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「これ…僕が作ったんだけど…貰ってくれる?」
乃亜が俺に差し出したのは、ペンダントだった。
幾何学模様の木の枠に嵌めこまれた貝は、丁寧に磨かれ、美しい螺鈿が施されている。
「乃亜がこれを作ったの?」
「うん。僕、不器用で上手くできないんだけど、こういうのは好きなんだ。おじいちゃんが趣味で細工をしていたみたいで、色んな道具があったから…暇だったし、作ってみたの」
「でも、これ螺鈿だろ?とても綺麗だ。夜光貝とか黒蝶貝とかを使うんだよね」
「綺麗な貝殻を集めて取っておくのが好きなの。でもこれは…とても珍しい貝なんだ。深い海底でしか見つからないラリマーっていう貝の化石なんだよ。いつか…大切な人が僕の前に現れて、恋人になってくれた時に贈ろうって決めていたんだ。先に尚吾から指輪をもらったから早くあげたくて…急いで作ったから、塗りも磨きも完璧じゃないけれど、一生懸命に作ったんだ」
「ありがとう、乃亜。大切にするよ」
俺はペンダントを首にかけた。
裸のままで横になるふたりには唯一身を飾るものでしかなかったけれど、夕日に反射する螺鈿の美しさに、乃亜も俺も見惚れていた。
乃亜を胸に抱きしめながら俺は思う。
始まったばかりの恋だというのに、この充実感は一体なんだろう。
今まで俺は、男と付き合う時はいつだって相手になにかしらの不満を探しながら、付き合っていた。いつでも逃げられるようにと。
でも、乃亜といると多少の不安や心配など、大した問題じゃないって思えてしまう。
それはとても大事なことのように思えてならないんだ。
俺は乃亜に満足していた。
これからも愛し続けていけるのだと確信していた。
しかし、それはとんでもない自分の浅はかさだと知ることになった…。
翌日になって、乃亜は泣きそうな顔で、五日後に家族の元へ帰る決心をした、と言うのだ。
俺は驚いたけれど、必死で自分を落ち着かせて、一旦家族に顔を見せに帰るのは当然だろうと考えた。
だから、「じゃあ、落ち着いたら俺のところに戻っておいで。なるだけ早くにね」と、気軽に答えた。
だが、乃亜が次に俺に言った言葉は…
「もう、尚吾と会えない。会っちゃダメだって…兄さんたちが怒るんだ」
「…」
何と言っていいのかわからなくなる。
結局のところ…乃亜は俺よりも家族、つまり五人の兄たちとの生活が大事だってことだ。
俺がもっと若くて、青臭くて、情熱をぶちまけて、乃亜をかっさらって、ふたりだけで逃避行できるような年齢であったのなら、そうしたのかもしれなかった。
だが、俺にはもうそんな青春ごっこはできなかった。
乃亜といるときは愛に縛られ、それは身体も心も心地良く、どこにも行きたいないと、閉じこもっていたいと願うのに、一歩この家を出れば、リアルな社会が俺を縛り付ける。それは生きていくには不可欠な義務であり、俺はそれを当然な労力と理解している。
だから、リアルに生きる俺には、乃亜の言葉をねじ伏せる気力はない。
「…乃亜がそれを望むのなら…仕方がないね。乃亜がそれで幸せでいられるのなら…俺は諦めるしかない…」
「違う…尚吾、違うんだ。尚吾を愛してる。誰よりも尚吾とずっと、ずっと一緒にいたいよ。でもできないんだ。だって、僕は…」
「乃亜。君が望むなら、俺はいくらだって頭を下げて、兄さんたちに許しをもらうよう努力するよ。俺はね、今まで色んな男と付き合ってきたけれど、乃亜ほど愛しいと思った人はいない。幸せにしたいと思った人はいないんだ。乃亜と一緒に生きたい。もう一度、俺の手を摑まえてはくれないか?」
「尚吾…」
乃亜の榛色の大きな瞳から、涙の粒がぽろぽろと流れ落ちた。
「尚吾、僕…僕ね、人間じゃないんだ…信じられないかもしれないけれど、僕は人魚なんだ」
「…」
「…」
「…え?」
十秒ほど俺は息を止めて、乃亜の顔を見つめていた。
今、何言った?
よく意味がわからないんだけど…
「岩にヒレをぶつけて、動けなくなったから、人間になって、病院で治療して、完治するまではこの姿でここで療養してた。怪我が良くなったら、兄さんたちのところに戻って、海に還らなきゃならない」
「…」
いやいやいや…無理でしょう、そんな話。
そりゃ乃亜は、今時の子とは違い、浮世離れしているけれど…
いやいや…そんな可愛い顔して真面目に話してくれても…絶対無理。
「この薬を飲んでいる間は、人間の姿でいられるの。元々母親は人間だし、ハーフだから、自分が望めば人間の姿にはなれるんだ。だけど、それは夜の間だけで…。ずっと人間の姿でいたい時は、この薬を飲んでれば大丈夫なんだけど、あまり長く飲みすぎると副作用が出ちゃうから…」
テーブルに置かれた青いガラスの小瓶を摘み、乃亜は淡々と話す。
だが、俺には何が何だか…
まるで、昔、母親が俺に話してくれた嘘の童話を聞いているようだ。
「兄さんたちは尚吾に本当のことを話すなって…。話しても信じてもらえるはずもないって言うんだ。でも尚吾は僕を信じてくれるよね?人魚の僕でも好きだって言ってくれるよね?」
「…あ…の…」
「もし、尚吾がこんな僕でも愛してくれるって言ってくれるなら、僕は…もう兄さんたちの元には戻らない。このままの姿でここにいる」
「…え…っと…」
「ねえ、それでいい?尚吾の傍に居てもいい?」
すがりつくような目で見つめられ、俺はどうしていいかわからなくなった。
乃亜の話をすべて信じろというのか?
二十一世紀の現実に生きる俺に?
しかし…人魚って男もアリなのか?
それはそれで萌えるかもしれんけど…
二次元の世界限定でお願いしたいんだが。
子供の頃の純真無垢で残酷な時代ならともかく…
アラサーの俺に、それを信じろって言っても…
ちょっと無理!
「乃亜、あのさ、君を愛してるって言ったけれど、俺は人間の君が好きなんだよ…。つうか、なんで突然人魚だなんて、とんでもねえ話をするわけ?意味わかんねえんだけど…」
「…尚吾」
「君が兄さんたちに反対されて悩んでいるのは理解できても、人魚ですって言われて…そんな御伽話みたいなことを誰が信じるって言うんだよ。俺は乃亜が好きだけど…そんなことを言われたら、乃亜が今まで俺に言ってくれたことまで信じられなくなっちまう…」
「尚吾は僕の言ってることを…信じてくれないの?」
「…冷静に考えて、乃亜が人魚だなんて、世界中の誰が信じると思う?いや、君の兄さんたちなら信じるのか?それとも人魚の話も兄さんたちに教え込まれ、本気で信じてるってことなのか?」
話しているうちの俺はどうにも腹が立って仕方が無くなっていた。
この状況が一体どういうことなのか、判断が難しく、俺はクソガキのように喚き散らしていた。
「君がどうしても人魚って言いはるのなら、ここで…俺の目の前で人魚になって見ろよ。…そんな信じれるわけもない話で、一体俺をどうしたいって言うんだ。兄貴のところに帰りたいのなら、嘘話を聞かせなくても、さっさと帰ればいいじゃないか。…そうだよ、乃亜には俺が居なくても、あの変態兄貴たちがお似合いなんだろうからなっ!」
全くもってサイテーなのは俺だった。
乃亜の顔も見ずに、俺は乃亜の家から飛び出し、自宅へ逃げ帰ったのだ。
ハンドルを握っていても、涙で前も良く見えない状況だったけれど、腹立たしさと後悔と、自分の愚かさを詰り続けた。
乃亜の話が嘘であっても、それを包み込む豊かさが、俺には持てなかった。
乃亜の話を信じてやれなくても、信じるふりをして抱きしめてやる器量も俺にはなかった。
だが、俺と乃亜の関係は、嘘や誤魔化しなどを平気で笑っていられるほど、適当ではいられなくなっていたのも真実だった。
自宅へ帰り、水槽の熱帯魚に餌をやった。
魚のように泳ぐ乃亜も、想像できなくはない。
だけど、人魚であると言いはる乃亜を、これからずっと愛していけるのかと問われれば…不安になる。
俺はどこまで乃亜の言葉を信じればいい?
その夜は一睡もできず、翌日は疲れた身体に鞭打ち、仕事に行った。
だけど乃亜のことが気にならないはずはなく、傷つけた自分の言葉と、乃亜のことが頭の中でこんがらがって、熱中症でもないのに気分が悪くなった。
上司の薦めもあり、休みを取って自宅に帰る。
着替えもせず、ソファに寝転がって天井を眺めた。
何故だが母の顔が浮かんだ。
母が語ってくれた「人魚姫」の話を思い出した。
人魚姫は…最後にはどうなるんだっけ…
…そうだ。
母が話してくれた「人魚姫」は、幾多の困難を乗り越えて王子と愛し合い、幸せに暮らしたんだ。
だが、アンデルセンの書いた「人魚姫」は、心から愛した王子には理解されなかった。そして王子を殺して人魚に戻る事も拒否した人魚姫は、自らの命を絶つことで王子への愛を貫いた。だが愛する王子はそのことすら知らずに、違う女と結ばれる。
人魚姫はなぜ幸せな結末を迎えることが出来なかったんだ?
喋れないから?王子を愛してしまったから?
…違う。
王子に愛されなかったからだ。
王子は人魚姫が好きだった。だがその愛はただ愛おしいという慰めではなかっただろうか…
なにがあろうともこの人と人生を共に歩いていきたい、などとは、本気で考えていなかった。
結局は…人魚姫の片思いだったわけだ。
だけど、人魚姫の本当の気持ちを知ったとしたら、王子は他の女を選んでいただろうか。
彼女が溺れた王子を助け、血のにじむ思いまでして人間になり、王子を慕っていたと知ったなら…。
「死なないたましい」を人魚姫に与えることが、できただろうか…
俺は…
ふと眺めていた水槽に微かな異変を感じた。
近寄ってみると、一匹のエンゼルフィッシュが、死んでいた。
静かに波打つ水の上に浮かび上がった魚と乃亜の姿が、一瞬だけ重なって見えた。
…どうして俺は…最後まで乃亜を愛してやれなかったのか。
どうして、乃亜の言葉を信じてやれなかったのだろう…
「死なないたましい」を与えなければ…
乃亜は…死んじまうかもしれないのに。