明日の絵Ⅰ
翌日、俺はさっそく彼に問いただしてみた。『君がやったんじゃないのか?』と紙に書いて見せたのだ。しかし彼はうっすらと首を横に振るだけだ。
授業が終わった後、彼に一緒に帰ろうと誘った。肩を一回叩き、教室の扉を指差す。それだけで伝わる。彼は少しだけ笑顔になって、快諾してくれた。
そこで、彼の机に絵が描かれているのを発見した。油性ペンで描いたのか、線の色は鮮やかな青色だった。そこで彼の机の上にインクが乗っているのを発見した。それと、筆。手の込んだ落書きだ。
何の絵だろう、と顔を近づける。題名だろう、絵の下に『明日の絵』と書かれていた。
なんだよ明日の絵って。俺は笑いながら、その絵を見た。
……なんだ、これ。
俺はつい唖然としてしまった。
そこに描かれていたのは、昨日俺が見た景色だったのだ。学校の屋上から見た、たくさんのビルの見える景色。しかし、何かが足らない。必死に考えてみるが、足らない何かを思い出せない。
考えるのもすぐに飽いて、さっさと帰ることにした。
帰り道に、彼と一緒にアイスクリームを食べた。この時期にアイスクリームを食べるというのはなかなか狂気を感じるかもしれないが、寒くてもおいしいのだから仕方ない。
公園のベンチに座って食べていると、子供たちがはしゃぎながら目の前を通り過ぎた。『人間も、大嫌いだ』ふいに、昨日屋上に書かれていたあれが脳裏をよぎった。
できれば思い出したくないものだったが、そう思えば思うほど、べっとりと頭にくっついて離れない。
どこからか、バイクの轟音が聞こえてきた。何の音かは分からないが、がしゃんがしゃんという妙な音も聞こえる。意外と、音って多いんだな。少しでもそう考えてしまうと、ありとあらゆるものの音が目立って聞こえてくる。子供が地を蹴る音でさえ、大音量に聞こえた。
きっとどこかに音量調整する装置があって、誰かがそれをいじくっているんだ。俺はそう思った。そうに違いない。
隣で彼が、アイスクリームのコーンを包む紙を解体し、筒状にして遊んでいた。それが何かに見えたが、はっきりとは分からない。
でもなぜか、こう思った。ああ、そういえばこれだ、と。
なんだ、安定しているじゃないか。そう感じたのは、ただの気のせいだった。
次の日、あの日屋上から見た工場の煙突が消えた。
爆発した、とかではなく、消えたんです。テレビに映っている工場の従業員が、慌てふためきながらそう言っていた。工場で仕事をしていたら突然消えた、と。
彼の絵が、現実となったのだ。
そのテレビ番組を見ることに没頭していると、母に速く寝ろと鋭い声で注意された。しかし、俺はテレビから目を離さなかった。離せなかった、のほうが正しい。
昨日、彼と別れた後、また声が聞こえた。おそらく屋上で俺に話しかけた声だ。
ねえ、裏。
そう聞こえた。言われた通り裏を見てみると、一本道が長々と続いていた。今度はその道路に、スプレーで字が書いてあった。
『もういい、疲れただろ? 目ぇ覚ませよ、いい加減。この世界全部、消しちまえば、楽になるだろ?』
質問されていたのかもしれない。しかし、何も答えられなかった。
夏でもないのに、どこまでも続く一本道が歪んで見えた。
駄目だろ。消えちゃあ、駄目だろ。
そうは思ったけど、声が出なかったのだ。もともと出ないのだから、仕方ないが。荒い息だけがどんどん吐き出されて、気が付いたら走り去っていた。
さすがに心配になったのか、妹がコーヒーを入れて持ってきてくれた。家族の中で俺に親身に接してくれるのは妹だけだった。
妹は指に包帯を巻いていた。大丈夫か、と紙に書いて伝えると、妹はその紙を奪って『ドジった。包丁で切っちゃった』と丸っこい字で書いた。妹はどじなところがあり、よく怪我をするのだ。手先が不器用なのか、包帯や絆創膏を付けている箇所は腕の場合が多い。そして俺がそれを発見する度に『ドジった』と笑顔で知らせてくれる。
コーヒーはミルクがたっぷり入っていて、俺好みだった。妹は俺の好みをよく分かっている。ただ、コーヒーを飲んで目が冴えてしまった。
少し夜風に当たろうと、窓を開けて外を見た。
ふう、と溜め息をつくと、寒さで息が白くなって、目で確認できた。ああ、呼吸をしたんだ、と改めて理解した。それを見て、昨日この世界から消えた煙突を思い出した。白い息がすうっと消えるように、煙突は無くなったのだろう。
もしかしたら、次は俺が消えるかもしれない。理由は分からないが、次第にそんな焦燥にかられた。
この消失事件には次もあり、また何かが消える、という予想をしていて、なぜだかそれは確信に近かった。
そろそろ寝ようと思い、窓を閉めかけたところで、夜道を一人歩いている彼を発見した。
俺は母や妹に何も言わず、勢いよく家から飛び出した。
彼は、何か知っているし、この不安定に大きく関わっている。昨日見た絵からして、俺はそう思う。そしてそれも確信に近かった。