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7

挿絵(By みてみん)


7、

それからすぐに、乃亜の携帯へ電話を掛けた。

けれど、なんど掛けても応答はなく、俺の不安は段々と募っていくばかりだった。


あんなに乱暴な言葉をぶちまけてしまって…。

純粋な乃亜をどれほど傷つかせてしまったのだろう。

こんなに愛おしいと思っているのに、どうして「信じられない」…なんて言葉を吐いてしまったのだろう。

今更ながら、俺はとんでもないクソガキの大馬鹿者だった。


乃亜…どうして電話に出ない。

俺を罵ってくれてもいいから、ただ一言だけでも声を聞かせてくれないか?


「乃亜…」

俺に愛想を尽かして、兄貴たちのところへ帰ってしまったのだろうか。

それならば、仕方ないことだ。

俺が諦めれば済む話だろうけれど…


携帯をテーブルへ置き、俺はまた水槽の中でのんびりと泳ぐ魚たちを眺めた。


終わりなのだろうか…

こんなに愛おしいと思える相手に出会えたのに。

初めて愛し合う意義を見つけられると、感じ始めていたのに。


…いや、やはり諦めきれない。


俺はテーブルに投げ出した車のキーを掴み、立ち上がると、乃亜の自宅へ向かう為、家を出た。


避暑地である山林の中腹にある乃亜の家まで、俺の自宅から車でどんなに急いでも一時間はかかる。その間にも乃亜の携帯へ、何度か呼び出してはみるが、一向に返事はなかった。

焦りながらも乃亜の家の門に車を寄せ、玄関から乃亜の名を大声で呼んだ。

しかし、応答も出てくる様子もない。鍵はかけられているから、外出しているのかもしれない。

それでも俺の不安はぬぐいきれなかった。

北側の裏口の鍵はかかっておらず、俺はそこから家の中へ入った。


乃亜の名を呼びながら、リビングや寝室、風呂場などと覗いてみるが、乃亜の姿はない。

肩を落とし、リビングのソファに座った時、テーブルに置かれた一枚の便箋と、俺が乃亜に贈った指輪のケースに気がついた。

ケースの中には真珠の指輪が綺麗に収まっている。そして、便箋には…

「尚吾、尚吾」と、俺の名前が繰り返し書かれ、最後に「ごめんなさい」と、だけあった。


ぞっとした。

本当に乃亜は…童話の人魚姫なのか?

俺の不誠実さに絶望し、泡となって消えてしまったんじゃないのか?


「乃亜っ!」

俺は指輪を掴み、立ち上がった。

落ち着いて部屋を見渡し、半分だけ開け放たれたテラスに続くドアを見とめると、急いでそのドアからテラスに渡り、そのまま階段を降りて、庭の先に続く小道に立った。

ここから先は、見知らぬ場所でしかない。

小道は緩やかな下り坂。

両脇には背の高い白樺の林が続き、強い西陽の長いいくつもの影が、道を縦断していた。

汗を掻きながらでたらめな縞模様の小道を降りる。

鳴りやまぬ蜩の声に渓流の音が交り、道の先に川肌が見えてきた。

息を吐き、急いで降りると、川に沿って少しだけ広い緑の道が続いていた。

何かに引き寄せられるように、俺はその草の道を走った。

そして、

その先に…乃亜がいた。


大理石の石に凭れたように倒れている乃亜を見つけ、俺は一瞬足が止まった。

大理石にはローマ字で乃亜の祖父の名前が刻み込まれていた。


まさか…死んでいるのでは…と、嫌な予感を拭いきれないまま、乃亜の名を呼びながら俺は乃亜に近づいた。


「乃亜…乃亜?」

乃亜の細い身体を抱き起こし、俺は乃亜の名を呼ぶ。

鼓動も呼吸も確認できたけれど、どれもが弱々しく、顔色も口唇も色味を失い、返事もなかった。

俺は焦った。

このままでは本当に乃亜は…死んでしまうかもしれない。

いや、乃亜は死のうとしているんじゃないのか?

あの残された俺への「ごめんなさい」の言葉は、生きる希望を失った人魚姫と同じじゃないのか?


そんなのは嫌だ。

そんなことは絶対にさせない。


だから、俺は乃亜の名を呼んだ。


「乃亜!乃亜っ!俺だ!尚吾だ!…俺が悪かった。乃亜を信じられずに、酷いことを言って、乃亜をひとりにさせてしまった。ごめん、乃亜。君を愛している。これからもずっと変わらずに愛し続けると誓うから…どうか、死なないでくれ!」


俺の声に僅かだが、閉じた乃亜の両目の瞼が震えた。

俺は乃亜の左の薬指に、真珠の指輪を嵌め、俺の胸に引き寄せた。


「乃亜が何であっても構わない。君が言う…人魚であっても、俺は乃亜を変わらず愛していると誓うよ。だから…どうか頼むから、乃亜、目を開けて俺を見てくれよ…」


俺は自分では気づかずに泣いていたらしい。

幾粒もの水滴が青白い乃亜の顔を濡らしていた。


「…しょう…ご…」

「乃亜…」


乃亜の口唇がとぎれとぎれに俺を呼び、乃亜の瞳が焦点をぼかしながら俺を見つめた。


「尚吾…泣いてる…の?」

「ああ、弱っている君を見たら、どうしていいのか…わからなくなっちまった…」

「…」

「ごめん、乃亜。何度謝っても許してもらえないかもしれないけれど、俺はもう絶対に君を裏切ったりしないから…。だから俺と一緒に生きて欲しい」

「僕は…決めたんだ。兄たちのところへは戻らないって…。人魚にもならない。人間の姿で、尚吾の愛した姿のままで…死んでいきたい…それでいいと思ったんだ…」

「乃亜、死んでは駄目だ。死なないでくれ。どうか俺の為に…生きてくれ」

「…尚吾…でも、僕は…」

「いいよ。人間でなくても…人魚の乃亜であっても、俺は乃亜を愛せるから。ね、乃亜は言ったろ?夜の間だけ人間になれるって。そうさ、これからだって俺たちは愛し合える。乃亜が人魚なら、俺はダイバーになるよ。そしたら一緒に海へ潜れる。…ねえ、そうだろ?」

「尚吾…」

「だから死ぬなんて言わないでくれ。俺を信じて生きてくれないか?乃亜」


俺の必死な願いに、乃亜は力なく頷いた。


「でも…もう…無理かも…」

「何故?」

「薬…捨ててしまったの。副作用で…限界に近づいていたみたい。人間の姿でいられる時間が短くなってて…」

「どうすれば元気な乃亜に戻れるんだ?」

「…海に還って、人魚に戻れれば…いいのかもしれない…。だけどそうなったら…もう尚吾と…」

言葉に詰まった乃亜は、しゃくりあげながら泣く。

俺は乃亜を抱きかかえ、立ち上がった。


「言っただろ?乃亜が生きてくれるなら、どんな姿だろうと、俺は乃亜を愛し続けられる。俺を信じてくれ。君を死なせたりしない」


そこから先は一目散にゴールへ向かった。

迷いはしなかった。

目指すべきゴールは、海だ。

この山中から一番近い海岸まで、どんなに急いでも小一時間はかかるだろう。


車に戻り、苦しそうな呼吸を続ける乃亜を助手席に乗せ、俺は海に向かって全速力で走りだした。


だが、残された時間は短かった。車内の乃亜は時折苦しそうな息を乱し、「尚吾…手を…つないで…いて…」と、言った。

俺はその手をしっかりと握りしめ、乃亜を励まし続けた。


やっと海岸線が見えてきた。

日没の寸前の陽の色は、立ち登る入道雲に消され、瞬く間に辺りを暗く翳らせていく。

夕立の雨粒が、フロントガラスを打ち始める。

俺は、「もうすぐだから」と、乃亜に声を掛けるが返事はなかった。

繋いだ手も力なく、皮膚が段々と冷たくなっていく様をはっきりと感じた。


海岸の路肩に車を止め、乃亜を抱き上げた俺は、土砂降りの雨に打たれながら、浜辺に向かった。

辺りは立ち込めた雨雲に包まれ、時折稲光が光る。

「ごめんな、乃亜。雷、苦手なのに…。でも俺が傍に居るから怖くないだろ?」

夏の海辺だったが、陽が落ちる時刻とこの夕立の所為か、人影は見当たらなかった。


どんなに名前を呼んでも動かなくなった乃亜を俺はただ抱きしめ、荒れた波をかき分けながら、海の中へ進んでいく。


息を止めた乃亜を生き返らせる奇跡を…


それだけを祈り続けた。



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