前編
一
今ではもうその地名もなくなってしまっているだろうから、名前は伏せておくけれど、私が仕事の先輩に連れられて初めてその地を訪れた昭和七年の冒頭頃、北関東のある市に、ちょっとした色街の景色が盤を敷いていた。色街といってもそれほど大きな歓楽街というわけでなく、どちらかといえばやや田舎に引っ込んだような土地のことであったから、昼間はいっそりと静まり返ってひとけもなく、町全体がまるで廃墟のようだった。読み捨てられた新聞などが惨めたらしく土壁などにはりついて、何日も野ざらしになっているような薄汚れた町だったことを覚えている。
ところがひとたび夜になると、その一帯は突然息を吹き返したように、またたくまに灯りがはしり、どこからともなく人が流れ込み、眠っていた者は起き、一夜の饗宴を抱いて諸手を広げる火の鳥のごとく、絢爛な不夜城と化すのだった。呼吸のように繰り返されるその景色は、一種の幻想さえ私に起こさせた。
昼の姿と夜の姿があまり違うので、私などはもともと見慣れぬ景色であるから大変驚き、先輩にさんざ初心だとからかわれたものだった。私は実際、あの頃もう三十を過ぎていたが、女と一ツ床に入った経験すらない筋金入りの奥手であった。細々と役所勤めをしながら、一人でどうにか生きているというだけの寂しい男だった。
私が女を苦手とするのには理由があったが、私自身それを引け目に感じて人に話したがらなかったので、そんな私を可笑しんでか憐れんでか、黒野というその先輩はたびたび私をこういった騒々しい場所に連れてきた。彼はととのった顔立ちの好男子で、派手好きなところがあり、歓楽街にも慣れていた。
その年の夏の終わり頃、彼は私をこの街のみすゞやという娼館に連れてきた。忘れもしない、ごく小さな建物であった。軒先にみすゞやと描いた洋燈を吊るし、それでぼんやりと客引きをしている、こぢんまりした店であった。
黒野はここに馴染みをつけている女がいたので、さっさとその娼妓を連れて上がっていった。桂子とかいう美しい女だった。私はと言うと、黒野がいなくなってしまっては身じろぎもできず、こういった場所の礼儀も常識も知らぬので、ただ縮こまっていた。するとここの主人らしい老婆が私の袖をひき、黒野さんの肝煎りなら遊んでいってもようございますよというので、私は益々困った。
だがここで買うにしろ買わぬにしろ、私は帰り道もおぼえていなかったし、それに少しばかり白状すれば黒野に連れられぬではこういった場所に来る度胸などなかったから、せっかくだという気にもなっていた。私は生まれ持ったとある引け目のために女を苦手にしてきたが、商売女ならばあからさまに私を嫌がったりもすまいという考えも少しあった。
とまれ繰り返しになるが、私は女など買おうと思ったことさえなかったので、選び方も知らなかった。見かねた女主人が手を打ち合わせてひとりの娼妓を呼んだのは、それから五分も私が黙りこくった後である。人気の妓ですよと、口元をゆがめて女は言った。
呼ばれて気だるそうに二階から降りてきたのは若く小柄な女だった。遠目にも濃い化粧をしていたが、どう見てもまだ十五や十六の若さだった。彼女はすたすた歩いてきて、私の目の前で止まり、舌ったらずな声で「いらっしゃい」と言った。
名をふじ江といった。女主人は私の視線を受けて、取り繕うようにこの子は十八歳だと言ったが、実際私の見立ての方が正しかったに違いない。べったり塗りつけた白粉にも染まりきれぬほど透明な肌をして、あどけなく、躰つきなどまだどこか朴訥としてさえいた。小柄なために手の先まで袖に隠れ、それがまたより幼く見せている。異様に紅い唇だけが目を引いた。その唇が二度目に開いて「お客さん、こっち」と私をいざなった時、何か不思議な感じがした。
ふじ江に連れられて座敷に入ってからも、私は居心地が悪かった。ふじ江は子供らしからぬ蓮っ葉な所作で灯りをつけ、この六畳ほどの狭い部屋の中を手早く支度すると、ほの明るくなった中に私を座らせた。部屋の中は蒸し暑かった。安っぽい柄の布団が真ん中に陣取っていた。少し乱れていたが、それは何となく気づいてはいけないようなことのような気がした。
それからふじ絵は迷いもなく帯を解こうとした。私はあわててそれを押しとどめた。ふじ江は手を止め、まったく意外そうに、
「おじさん、初めて?」
と訊いた。そういう顔をするとこの子は益々幼かった。
「うん――うん、まあね」
ふじ江は微笑んだ。「私、初めての人は初めてよ。でも大丈夫」
そういってまた着物を脱ごうとするので、私はまた慌てて止めた。今度はふじ江は少し怪訝そうな顔になっていた。
「しないの」
「うん――」
どうして、とふじ江は言った。私は少し迷ってから、結局思ったまま、君はまだ子供だろうと口にした。ふじ江は目を丸くしたが、すぐに笑って「十八よ」と答えた。それはそうだ、絶対に本当の年齢を明かすなと教育されているのに違いなかった。
「そんならそういうことにしてもいい」
「変な人。じゃあ、どうするの。帰りたい?」
ふじ江は別に咎めているふうではなかった。どちらかといえばその声色がどこかほっとしているようにも聞こえたのは、私の気のせいではあるまい。いったいどういう事情で女郎に落ちたのかは知らないが、この幼い肢体をどれほどの男に差し出してきたのかと思うと、何かやりきれない思いがした。唇の朱が哀しかった。
「しらふが嫌なら、呑んでもいいのよ」
あまり私が黙っているので、ふじ江は酒の支度をしようとした。私はそれも要らぬと言った。
「ふじ江ちゃん、それ本当の名前かい」
ふじ江はまた何を訊くのという顔をして、「そうよ、ほんとうは別な字を書くのだけれど」といった。
「どうして?」
「いや何でもないんだ――」
私は布団を避けて座り直した。ふじ江は困ったように手を止めていた。どうすればいいのかわからないというふうに見えた。それはそうだった。この娘はそれ以外に人を持て成すすべを知らないのだ。その目的以外に自分のもとを訪れる男を見たことがないのだ。
――ここで私が帰ったなら、またすぐに別の男を座敷に招かねばならぬのだろう。
このとき、なぜそう思ったのか分からない。だがこれまでこの娘を抱いた男たちが、まさか年齢に気づかぬこともなかったろう。あの女主人とてそれを承知で抱かせているのだ。強いて言うならばそのことへの弱々しい憤りであったかもしれなかった。いや憤る資格などは私にはなかった。もちろん承知のうえだった。私はここではただの客で、それでなければ異邦人だ。その先には踏み込めぬ領域が確かにある。女郎をただ単純に哀れむことは、してはならぬことだ。
私はふじ江に今からなんでも好きなことをおやり、といった。ふじ江は今度の今度こそ意味がわからぬという顔をして私を見た。私は何もしないけどお金は払ってあげるから、おかみさんにもちゃんと仕事をしたと言いなさい、いいねと言った。ふじ江はじっと黙っていた。
「なにか話をしようか。それとも眠りたいかい」
ふじ江は少し考えて、話をせがんだ。私はお世辞にも話上手な方ではなかったが、これくらいの女の子が好きそうな話は何だろうと考えながらいくつか不器用に話をした。つまらなかったに違いないが、ふじ江は面白がって聞いてくれた。
はじめどこか世慣れたふうであったのは、この娘なりに己を護る手立てであったのだと気が付いた。あの気だるい様は、いわば虚勢であったのだ。話すうちにふじ江は年相応の明るい娘に戻って、楽しそうによく笑った。
時の経つのは早かった。そろそろ行くと言って私が腰を上げたとき、私の背に外套を着せかけてくれながら、また来てくれる、とふじ江は言い出し損ねて俯いた。自分に会うのに金がかかることをこの娘は痛いほど知っていた。その様子がいじらしかった。
私の方からまた来るよと言ったとき、ふじ江は嬉しそうな顔をして、「じゃあ待ってる」と言った。
それが最初の出会いだった。
二
それから私はみすゞやの客となった。二度目からは黒野に連れてきてもらわずとも通うようになっていた。むしろ私は生来の小心のために、できるだけ人目をはばかって来るようにした。どうしたって女郎宿に出入りしているところなどバツのいいものではなかったし、黒野に知られることも避けたかった。なにしろ傍目には初心な男が初めて通った女郎によほど入れあげているようにしか見えなかったろう。だが私はもちろんふじ江に触れなかった。座敷にはいり、ただ一緒に過ごすだけだった。ほんのひとときの自由をこの娘に買い与えることで、私はなんとなくいい気もちになっていたことを否定はできまい。
私に「買われて」いる間、ふじ江は好きなように過ごした。疲れている時は眠ったり、本を読んだり、私とお喋りをしたりした。特にふじ江は私と話をすることを楽しんでいるようだった。お茶目な性格で、どこにでもいる年頃の少女のようによくしゃべり、よく笑った。ときに悪戯をすることさえあった。私も日頃女を苦手にしていることを忘れるほど、ふじ江に対しては心安く話すことができるのだった。私の引け目にしていることを知ってもふじ江は私を厭わなかったし、私もふじ江を可愛く思う気持ちがないではなかったのだ。
そうするうちにふじ江の身の上も少し分かってきた。案の定、まだ十六歳だということ。女郎になったのは、養い親のためだということ。物心もつかぬうちに親に捨てられ、道端で死にかかっているところを養い親に拾われて育ったのだという。
「おとうさんが病気になってしまって、おかあさんだけじゃどうにもならないから――」
ふじ江は目を伏せた。
「恩返しだと思ってるわ。実の子でもないのに、ここまで育ててもらったんだもの」
その華奢な肩にのしかかっているものがふと見えた気がした。それは重く恐ろしい化け物のような姿で、今にもふじ江の姿を呑み込んでしまいそうに見えた。その化け物に喰われぬように必死に生きながら、この娘は自分を切り売りしているのだった。
「ここの人みんないい人よ。別に辛かないの」
ふじ江はいつもそう言った。だが、そう言わずにはいられないからそう言うのだと、まだ幼い目は隠しきれていなかった。
何度目の時であったか、ふじ江は私に縁切り坂の話をした。
「縁切り寺というのなら聞いたことがあるけれど――」
するとふじ江は縁切り寺をこそ知らなかった。大まかに説明してやると、さほど興味もなさそうに、ふうん、と言った。
「お寺のことじゃないわ。そういう坂があるのよ。この通りのひとつ後ろに、うんと古い神社があって――」
袖からわずかにのぞく指先で色とりどりのお手玉を弄びながら、ふじ江は歌うように言った。「そこの境内から長い坂道が伸びているの。それを縁切り坂って呼ぶの」
確かにこのみすゞやのある大通りの裏手にはうらぶれたような一角があって、このけばけばしい夜の景色の中でもどこかひっそりとしていた。通り一本入ると急に静かになり、やけに神妙な気分にさせられる。そういえばそこに赤い鳥居を見たことがあったかもしれない。あれはやはり神社だったのか、と私は思い当たった。
「好きな人と一緒に昇るとその人と結ばれるっていうわ。でも嫌な人といっしょに下ると縁が切れるんですって。姐さんたちが噂してるの。みんな、嫌いな男と一緒に、腕を組んで歩くのよ――」
ふじ江の声はどこか遠かった。うろんな瞳で転がるお手玉の色彩を追いながら、「信じる?」と私に尋ねた。
「さあ……」
娼妓たちが嫌な男と縁を切るために下る坂というのは、何かひどく生々しい感じがした。下る前に、下る後に、その男にまたその身を任せるのだろうに。
ふじ江の語り口調がどこか唄うようであったためか、その光景がぼんやりと頭の中に浮かんだ気がした。きらびやかな着物を着た美しい妓が、横の男にしなだれかかり、傍目にはとてもむつまじく、境内の坂を下って歩く。その表情は水のように静かである。だが女は声には出さず願っている。縁よ切れろと必死に願う。男はそれに気づかない……
言い出されるべくして誰かが言い出した話だろうという気がした。だがふじ江もそれを信じているらしいことは明らかだった。
「結ばれることもあるのかい」
「そうみたい。でもみんなして縁切りに行くから、縁結び坂じゃなくて縁切り坂って呼ばれるようになったのよ。――考えてみたらおかしな話なのよ、好きな人と一緒に下ったら、その人とも縁が切れてしまうのかしら」
だいいち昇ったら降りなくちゃならないのにね――と、ふじ江はくすりとした。
「好きな人がいるのかい」
ふじ江は寂しそうに笑った。「まさか。娼婦だもの、私」
酷いことを言わせてしまったと、私が少しばかり後悔して答えあぐねているうちに、ふじ江は辛気臭くなったのを嫌うように起き上がり、しりとりをやろうと言い出した。ふじ江はこれが強く、私は何度やっても勝てなかった。ふつう客を勝たすもんじゃないのかいと言ってもみたが、ふじ江は容赦をしてくれない。頭の回転が速く、いくらでも言葉を知っており、そうして私を負かすと飛び跳ねるようにして喜んだ。
それからひととき、私たちはキャアキャアとはしゃぎながら他愛もないしりとり遊びをやり、私は一寝して、茶をもう一服させてもらって帰った。
何度目かに気づいたことだが、私を見送るとき、ふじ江はそれまでの子供の顔から慣れた娼妓の顔に戻りかかって、ふっと眼を虚ろに曇らせる。初めて会った日のような気だるい感じを細い躰に纏わせる。それが彼女の戦闘準備であるらしかった。それはいつ見ても見事で、かつ哀れだった。
私と親しむほどに、私がいない日を過ごすのが辛くなるのだとふじ江は言ったことがある。だがその後に、でも平気よ、と独り言のように付け足して言ったのがいじらしかった。
何もしてやれないのは初めから分かり切っていることだった。私にできるのは短い休息を買い与えてやることのみだ。請け出してやることができるわけもなく、ふじ江の背負っている父親の薬代を肩代わりしてやることができるわけでもない。私はただの客で、それも女とこれまでまともに付き合ったこともないいじけた男で、ふじ江と仲良くなったのはただの行きずりだ。出来ることといえば聞かぬふりをすることだけだった。
私はいつまでも異邦人だった。そう思うことで私は無理やり割り切っていたのかもしれない。だとしたら私は、ふじ江にとって誰よりも卑怯者であったのかもしれない。
ひとり夜道を歩きながら、縁切り坂とやらをいっそ父親と腕を組んで歩かせてやりたいなどと、浅ましいことをさえ考える始末だった。