中編
三
ふじ江の父が死んだのは、私がみすゞやに通いはじめて三月も経った頃だった。
あるとき訪ねていくと、ふじ江は出てこなかった。具合でも悪くしたのかと尋ねると、女主人が構わないから上がっちまってくださいというので、部屋に直接訪ねていった。
襖を叩いても返事が無いので、「ふじ江ちゃん」と声をかけてみたがそれでも何も返ってこなかった。だが襖の向こうに人の歔り泣く気配がした。躊躇いながら引きあけると、ふじ江は灯りもつけない部屋の隅に伏せていた。何か白い紙を握り締めていた。
「どうした――」
「死んだって」
涙にぬれた顔が振り向いた。化粧をしないふじ江の顔を私はこのとき初めて見た。素朴な顔だった。一度見てしまったらなおさらこの顔をどうして白粉で塗り隠せようかと思うほどの、きよらかな子供の顔だった。
私は部屋に駆け入ってふじ江に寄り添った。
「それ、お母さんからか。報せてよこしたのか」
ふじ江は首を振った。それからついにこらえかねたように顔をわっと伏して泣き、くしゃくしゃになった手紙を私に向かって突き出した。私はそれを受け取って呼んだ。カナ交じりの下手な文字を読み進めるうちに私は言葉を失った。
差出人はふじ江の縁者ではなく、隣人であるらしかった。――ふじ江の母も父とともに死んだことが書かれてあった。いっそ父が死ねばふじ江は楽になるのだろうに、と思ったことがあるだけに、この手紙は私にとってもなかなか胸を刺すものだった。何かおそろしい感じさえした。
母親が何故どうやって死んだのかは書かれていなかった。だがおかあさんは随分疲れていました、という一文が何ごとかを物語っていた。夫の後追いをしたということなのか、それでなければ――。どうであれふじ江には決して言ってはならぬことだった。養い親のために文字通り身を捧げてきたふじ江は、貰い子の孤独をこんな形で再び思い知ったのだ。
ふじ江は烈しくしゃくりあげていた。紅い唇で泣いた。
「ひとりぽっちよ。私、ひとりっきりになっちゃった」
「ふじ江ちゃん、そんなことはない。ここには力になってくれる人がいるだろう」
「そんなのいないわ。借金はまだ残っているし――」
それを聞いて私は驚いた。父親の面倒がなくなれば、ふじ江はここから出られるのだろうと漠然と思っていたからだ。
「うんと残ってるのか」
ふじ江は細かく頷いた。それから顔を覆っている痩せた手を、恥じるように、私から隠した。
それからしばらくふじ江を訪ねなかった。
仕事が忙しかったためもあり、どことなく訪ねづらかったためもあった。今頃どうしているだろうかと思いながら、あの子に踏み込みすぎているのではないかという一つの制御のようなものが私を押しとどめていた。惚れてなどいるはずもなく、だがただ単に馴染んだだけというにはもはや関わり過ぎていた。そもそも私はふじ江に触れたことがないのだ。今となってはそのことがかえって残酷だったかもしれない。ただの客と娼婦の関係であったなら、お互いにもう少し距離の測りようもあったろうに。娼妓の涙など見るものでないことぐらい、私にだってわかっていたのだ。
ようやくふじ江のところに行こうと思い立ったのはひと月も過ぎた頃だった。私は黒野が帰りに町場で呑もうというのを断って、師走の風に首を竦めながら、ひとりでみすゞやを訪ねた。黒野はちょくちょくみすゞやに顔を出しているから、彼の来ない日を選んで行くのは変わらなかった。私は黒野に何一つ想像されたくなかったのだ。
ふじ江はまだわずかに翳りを引き摺っていたが、それでもいくらかは明るさを取り戻し、私が訪ねて行ったことを喜んでくれた。志村さん、来てくれたの、という声には、どこかほっとしたような響きがあった。それはもはや娼妓が客に言うおなじみの世辞というよりも、頼りにしている相手に久方ぶりに会えてうれしいというような、素直な声に聞こえた。男を惹くためだけの紅い唇には似つかわしくない無邪気さで、それは私に届いた。
この日はやはりふじ江の口数が少なかったので、自然、私の話が主となった。かといって私の来歴などつまらぬものである。語ってやれるほどの何の話を持っているわけではなかったが、そういえばまだ話していなかったと思い、私は妹の話をした。
私には生き別れた妹がいた。生まれたとき私はすでに十五か十六ほどになっていたので、随分歳の離れた兄妹ではあったが、あいだに弟と妹が一人ずついたのでその当時は珍しいことではなかったのだ。
私の生家は貧乏で、父も母も百姓だった。朝から晩まで畑を耕している人たちだった。狭い縁側に腰掛けて、もう味のしなくなったスイカの皮をかじりながら、上下する鍬隙を見ていた子供の頃の記憶が今もある。
ひとつかふたつになった頃、妹は突然いなくなった。母の知り合いの家に里子に出してやったのだということだった。子供が無いので前々から是非欲しいと言われていたのだという。妹の面倒はしぜん年長である私が見るのが決まりになっていたから、ある日突然消えてしまった妹のことを、私はしばし忘れられずにいた。私もその頃少しは大人であったから、もう戻ってこないと分かった後は肩身のつもりで女物の櫛に妹の名前を書き、なんとなく持ち歩くようにもなった。私は妹を結構可愛がっていた。
母がどういった気持ちだったのかは今となっては知るすべもないが、覚えているのは妹がいなくなったその日、母が私たち兄妹に見たこともないほど豪勢な夕飯を出してくれたことだった。あれを妙に覚えている。そしてその意味を私は未だに分からずにいる。日頃どちらかといえば無口で厳しい人だった母が、その夕餉の間だけ、別人のようによく笑った。
「妹さん、どこへもらわれていったの」
「さあ分からない。母はちゃんとした話をしてくれなかったから」
そう、とふじ江はそれだけ言った。長火鉢にしなだれかかり、しどけなく横座りをしたまま、目を窓の外に遣っていた。自分に重ねているのかもしれなかった。――こんな話をすべきではなかったと、私は自分の迂闊を後悔した。他にどうでもいい話などいくらでもあったろうに、ああ、これだから私は気が利かぬのだ。
ふじ江はしばらく黙っていた。それからようやく振り向いて、ひたと私の目を見つめたかと思うと、何か思いつめたような鋭い息を一つ吐き、うす紫の着物の裾を鳴らして私の傍ににじり寄った。そしてぴったり身を寄せた。
「ふじ江ちゃん――」
ふじ江は私の躰でなく手にすがりついていた。左の手を――故あって私があまり人目に触れさせたくない左の手を遠慮なしに暴き、握りしめ、ほっそりした体に抱いた。
それは幼いふじ江の精一杯であったのかもしれない。幾度となく男に抱かれ、純潔などとうに喪ったはずのふじ江が私のような男の手ひとつ触るのに何かしら決意をしなければならなかったことに、若い娘の途方もない純情を見た気がした。寸前に見たふじ江の瞳は揺れていた。
このつまらぬ手を、ふじ江は長い袖に包まれた手で、まるで何か尊いもののように熱く抱擁した。
私はふじ江が離す気になるまでじっと抱かれていた。二人黙ったまま、互いの呼吸の音を聞いていた。やがてふじ江は「ご免なさい」と言って体を離した。
「志村さんの手、触ってみたかったの――」
はにかむように微笑んだ顔は薄明かりの中でほの白く、そのまま消えるのではないかと思わず私が腰を浮かしたほどに、儚く見えた。だがふじ江はちゃんとそこにいた。座って、いきなり子供のような顔で大きく笑顔を作った。十六歳というのは実に不可思議な年頃だと思った。先ほどまで女だったものが、今は子供になり、そしてまた私が帰れば女になる。確かなのはその透明感だけだった。透き通るような魂の、最後の一滴まできらめくような、自在な透明感だけだった。
私は自由になった手を見下ろして、少しばかり照れ隠しに、こんな手でよけりゃいくらでも触んなさい、と言ってやった。ふじ江に手を見られるのは不快ではなかったのだ。
それから私は疲れていたので横になり、ふじ江の楚々とした衣擦れの音を聞きながら、久しぶりに熟睡した。
四
それから何日かして、私はまたふじ江に会いに行った。先日仕事で失敗をやり、そのやり場のない憂さをふじ江の顔を見て腫らしたかったのだった。
じっさい、安月給の私には、みすゞやに通い続けるのは決して楽なことではなかった。もし給料が減らされるようなことになったらと思うと、潮時という言葉すら浮かんできたほどだ。ほかに遊興をしないとはいえ、家賃や食費は毎月かかるものだし、苦しいときはわずかな蓄えを切り崩してしのぐこともあった。
ふじ江はいつも通りに部屋にいた。だがいつもなら喜んで迎えてくれるふじ江が、このときはいやによそよそしかった。どうしたのかと尋ねても、別にとはぐらかされるばかりで、ぎこちないまま、話もさほどはずまなかった。前に来た時とは別人のようだった。
機嫌が悪いのか、それとも私に飽きたのか――そう考えてしまうのが私という男のさもしいところだった。私は女に好かれるたちではなかったし、黒野のように見た目がよいわけでもなく、本来こういった場所で遊ぶのに向いている男ではなかったからだ。
それでも一時間も居ただろうか。だんまりに堪えかねて、私は切り上げることにした。帰るよ、と声をかけると、ふじ江はのろのろと立ち上がった。「送るわ」という。
「いいよ、ふじ江ちゃん今日具合が悪いんだろう」
「志村さん、お願いがあるの」
ふじ江は私に背を向けたままだった。「一緒にあの坂下ってくれない」
「あの坂って――」
思い当たらないはずがなかった。
「縁切り坂か」
私がその名前を口に出すと、ふじ江はこくんと頷いた。
私たちはみすゞやを出て黙ったまま連れ添った。半端に膨らんだ月がまだ夜の真ん中に引っかかって遊んでいた。呼気は白かった。夜風はその月が送ってくるように冴え冴えとしていた。二人して華やかな中心街に背を向けるように、路地に入り、ひとけも灯りもない通りを抜け、神社の境内を目指して黙々と歩いた。その間ふじ江はずっと俯いていた。
心変わりしたのなら、それは仕方のないことだった。私は黙って受け容れる気になっていた。この歳頃の女の子の気持ちなど私にはどうせ判らない。気紛れといえばそうであろうし、私に飽きたのなら飽きたのだろう。男女が未練がましく糸引き合って別れるというのならばまだしも、ふじ江はまだ子供で、幼いがゆえの気紛れはどうにもならないことであった。あるいはふじ江の方こそ、行きずりの客に身の上にまで踏み込まれて迷惑に思っていたのかもしれない。そう思えばこれまでの自分の行動すべてがひとり相撲に思えてくるのも事実であった。
やがて私たちは大きな鳥居をくぐった。境内から、確かに長い坂道が伸びていた。月明かりに青白く浮かび上がっている。ひとけはない。いわくつきの道と思えばそうも見え、どこにでもある坂道といえばそうも見えた。
「降りようか」
するとふじ江は足を止め、私の手をまさぐった。「手、つないでもいい」
「いいよ」
私は寂しさを感じながらも、反面奇妙に甘い気持ちでいた。囁くような会話が心地好かった。どういうわけかはわからないが、今まさに別れてくれと言っているも同然のはずのふじ江の掠れた声には睦言にも似た媚びがあり、それがいやに男の心を刺激したのだった。
手を繋ぎたいというのなら好きにさせてやろうと思った。どうせこれが最後なのだ。するとふじ江は私の左手を取り、強く握った。素手だった。いつも袖に隠れて見えなかった手のひんやりした感触を初めて知った。
長い坂道を下り終えるとふじ江は私の手を離し、「一人で帰って」と呟いた。最後まで私の顔を見てくれないままだった。ふじ江の小さい下駄が砂利を踏みにじっている音が、聞くに聞かれぬ声のようにも感じられた。
「それじゃあ――」といって、私は別れた。
大通りに戻る手前で立ち止まり、一度振り返ってみたが、ふじ江はその場から動いていなかった。手を、おそらく私と繋いでいた方の手を、抱き締めるようにして俯いていた。夜の真ん中にぽつねんと一人取り残されて、その様子はあまりにも頼りなかった。走って戻って、嫌と言われてもあの子をみすゞやまで送ってやろうと思ったほどだった。
思えばあの子はいつも私の手に触れたがった。ああも執拗にあの子が手に拘った理由を、私は後になって知る。
*
それから――
半月も経った頃、私は職場の昼休みに、黒野の口から思いがけぬことを聞いた。
「そういえば、志村。君がみすゞやに通っていたとは知らなかった」
そう言って黒野はライスカレーの載った盆を私の隣の席に置いた。私は思わず箸を置いて黒野の顔をまじまじと見た。黒野は別段隠すことじゃないだろうというふうに、私の肩をたたいた。それから私の食べかけの蕎麦をちらと見下ろして、「またそんなものを喰っているから、君はいつまでも痩せているんだなあ」といった。私は返事もできなかった。
黒野は私の横でカレーを喰い始めながら、
「なに、先日久しぶりに顔を出したら、桂子が泣き腫らしているんだ。気丈な女だから、何があったのかと驚いて訊いたら、あそこの若い妓が死んだというじゃないか――」
そこで彼はちらと声をひそめ、「ふじ江って妓だ。桂子は妹みたいに思ってたというんだが、何しろ自殺だから始末に追われて泣く暇もなかったって、俺の顔を見てやっと泣けたなんて言うんだ。しかたがないから泣かせてやったよ」
「い、いつ」
黒野は思い出すような顔つきになって、「もう半月も前だ。――そう、それで、御贔屓だった志村さんにもよろしくお伝えくださいって言うもんだから、俺は驚いたってわけさ」
自殺――。
そのときどう返事をしたか、私は憶えていない。いまだにどうやっても思い出すことができない。その日の記憶は曖昧だ。ふじ江の死を知ったとき、私は確かに動転したのだろう。