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縁切り坂  作者: 市川イチ
3/3

後編


 三


 ふじ江の遺品を整理する場に、私は同席することを許された。

 遺品といってもふじ江は私物を殆どもっていなかった。着るものを除けば、あとは身の回りのこまごまとした品だった。この部屋の鴨居に腰紐を掛け、それで首を吊ったとのことで、発見したのは桂子だったそうである。もう死後の一切は住んで、ささやかな弔いもしてやたっとのことだった。見慣れたはずの六畳間は、ふじ江がいないというだけで、恐ろしく素っ気ない、見知らぬ場所のようだった。あの娘、こないだふた親とも死んじまって、身寄りがなくなっちまってたんですよ――と、女主人は言った。

「生きてても辛いばっかりで、嫌になっちまったのかねえ……」

 そうだろうかと私は思った。最後に会ったふじ江の様子を思い出していた。確かに様子が変だった。だが私はあれ以上は踏み込めなかったのだ。もう来ないでと言われたら、黙ってそうしてやるほかに、私にはできることがなかったのだ。

 女主人はどうぞごゆっくり、と言って下がっていった。

 すると私に近寄ってきた人があった。桂子だった。ふじ江よりもよほど年嵩で、美しく身繕いしていたが、声は真摯な悼ましさにあふれていた。「可哀想な子です。そう思ってやってください」

「桂子さんは縁切り坂ってご存知ですか」

 桂子は少し驚いた顔で、「ええ――」

 私は最後に会った日に、ふじ江に請われて縁切り坂を二人で下った話をした。あれは嫌な男と縁が切れることを願ってするものだと聞きましたが正しいですか、と訊くと、桂子は哀しそうに「そうですよ」と言った。

 桂子はこらえかねたように口元をきつく抑えた。そして次に彼女が言ったことに、私は驚いた。

「あの子、あなたのこと好きでした。うんと優しい人だって言ってました」

「それじゃあどうして……」

 桂子は黙って首を振った。

 私は、ふじ江の着物を手に取った。これは形見分けに桂子がもらうことになっているらしかった。うす紫に白い流し模様の入った、ふじ江には少し大人びた柄だった。いつだかふじ江が私に抱き着いてきた日に着ていたのとよく似ているかもしれない。はっきり言って似合っていなかった。全部そうだった。化粧も結い髪もあの子はあまり似合わなかった。

 私はしばらくふじ江の遺品を手に取って眺めていた。櫛、手鏡、足袋、化粧道具……とりわけ化粧道具の使いこまれていることがまた哀憫をさそった。

 行李の底に、おそらく普段使っている物とは違う、ずいぶん古い鏡があった。私はそれを取り出してみた。手のひらほどの丸型で、柄もついていないし、緑青が浮いてほとんど曇っている。それを裏返してみると、ふじえ、とかろうじて読める名前が書かれてあった。郷里から持ってきたものだろうか。

 そこで私はふと――本当にふと、諒解したのだった。

 ふじ江がああも私の手に拘った訳を。私と縁を切りたがった訳を。それは突拍子もない考えであった。まさかと思うような解答だった。だがその突拍子もない考えを裏付けるようなことを、私はすぐに聞くこととなった。桂子は後ろで独り言のように、「好きになっちゃいけないとか何とか言って泣いてたから、私言ってやったんです、あんた娼婦なら男に惚れても辛いだけだよって……」

 好きになっちゃいけない。

「桂子さん」

「はい――」

「ふじ江、何か手に特徴を持っていましたか。たとえば……どれかの指が短いとか」

 桂子は頷いた。むしろ何度もふじ江のもとに通い詰めていたはずの私が何故そんなことを知らぬのかという顔だった。私はやはりそうですか、と答えたきり何も言えなかった。

 ふじ江は小柄のために着物が合わなかったのではない。考えてみれば仮にも一人前の娼妓であるふじ江が、何も丈の合わぬ着物を無理して着ていたはずがない。あれは、わざと手を隠していたのだ。私と同じ理由で。

 切りたかったのは――

 男女の縁でない、兄妹の縁か。


 それから先の話はすべて私の想像である。

 だが桂子が言っていたことが本当なら、ふじ江が自分に思いを寄せていたことはもはや疑いようもなかった。ふじ江は私に惚れていたからこそ、二人で縁切り坂を下ってくれと請うたのだ。なぜか。ふじ江は、自分こそが私の生き別れの妹ではないかと思ったのだ。

 何を馬鹿なと、初めは私もこの考えを打ち消そうとした。だがあの狭い部屋が人生のすべてであったふじ江には、もともと理性などははたらかなかった。あの子はとてつもなく、本当に、文字通り幼かったのだ。それにふじ江は悪戯好きだった。時々やたらお茶目なことをして私をびっくりさせることがあった。もしかしたら私に女の影のあるなしを確かめたいというような、子供じみた嫉妬もあったかもしれない。私が寝ている間に、鞄の中を勝手に開けてのぞき見たことが一度もなかったとどうして言えよう。なかったかもしれないし、あったかもしれない。それは今となっては確かめるすべがない。だがそうでなくて、ふじ江は何故死んだのだ。

 私にもとより女の影などないことをふじ江はもちろん知っていただろう。それでも見たかったのかもしれない。あるいはないことを確かめるために鞄を開けたかもしれない。繰り返しになるがあの子に一人前の理性などなかったのだから。だがそこでふじ江は予想だにしないものを見た。女などよりもっとひどいものを見た。

 私の鞄の中には妹のための櫛が今も入っている。手放す時期を見失ったままだった。見ただけで古いと分かる櫛である。女々しい私は、妹の形見を肌身につけていることで、妹の安全を守っているような気になっていたのだった。それを未だに続けていた。馬鹿馬鹿しいとお思いかもしれないが、親だの兄だのというのはそういうくだらないことをする生き物である。そしてそれをこっそりと見たふじ江は、妹の名前――そう、私の妹もまた藤枝といったのだ――を知ったのだ。

 この広い日本にふじえという名前の女がどれほどいるか、いくらふじ江とて想像できぬはずはなかったろう。だがあの子にはもう一つの確信があった。私の左手の薬指が遺伝病で短いことを、あの子は何度も見て知っていたのだから。私が人目を避けたがる理由こそをがこの手だった。そしてあの子の左手の同じ指もまた短かったことを、私は桂子から聞いた。生まれつきだったそうである。

 それは幼いふじ江が何かしら確信するのに十分たりえなかったとどうして言えようか。あの子は一人ぼっちだった。二つの条件が目の前に揃い、もしや私と生き別れの兄妹かもしれぬと思ったとき、そんなことがあるはずないだろうと否定してくれる誰かを持っていなかったのだ。ただただ自分の考えに溺れ、それを打ち消せぬままに孤独の螺旋のふちで思い詰めてしまったあの子が発作的に死を選んだとして、どれほどの不思議があろう。

 あの夜ふじ江が私の手にすがりついてきた本当の理由は、この手を見たかったからではあるまいか。自分と同じ手を確かめたかったからではあるまいか。私は右手を差し出してあの子に自由を与え、左手で文字通り絶望を与えたのだ。そして同時に、ふじ江が縁切り坂で手をつなぎたがった理由を私はこのときにようやく知った。あれは、自分と同じこの手を隠してしまいたかったのだ。

 私と一緒にあの坂道を下りながら、ふじ江は、縁よ切れろ、他人であれと、一心にそう願っていた。縁切り坂にまつわる噂を、あの子は信じていなかったのだ。


 私がふじ江の兄であったのかどうか、私は知らない。だがおそらくは違ったろう。ふじ江の死には意味がなかった。そのことが何より哀しいと思った。

 私はその後みすゞやに足を運ばなくなり、四十近くなってからようやく遅い結婚をした。

 縁切り坂は今もある。そのことだけは確かである。あの華々しい色街の景色は、戦争で跡形もなく崩壊してしまったが、神社の界隈だけは奇跡のように残ったと聞いた。そこにかつて、幼い娼妓が切ない願いを懸けたことを、私だけがおぼえている。

 私は今も一つの光景を見る。青白い月下に一組の男女が、あの坂道を下っている。男は冴えない風体で、安い外套にくるまっている。女は似合わぬ化粧をし、男の手にすがり、憂い顔で寄り添っている。女は必死に願っている。唇を震わせて怯えながら願っている。

 男は何も気づかない。

 ――そんな淡い夢である。







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