作戦
翌日、月曜日なので学校に行かなければならないのだが、面白いことに学校は無い。校内を包むフェンスなどは健在しているため、まさに蛻の殻という状態だ。
俺はスケッチブックを持って、彼と一緒に学校の跡地へ向かった。到着すると、やはり一昨日見たものと一致する光景が広がっていた。校門から校内全てを見渡せるのはへんな感じだ。
生徒はグラウンドに集められた。
ざわざわと、この怪奇現象について話し合われていた。無論話すことのできない俺と、いつも独りでいる彼はその会議には不参加だ。不安の溢れる喧騒の中、事情を知る俺たちは二人で身を寄せ合ってじっとしていた。
誰もこれが神様の仕業などと思うまい。
そこで俺は昨日考えた作戦を実行することにした。そのためには多くの観客が必要だ。しかし、俺は大声どころか微かな声すら出すことができない。なので、地道に集めていく方法をとることにした。
まずメモ帳にあることを書き、それを一人ずつに見せていく。怪訝な顔をして俺を追い払った奴もいたが、驚いた顔をして興味を示してくれた者もいた。噂は風の如く迅速に伝わって、俺たちの周りにだんだんと人が集まってきた。
彼は不満そうな顔で俺を見ていた。彼に俺の心の中は丸見えなわけで、作戦は筒抜けだったのだ。
でも、結果オーライだ。このメモ帳一枚でこんなにも人が集められるなんて思ってもみなかった。メモ帳には『彼が、学校が消える瞬間を見たらしいんだ。いろいろ教えてくれるらしいから、ちょっと来てみろよ』と書いたのだ。
彼は仕方なさそうに、ペンキを着けた細い筆で『本当なんだ』と地面に書き始めた。『すごい光が出てきて、それで、ぱっと消えたんだ。一瞬だった』観客たちはそれを目を輝かせて見ている。
彼もフード男と同じで、ペンキでひと塗りすれば文字が現れるようだった。しかし彼はそれを隠そうとしているのか、一生懸命に書いているふりをしている。そりゃあ、ペンキを付けただけで文字が浮かんできたら、この客たちは恐れおののいて一瞬でいなくなるだろう。そうなれば、彼が学校を消した、なんていう噂が流れるのは必至となる。まあ、事実なのだから彼も否定はできない。神様が嘘を吐くようでは、この世界に真実なんて言葉はなくなる。
これでは書くためのスペースに限界があるので、彼にスケッチブックを渡した。
これで俺の作戦は成功したように思えた。その内訳は簡素なもので、こうだ。まずメモ帳に生徒の興味を引く内容を書き見せていく。そうすれば彼の周りに生徒が集まる。彼は実際に見た現象を生徒に伝える。そうすることで、彼と生徒の間にコミュニケーションが発生する。そうすれば、彼に新たな友人ができるかもしれない。となれば神様である彼の寂しさは薄まるかもしれない、という作戦だ。少し寂しい気持ちはあるが、世界が消えてなくなるよりはましだろう。
嫌味なほど青々とした晴天の下、彼は学校が消えた瞬間を生徒たちに教えていた。いつの間にか、教師も観客に紛れていたりした。
俺は一人で校門のほうへ歩いた。フード男が来るかもしれない、という大きな不安材料があったからだ。
校門に赤い字が書いてあってぎょっとした。スプレーで書かれていないところ、フード男の仕業ではないはずだ。『油断大敵だよ』とあった。フード男に気を付けろ、ということだろうか。
その文字はクレヨンで書かれているようにも見え、俺はそれに触れ、質感を確かめてみた。しかし、それが何によって書かれたものかは分からなかった。ただ、クレヨンではない気がした。クレヨンのべっとりとした触感でなく、どこかしっとりとしていたからだ。でも、部屋の落書きも屋上の字も触れてみたわけではないので、確かなことはやはり分からない。
俺は彼のほうを見た。ほとんど無表情でいる彼が、一生懸命に笑顔を作ってスケッチブックに絵やら言葉を書いている。見ていて微笑ましいが、少なからず寂しさはあった。羨ましい、なんて気持ちもある。嫉妬しているのだな、と悟った。誰かを妬むなんて、初めて生まれた感情だった。
俺はもやもやと煙が上がるように誕生した嫉妬心を消す方法を考えた。
結局良案は思い浮かばず、今彼は世界を守るために、機械的に観客を前に授業をしているだけだ、と思うことで合理化を図ることになった。しかし、その無理矢理俺の心に埋め込まれたパターンでは、この世界が救われないことは俺自身が一番分かっている。
いっそその場から逃げ出して家に帰ろうとも思ったが、そうしている時にフード男が現れたら一大事だ。俺はしぶしぶ校門に書かれた『油断大敵』を眺めながら待つことにした。
フード男でもなく、彼でもないなら、この文字はいったい誰が書いたのだろう。この文字を書くことができたということは、その人物は神の創造物ということだ。
もしかしたら生徒の誰かが、と思い立つ。俺は持っていた鉛筆を使って校門に一本横棒を入れた。ひょっとしたら、誰でも書けてしまったりして、という甘い考えが生まれたのだ。
結果は、何も書けなかった。たしかに鉛筆を壁に当たまま横へと持っていっているのに、そこには何も写らないのだ。やはり、神様の創造物にしか書くことができないらしい。
校門にもたれかかりながら、道路を通り過ぎる車を見ていた。ごうごうと大きな音を立てている車や、案外静かに走っている車、大音量で音楽が鳴っている車など、さまざまだ。その音は、俺を快楽にさせることなどなく、いらいらを増させる一方だった。
車に飽きて足元に視線をやった。近くにあった石のような物を蹴ったくって遊んだ。軽く脆い石のようで、力強く蹴ると焼け跡のようなものを残して転がっていく。炭を地面に擦り付けたみたいだ。
ふと俺の視線に足が現れた。
顔を上げると、そこにいたのは黒いパーカーを着た男だった。口元を緩ませてこちらを向いている。
俺は咄嗟に彼に近づいてはいけない、というようなことを考えた。そうすればフード男に伝わるはずなのだ。フード男は俺が持っていたメモ帳とペンを奪うと、そこに何かを書き始めた。
紙には書けるんだな。俺がそう思うとフード男は顔を上げて持参していたスプレー缶を地面に吹き付けた。『そうだ』と出る。なんでだ、と連ねて思うとフード男は面倒くさそうに溜め息をついた。そして辺り一帯に、スプレーを乱雑に吹いた。『紙には誰でも文字を書ける。紙は勝手に何かを書かれ、勝手に修飾されんだよ。神様は、『紙』と『神』をかけたんだ。神様も、勝手に修飾されてんだろ』
なるほど、と俺は頷いた。それにしても、今日はフード男が上機嫌そうだな、とそっと考えた。そっと考えたって、おそらく筒抜けだろうが。
やっと書き終わり、フード男はメモ帳を俺に返した。
『俺は今のあいつは殺さねえよ。このままなら、世界が崩壊するのも時間の問題だ。次は何が消えるんだろうな。ところで、彼以外にも殺さなければいけねえ邪魔者がいるかもしれねえ』
俺はぞくっとして、全身の鳥肌が立った。心臓がぎゅっと掴まれたような感覚に襲われた。
まさか、俺か。俺はそう解釈した。俺が死ねば、彼が不安定になるから、だろうか。しかし、今の彼なら、俺が死んだって安定を保てるかもしれない。
『違えよ』とフード男は書いた。メモ帳がフード男の力強い字で埋め尽くされている。フード男は再び書き始める。『この世界を安定させているものは、全て俺が壊す。それが俺の役目だ』
役目、なんて言葉が出てきた。それでは、彼は誰かに指示をもらって動いているようではないか。俺がそう疑問に思ったこともフード男には手に取るように分かるわけで、彼は冷たい雪のように白い歯を見せて笑った。そしてまたメモ帳に向かう。
『俺は神様によって生まれたんだっつうの。神様は世界が嫌になって壊そうとした。その役を担うために作られた登場人物が俺だ』
グラウンドのほうから、大きな歓声が聞こえてきた。彼の話を聞いた観客たちの歓声だということは見ずとも分かった。彼を見てみると、スケッチブックにせっせと何かを書いている。楽しそうに見えるので何よりだ。そう思った瞬間だった。フード男に殴るような勢いで肩を叩かれた。
彼は付近にあった壁にスプレーを吹っかけながら去って行った。
『その調子だ。いいじゃねえか』もしかしたら、フード男も、この世界の安定を望んでいるのかもしれない。