【零】
冬だというのに、妙に空気が生ぬるく感じる夜だった。
天気予報では今夜は寒くなると言っていたから、用心して着ていたコートは重く、汗ばんだ背中に張り付くようだ。
それだけではない。
おかしいと、一歩足を進めるたびに思う。
この道はこんなに暗かっただろうか。
細い道の両側に立つ古ぼけた一軒家やアパートに明かりが少ないのは偶然なのだろうか。
右足を出すたびに考える。
静かなのは、何故? 足音さえも吸い込まれていくような、静寂はどうしてなのか。
左足を出すたびに思う。
どうして、今日はこんなに暑いのか。
まるで―――そう、まるで夏の終わりの夜のよう。
冬のはずなのに、そう感じられない。
いったいどういうことなのか。
歩く速度を緩め、彼女は顔を上げ、まわりをゆっくりと見回した。
瞬き、今にも消えてしまいそうな街灯に、星ひとつ見えない夜空。
妙に暗く、そして足下には薄ぼんやりと自分の影が伸びている―――ゆらゆらと瞬きながら。
おかしい。揺れる影に違和感がある。
この影は、何故、自分の前にあるのだろう。
さきほど通り過ぎた街灯は、瞬いていた。
次の街灯は、ずっと先、ぼうっと白く光っていて、その明かりはここまで届かない。
それなのに、薄墨色の影は、黒い地面に、長々と伸びていた。
黒い?
ふと、彼女は自分の足下に広がる地面を見つめる。
アスファルトであるはずの道は、平らではなかった。気がつけば、普段歩く固い地面ではなく、湿り気をおびた土の道。
いつのまに、変わってしまったのか。
自分でもおかしいと思う状況に、とうとう彼女は道の真ん中で立ち止まった。
ここはどこなのだろう。
自分の家へと続く道を歩いていたはずなのに、どこへ向かっているのだろう。
そもそも―――ここは彼女の知っている道なのか。
ぴい、ひゃら、どん。
突然、静寂を破り、音がした。
耳に響くのは、掠れた笛の音と、くぐもった太鼓の音。
もの悲しく、長く尾を引く旋律は、どこから聞こえてくるのかわからない。
日常とはかけ離れた音だと思う。
祭りがあるわけでもないし、近年シャッターが閉まった店ばかり増えた商店街で、こんな夜遅くに何かイベントがあるはずもない。ひょっとすると、どこからか流れてくるラジオかテレビの音なのではないかと思ったが、それにしては、妙に生々しい音だ。
なにより、聞こえてくるのは祭り囃子の音だけで、生活音は一切しない。
やはり、何かおかしい。
再度、ぐるりと見回してみれば、ここにあるのは、どこか古びた町並み。
懐かしいようで、記憶の中にはない知らない場所。
「ここ、どこ?」
呟いた言葉は、やけに響いた。
それに重なるように、囃子の音が大きくなる。
ぴい、ひゃら、どん。
どん、どん、ぴい、ひゃら、ぴい、ひゃら、どん。
近づいてくるのだ――どこからか。
右に、
後ろに、
左に、
前に。
音は確かに耳に届き、大きくなってきているのに、それがどこから聞こえてくるのかだけがわからない。
見回しても、誰もいない。
汗ばんだ背中が、妙に気持ち悪い。
「ここは、どこ?」
声に出さなければ、恐怖でどうにかなってしまいそうだ。
わからない―――ここはどこなのか、何故自分はここにいるのか。
歩いていたのは、よく知った町だったはずだ。
いつもと同じように角を曲がり、信号の手前の道に入り、商店街を抜け、四つ辻をまっすぐ行けば、そこに古ぼけたマンションがあるはずだった。
その3階に彼女の部屋があって、今頃もうそこでゆっくりとくつろいでいたはずだ。
それなのに、今、彼女はこんな訳の分からない場所で、呆然と立ちすくんでいる。
きっと、どこかで道を間違えたのだ。
あまりにも薄暗いから、間違えたのだ。
疲れているから、うっかりしていたのだ。
そう言い聞かせるが、何かが違うという違和感が消えない。
ぴい、ひゃら、どん。
音色が聞こえるたびに響くのは内なる声。
本当に、道を、間違えただけなの?、と。
ぴい、ぴい、どん。
二つ目の音色が聞こえるとわき上がるのは、不安。
こんな景色が、町の中にあったのか、と。
それなりに長く住んでいる町だから、裏道も、近道も、大きな通りも、大体知っているし、それほど複雑な町ではない。
それなのに、まったく見覚えがないというのは、おかしくはないのか。
ひゃらりん、どん、どん。
三つ目の音色で、彼女は我に返った。
引き返そう。
きっと、来た道を戻れば帰れるはずだ。その途中で、誰かに道を聞けばいいのだ。
そう思って引き返そうとしたとき、ふいに誰かの気配がした。
「おやおや、迷子とは珍しい」
生ぬるい風とともに、彼女の耳に女の声が届いた。
籠もったような声だが、いまだ聞こえてくる囃子に消されることないそれに、彼女は振り返る。
彼女に道を聞けばよい。そう思ったのだ。
だが、振り返った瞬間、彼女は絶句する。
そこにいたのは、背の低い女。
だが、その姿は妙だった。
長い黒髪、細い指先、朝顔柄の白い浴衣に、下駄。冬だというのに、そんな格好の女は、さらにおかしなことに、狐の面を付けている。
「だ、誰?」
「さあさあ、誰、だろうねえ」
身をよじり、大げさに体を揺すると、面の下から、空気の抜けるような息が漏れた。
笑われたのかも知れないと、彼女は気がつく。そのことにわずかに苛立ちを覚え、からかわないでと叫んだ。
だが、女は動じない。
「あんたこそ、誰だい?」
反対に、そう問いかけてきた。
「私? 私は……」
言いかけた言葉が詰まった。
『私』は誰?
『私』の名前は?
「わ、わからない?」
家に帰る途中だったはずだ。
いつもの見慣れた道だったはずだ。
住んでいたマンションの部屋も覚えている。通い慣れたスーパーも、時々寄るコンビニも忘れていない。
それなのに、名前が、ぽっかりと記憶に穴が空いたように思い出せない。
「ほらほら、やっぱり迷子だ。それに、あんた、大事なもの、落としちまっているよ」
面を通して聞こえる声は、やはりザラザラと耳障りで、気分が落ち着かない。
「落としたって何を?」
それでも問い返したのは、今、この場で彼女の疑問に答えてくれる存在が目の前にいる女しかいなかったからだ。
これ以上、誰かを探して駆け出すことが怖くて仕方がなかったから。
むなしい言い訳を心の中で繰り返す。
「さあねえ。大事なものをなくしたってことしか、私にはわからないよ。私はあんたじゃないもの。他人の大事なものを知っていたら、そっちの方が驚きだ」
「それなら、私、どうすればいいの?」
ここが、おかしいというのだけはわかっている。
『おかしい』を違和感なく受け入れている自分がおかしいとも気づいている。
ただ、それを認めてしまうのが怖いだけだ。
「迷子が行くところは、ひとつだよ」
女がぴょんと跳ねた。持ち上げた指先が、まっすぐに一方を指している。
そこにあるのは、山。
黒々と浮かび上がったそれは、お椀を伏せたような形をしていて、天辺の方に小さな明かりが見えた。
「あそこに行けば、帰れるの?」
「帰れるかもしれない、帰れないかもしれない」
その言葉は、囃子に重なり、唄のようにも聞こえた。
「帰りたいの」
繰り返すと、女の面が揺れた。
「それを決めるのは私じゃない。それを選ぶのも私じゃない。迷子が迷子のままなら、彷徨うしかなかろうよ」
生ぬるい風が、吹いた。
女の言うように、帰る場所を失った迷子に戻る道はないのだ。
広がる埃っぽい街並みを眺めながら、彼女は身震いした。




