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それからすぐに、乃亜の携帯へ電話を掛けた。
けれど、なんど掛けても応答はなく、俺の不安は段々と募っていくばかりだった。
あんなに乱暴な言葉をぶちまけてしまって…。
純粋な乃亜をどれほど傷つかせてしまったのだろう。
こんなに愛おしいと思っているのに、どうして「信じられない」…なんて言葉を吐いてしまったのだろう。
今更ながら、俺はとんでもないクソガキの大馬鹿者だった。
乃亜…どうして電話に出ない。
俺を罵ってくれてもいいから、ただ一言だけでも声を聞かせてくれないか?
「乃亜…」
俺に愛想を尽かして、兄貴たちのところへ帰ってしまったのだろうか。
それならば、仕方ないことだ。
俺が諦めれば済む話だろうけれど…
携帯をテーブルへ置き、俺はまた水槽の中でのんびりと泳ぐ魚たちを眺めた。
終わりなのだろうか…
こんなに愛おしいと思える相手に出会えたのに。
初めて愛し合う意義を見つけられると、感じ始めていたのに。
…いや、やはり諦めきれない。
俺はテーブルに投げ出した車のキーを掴み、立ち上がると、乃亜の自宅へ向かう為、家を出た。
避暑地である山林の中腹にある乃亜の家まで、俺の自宅から車でどんなに急いでも一時間はかかる。その間にも乃亜の携帯へ、何度か呼び出してはみるが、一向に返事はなかった。
焦りながらも乃亜の家の門に車を寄せ、玄関から乃亜の名を大声で呼んだ。
しかし、応答も出てくる様子もない。鍵はかけられているから、外出しているのかもしれない。
それでも俺の不安はぬぐいきれなかった。
北側の裏口の鍵はかかっておらず、俺はそこから家の中へ入った。
乃亜の名を呼びながら、リビングや寝室、風呂場などと覗いてみるが、乃亜の姿はない。
肩を落とし、リビングのソファに座った時、テーブルに置かれた一枚の便箋と、俺が乃亜に贈った指輪のケースに気がついた。
ケースの中には真珠の指輪が綺麗に収まっている。そして、便箋には…
「尚吾、尚吾」と、俺の名前が繰り返し書かれ、最後に「ごめんなさい」と、だけあった。
ぞっとした。
本当に乃亜は…童話の人魚姫なのか?
俺の不誠実さに絶望し、泡となって消えてしまったんじゃないのか?
「乃亜っ!」
俺は指輪を掴み、立ち上がった。
落ち着いて部屋を見渡し、半分だけ開け放たれたテラスに続くドアを見とめると、急いでそのドアからテラスに渡り、そのまま階段を降りて、庭の先に続く小道に立った。
ここから先は、見知らぬ場所でしかない。
小道は緩やかな下り坂。
両脇には背の高い白樺の林が続き、強い西陽の長いいくつもの影が、道を縦断していた。
汗を掻きながらでたらめな縞模様の小道を降りる。
鳴りやまぬ蜩の声に渓流の音が交り、道の先に川肌が見えてきた。
息を吐き、急いで降りると、川に沿って少しだけ広い緑の道が続いていた。
何かに引き寄せられるように、俺はその草の道を走った。
そして、
その先に…乃亜がいた。
大理石の石に凭れたように倒れている乃亜を見つけ、俺は一瞬足が止まった。
大理石にはローマ字で乃亜の祖父の名前が刻み込まれていた。
まさか…死んでいるのでは…と、嫌な予感を拭いきれないまま、乃亜の名を呼びながら俺は乃亜に近づいた。
「乃亜…乃亜?」
乃亜の細い身体を抱き起こし、俺は乃亜の名を呼ぶ。
鼓動も呼吸も確認できたけれど、どれもが弱々しく、顔色も口唇も色味を失い、返事もなかった。
俺は焦った。
このままでは本当に乃亜は…死んでしまうかもしれない。
いや、乃亜は死のうとしているんじゃないのか?
あの残された俺への「ごめんなさい」の言葉は、生きる希望を失った人魚姫と同じじゃないのか?
そんなのは嫌だ。
そんなことは絶対にさせない。
だから、俺は乃亜の名を呼んだ。
「乃亜!乃亜っ!俺だ!尚吾だ!…俺が悪かった。乃亜を信じられずに、酷いことを言って、乃亜をひとりにさせてしまった。ごめん、乃亜。君を愛している。これからもずっと変わらずに愛し続けると誓うから…どうか、死なないでくれ!」
俺の声に僅かだが、閉じた乃亜の両目の瞼が震えた。
俺は乃亜の左の薬指に、真珠の指輪を嵌め、俺の胸に引き寄せた。
「乃亜が何であっても構わない。君が言う…人魚であっても、俺は乃亜を変わらず愛していると誓うよ。だから…どうか頼むから、乃亜、目を開けて俺を見てくれよ…」
俺は自分では気づかずに泣いていたらしい。
幾粒もの水滴が青白い乃亜の顔を濡らしていた。
「…しょう…ご…」
「乃亜…」
乃亜の口唇がとぎれとぎれに俺を呼び、乃亜の瞳が焦点をぼかしながら俺を見つめた。
「尚吾…泣いてる…の?」
「ああ、弱っている君を見たら、どうしていいのか…わからなくなっちまった…」
「…」
「ごめん、乃亜。何度謝っても許してもらえないかもしれないけれど、俺はもう絶対に君を裏切ったりしないから…。だから俺と一緒に生きて欲しい」
「僕は…決めたんだ。兄たちのところへは戻らないって…。人魚にもならない。人間の姿で、尚吾の愛した姿のままで…死んでいきたい…それでいいと思ったんだ…」
「乃亜、死んでは駄目だ。死なないでくれ。どうか俺の為に…生きてくれ」
「…尚吾…でも、僕は…」
「いいよ。人間でなくても…人魚の乃亜であっても、俺は乃亜を愛せるから。ね、乃亜は言ったろ?夜の間だけ人間になれるって。そうさ、これからだって俺たちは愛し合える。乃亜が人魚なら、俺はダイバーになるよ。そしたら一緒に海へ潜れる。…ねえ、そうだろ?」
「尚吾…」
「だから死ぬなんて言わないでくれ。俺を信じて生きてくれないか?乃亜」
俺の必死な願いに、乃亜は力なく頷いた。
「でも…もう…無理かも…」
「何故?」
「薬…捨ててしまったの。副作用で…限界に近づいていたみたい。人間の姿でいられる時間が短くなってて…」
「どうすれば元気な乃亜に戻れるんだ?」
「…海に還って、人魚に戻れれば…いいのかもしれない…。だけどそうなったら…もう尚吾と…」
言葉に詰まった乃亜は、しゃくりあげながら泣く。
俺は乃亜を抱きかかえ、立ち上がった。
「言っただろ?乃亜が生きてくれるなら、どんな姿だろうと、俺は乃亜を愛し続けられる。俺を信じてくれ。君を死なせたりしない」
そこから先は一目散にゴールへ向かった。
迷いはしなかった。
目指すべきゴールは、海だ。
この山中から一番近い海岸まで、どんなに急いでも小一時間はかかるだろう。
車に戻り、苦しそうな呼吸を続ける乃亜を助手席に乗せ、俺は海に向かって全速力で走りだした。
だが、残された時間は短かった。車内の乃亜は時折苦しそうな息を乱し、「尚吾…手を…つないで…いて…」と、言った。
俺はその手をしっかりと握りしめ、乃亜を励まし続けた。
やっと海岸線が見えてきた。
日没の寸前の陽の色は、立ち登る入道雲に消され、瞬く間に辺りを暗く翳らせていく。
夕立の雨粒が、フロントガラスを打ち始める。
俺は、「もうすぐだから」と、乃亜に声を掛けるが返事はなかった。
繋いだ手も力なく、皮膚が段々と冷たくなっていく様をはっきりと感じた。
海岸の路肩に車を止め、乃亜を抱き上げた俺は、土砂降りの雨に打たれながら、浜辺に向かった。
辺りは立ち込めた雨雲に包まれ、時折稲光が光る。
「ごめんな、乃亜。雷、苦手なのに…。でも俺が傍に居るから怖くないだろ?」
夏の海辺だったが、陽が落ちる時刻とこの夕立の所為か、人影は見当たらなかった。
どんなに名前を呼んでも動かなくなった乃亜を俺はただ抱きしめ、荒れた波をかき分けながら、海の中へ進んでいく。
息を止めた乃亜を生き返らせる奇跡を…
それだけを祈り続けた。