫だって」
「やっぱり出るんですか!?」
「実体をもてない奴らが沼の妖気に引き寄せられて集まっているだけだから、悪さはしない」
それは充分怖い部類に入るのではないか。
「本当に危険じゃないんですよね?」
「ああ」
狢は自信たっぷりだ。
顔には、俺に任せろと書いてあるようにも見えてしまう。
とりあえず、今は信じるしかないようだ。
「ほら、急がないと、どんどん時間は過ぎていくぞ」
狢に促されて、おそるおそる歩きだす。彼が言った木に近付くと、寒気はどんどんひどくなり、視界の端に何か映ったような気もしたが、気にしないことにした。
そうやって、ようやく木の側の道を曲がった花の目に入ったのは、夜でもないのに、どこか薄暗く陰鬱な雰囲気の、沼だった。
「ここが、骨董品屋さんの言っていた場所ですか?」
「ああ、そうだ。おーい、いるんだろう」
狢が声を張り上げると、それまで静かだった水面に、小さな波がたった。
「そんな大きな声を出さなくとも、聞こえております」
静かな落ちついた声が聞こえた。
そちらの方を向くと、いつのまにか淡い桜色の着物を着た女性がそこにいた。長い髪を後ろで一つに纏め、つり上がった瞳がきつい印象を与えるが、とても美しい人だ。
彼女が、狢達の言う『朽ちかけた女』なのだろうか。
そうだとすれば、容姿とかけ離れた呼び名のように思える。
「いったい、何の用事なのですか。普段は、こちらには近付きもしないというのに」
女性の言葉に、狢は肩を竦める。
「骨董品屋に頼まれたんだよ。あんたにこれを届けてほしいってな」
そう言って、狢は花が持っていた風呂敷包みを指差す。
「なるほど。それで、そこに人間がいるわけですね」
「俺が持つわけにはいかないだろう? それに、俺はここに彼女を案内しただけ」
狢に背中を押され、花はおそるおそる一歩踏み出した。
「あの、あなたが沼に住むという方でしょうか。私は、花と言います。骨董品屋さんに頼まれて、これを持ってきたのですが」
「いかにも、私が沼に住む者です。『朽ちかけた女』とも呼ばれております」
女性は、花に向かって丁寧に頭を下げた。
どうやら、目的の人物には無事会えたようだ。
「実は、待ちかねておりました。わざわざ届けてくれてありがとうございます」
女性は手を伸ばし、風呂敷包みを受け取った。
そして、上品に微笑む。
「おや、まあ。とても生きがいいこと」
女性はとても嬉しそうだ。細い手でゆっくりと風呂敷包みを解きながら、どんどん笑みが深くなる。
やがて現れた箱は、気のせいではなく、がたがたと震えていた。
「動いてる……」
呟いた花の声が聞こえたのか、女性の唇が弧を描くように歪められた。
「それはもちろんですわ。生きていますもの」
そう言いながら、女性は蓋を開ける。
出てきたのは、黒くてぼんやりしていて蠢いているものだった。形はあるようでなく、動いているようだが、その動きを上手く捕らえることができない。
見ているだけで、花のお腹の辺りが気持ち悪くなる気がした。それなのに、何故か目を逸らすことが出来ない。
「無理して見ない方がいいぞ、花。あれは、人間が直視するもんじゃない」
狢に言われて、ようやく花は視線を動かした。自分を見下ろす狢の顔を見つめながら、ゆっくりと息を吐き出す。
耳に、何かを咀嚼するような気味悪い声が聞こえたが、知らないふりをした。
何がどうなっているか、想像するのも怖かった。
「花、と言いましたか。あなたのお陰で、とても美味しく頂くことが出来ました」
やがて、咀嚼音が聞こえなくなり、女性が花に話し掛ける。
おそるおそる花が女性に向き合うと、そこには、最初に見かけた時と変わらない女性の姿があった。
「お礼を言わせていただきます」
優雅に頭を下げる女性に花は恐縮するしかない。
「いえ、頼まれただけですから」
自分の都合で、骨董屋の頼みを聞いただけなのだ。お礼を言われても、居心地が悪い。
いや、それだけでなく、どうも花自身、この女性を見つめていると、落ちつかない気持ちになるのだ。
何がそうさせるのかは、わからないが。
そんな花の様子を見ていた女性は、あらまあ、と囁くように言って、笑みを浮かべた。
「……これは不思議なこと。この人間は、いろいろ欠けているのですね」
「欠けている?」
「おい、『朽ちかけた女』」
問い返した花の言葉を、狢が遮った。
「まあ、このくらい口にしても、影響はありません。それに、私を怖がらせようと思っても無駄ですよ、鬼。心配ならば、この人間から私に直接質問すればよろしいのです。聞かれたことには、答える義務がありましょう?」
「話せる範囲でならな」
以前、白鷺が言っていた、質問に嘘はつかないというのは、この女性にも有効なようだ。
「欠けているとはどういうことですか? 私には、ここへ来る前の自分の関する記憶がないんです。それに関係ありますか」
「ああ、なるほど。確かに、あなたの記憶には抜けたところがあるようです。それと連動するように、感情の一部が所々欠けているのですね」
前の自分がどうだったのかわからないが、確かにこの世界に来てから、おかしいと思うことはあった。狢にも散々、危機感が足りないと言われたし、簡単に知らない人について行ったりしている。怖いと思うこともあったが、少しその感情が鈍い気はしていた。
「やっぱり。変だなと思っていたんです」
帰りたいとは思っている。
記憶だって、取り戻したい。ただ、その思いが、どこか曖昧なのだ。しなければいけないことだとわかっているのに、焦りを感じていない。
もっと切実に悩むべきことなのに、あまりにも自分はのんびりし過ぎている。
「安心しなさい。あなたは、それでも意思が強い方ですよ。大抵の人間は、すぐにここに馴染んでしまって、行動しなくなるのですもの」
そうやって、異界の住人になった人間は、たくさんいる、と女性は笑う。
「ですが、それも長くは持たない。こちらにいる時間が増えるほど、帰ることは難しくなってくるでしょう。なるべく早く、欠けた物を取り返すことですね」
「でも、あまり上手くいかないです」
自然と声が小さくなるのは、なかなか自分の思い通りにいかないからだ。
わからないことだらけなのに、何がどうわからないのか、何を調べなければいけないのかを見つけられないのだ。
「……周りをよく見てみることですね。私が言えるのは、それだけです」
彼女も、狢と同じことを言う。
「私の話はもうお終い。これは、骨董品屋に返してください」
女性が箱を風呂敷で包み直し、花に向かって差し出したものだから、自然と彼女は女性に近づくことになる。
「また、頼みますと伝えておいてくださいね。それから」
ふいに女の唇が、小さく動いた。花が箱を受け取る瞬間に、周りに聞かれることのないような小さな声が、聞こえる。
「鬼には気をつけることです。彼らは、我らにも理解できない、特殊な生き物ですから」
花が聞き返そうとした時には、女性はすぅっと後ろに下がっていた。
微笑んだ顔からは、その言葉の真意を読み取ることはできない。
そして。
「それでは、私はこれで。道中気を付けてお帰りなさいな」
その言葉だけを残して、女性は、花の目の前で、周りの空気に溶け込むように消えてしまったのだった。




