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夏の日

練習作その2です。短いです。

 アブラゼミとクマゼミの奏でる不協和音が灼熱のアスファルトに跳ね返って、よりいっそう不快感を増す。溶けかかったアイスのような夏の夕暮れ時、片手に花、もう一方の手に水の入ったバケツを下げて、彼が坂道を上がってくるのが見えた。俺に気づくと少しはにかんだように花を持った手をあげる。

「ご両親は」

 彼の問いに、すでに朝参っていると答えると彼は「そうか」と少し寂しそうな表情を見せた。

「気にすることはないって。親父もお袋も今日は午後から用事があるから先に参っただけだよ」

 俺は慌てて取り繕うように言うと、さっさと済ませちゃおうよ、とあごをしゃくって合図した。そして二人で墓を水で洗い流し、添え物をして合掌した。

 兄貴、そちらで元気にしてますか? そんな事を頭の中で考えて目を開けると、彼はまだ目をつむり合掌したままだったので、慌てて合掌しなおした。他人よりも身内の方が合掌時間が短いというのも、考えてみればそれだけあの事故が家族の中で風化していっている証拠かも知れない。

 一分ほどしてようやく合掌を解いた彼が顔を上げた。相変わらず蝉はうるさく、日照りはきつい。二十歳になって覚えたばかりのビールが無性に飲みたくなった。俺はこの後の予定を彼に聞いた。彼は特になにもないと言った。

「じゃあ、ちょっと居酒屋でも行って一杯やらない? こう暑いとやってらんないよ」

 思えば俺が彼を飲みに誘ったのは初めてのことだった。彼は君がいいなら行こうか、と答えた。

 駅前の居酒屋に着く頃は、まだ時間が早いせいか客はまばらだった。席につくと俺はやってきたウェイターに早速ビールの生中を二つ注文した。

「あ、俺はウーロン茶でいいよ」

 彼が慌てたように訂正する。少し申し訳ないような表情が垣間見えた。

「いいじゃん、飲みなよ啓介さんも。飲めない訳じゃないんだろ」

「いや、酒はやめたんだ。あれから一滴も飲んでない」

 あれから、という言葉がひっかかった。

「いいじゃんか、身内の俺が言ってるんだから」

 それでも彼は首を横に振った。少々興がさめた。このくそ暑い中キンキンに冷えたビールを喉に流し込む快感を共有できないことに失望したからだ。

「でもさ、あの時啓介さんは別に飲んでたわけじゃないだろ」

 彼はそれでも首を横に振るだけだった。


 八年前、兄貴はバイク事故で死んだ。居眠り運転をしていたトラックの運転手が車線を飛び出し、兄貴は避けきれずに正面衝突したのだ。その時トラックを運転していたのが目の前の彼だ。


 ビールと突出しが運ばれて来て、俺は一気に半分くらい飲んだ。冷えたビールは気持ち良かったが、やはり一人で飲むビールは心地よさ半分といった感じだった。彼は肉体労働で盛り上がった太い腕で突出しをつついている。


 事故から数年して交通刑務所から出所した彼は我が家を訪れ、家族を前に土下座して謝った。額を畳にこすりつけて泣きながら謝罪する彼の姿を今でも覚えている。だが当然当時の俺たちはそれくらいで気持ちは収まらなかった。親父やお袋にとって兄貴は親孝行の自慢の息子だったし、俺にとっても優しいたった一人の兄弟だったからだ。事故の経緯は前もって知っていた。彼が決して堕情から居眠りをしたわけではなく、会社側が労働基準法を無視した長時間労働を社員たちに強いていたために、その疲れからきた居眠りだったことも知っていた。しかしそれでも俺たち家族は許せなかった。事の真相よりも怒りのやり場の問題だった。最初俺たちは頑に彼を拒絶した。特に当時高校生だった俺はいつも彼に喧嘩腰だった。だがそれでも彼は出来うる限りの誠意を表そうとした。お盆や彼岸には必ず兄の墓に参り、それ以外の時でも事ある毎に我が家に足しげく通い、俺たち家族の心身を労ってくれた。そしてそんな彼の態度に俺たちの間に立ちはだかっていた氷の壁も徐々に解けていった。ここまでしてくれているのだから、もう許してやってもいいだろうと思えるようになったのだ。


 彼とはいろいろ話した。大学でのことや、友人、恋愛、将来の夢など。酒の量が増えるごとに饒舌に、大胆になって俺は話した。彼はずっと笑顔で静かに聞いていた。聞き上手だなとは思ったが、酔人特有のノリの良さがないのは面白くなかった。

 気がつけば、いつの間にか俺は六杯目の生中に口を付けていた。酔いのせいかかなり気が大きくなっていた。

「なあ啓介さんも飲みなよ」

 俺は目の前でウーロン茶を啜っている彼に絡みたくなってきた。大学で覚えた酒の飲み方は、皆でヘベレケに酔ってハメをはずしまくるというものだったから、一人ハイになっている自分といつまでも冷静な彼というギャップにストレスを感じていたのだ。一緒に酒に酔って、ハッピーな気持ちになってハメをはずせたら、この場はもっと盛り上がるだろうに空気の読めない奴、と忌々しく思った。

「俺がいいって言ってんだからさぁ、そんな辛気くさい顔してねえで一杯やっちまいなよ」

「いや、俺はもう酒もタバコもやめたから」

 慌てて手をふる彼。

「それじゃあ白けちゃうんだよ。居酒屋は酒を飲む所だろ。グイっといっちゃえよ」

「いや、ほんとに俺はダメなんだよ」

「なんでダメなんだよ」

 俺はテーブルを両手で叩いた。のっていたグラスや食器が勢いで跳ねて、ガチャガチャと大きな音がした。周りの客も振り返る。居酒屋内が俺の怒声で静まり返ったが、アルコールに後押しされているせいで、俺はそれでも意気軒昂として捲し立てた。

「俺がいいって言ってんだろ。被害者遺族の俺が。あんたも加害者としての意識があるんなら素直に言う事聞けよ」

 彼は俯いて何も言わなかった。俺の荒い息づかいだけが辺りに響いていた。彼は手にしていた箸を置くと、苦しそうに顔をゆがめた。

「俺は……幸せになっちゃいけないんだよ」

 その言葉に、俺の中から何かがすっと引いた。

「あれは事故だった。悪気があってやったことじゃない。でも俺が君の兄さんを殺したのは事実なんだ。俺がやったんだよ、この手で人ひとりの命を終わらせちまったんだ。なのに、君の兄さんの人生を奪っておいて、俺だけが人生の快楽を享受するなんて許されないだろ」

 震えていた。筋肉質の盛り上がった体が小さく震えていた。俺はなにも言い返せなかった。兄貴が死んでから今まで、俺たち一家は遺族だと思ってきた。『被害者』の遺族だと。そして被害者遺族として加害者である彼を『許してやっている』と思っていた。だがそれは違った。あの事故が元で人生を狂わされたのは自分たちだけではなかったのだ。

 酔いが、さめた。

 俺たちは店を出て、その場で別れた。駅へと向かう彼を見つめながら、彼もまた『被害者』だったのだと思った。

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