虚言症
主人公潤一は、今まで順調に生涯を歩んでいった。
幼児期多少の虐待はあったものの、それすら「今はよし」と思えるほど。
順調な人間が一番恐れているもの。
それは、身から出てしまったサビ。
万一、こんなことになったらと、先々まで考えた末の出産。
潤一の、いくつかある人生の分岐点の一つが、まさに今、この瞬間だった。
「どうしてこんなことになったんだ」
潤一の酒は止まらず、とうとう独り言をこぼした。
居酒屋に行くのは昔からの趣味だ。
しかし最近は経済的に厳しくなり、頻度も品質も下がっている。
ここもそう。良心的な価格が人気の居酒屋だ。
「どうか、したんですか?」
ふと隣から声がしたので、潤一は驚いた。隣には品のいい女性がいた。
清楚で整った顔立ち。
輪郭は細く、鼻の筋が美しい。
新婚だった頃の妻を思い出した。
「いえ、すみません」咄嗟に出た言葉だった。いや、言葉が他に思い浮かばなかった。
「いいえ、先ほどから見ていたんですが、随分お飲みになるものだから、ペースも速いし気になって」女性はにっこり笑った。
ふと、我に帰った。
こんな疲れ切った40前半の男に綺麗な女性が声をかけてくる。
「こんなご時世ですから、酒も、質より量になってしまいました」
さりげなく、お金がないことをアピールした。女性に悪意がなければ失礼だ。
女性はそんな潤一の言葉を聞いて、くすくすと、唇に手をあてて笑う。
「マスターに睨まれますよ」
マスターを見る。幸い他の客と話をしているところだったが、
「聞こえたかな」潤一は少し照れ笑いをした。
いつからだろう。
こんな気持ちになったのは随分久しぶりだった。
子供ができるまで、妻と一緒にお酒を飲むことは多かった。
しかし徐所にその時間はなくなった。
妻の妊娠をきっかけに、タバコを止めた。
子供の成長が気になって、自然と酒も忘れていた。
覚悟はしていた。
自分の子供が人間としてクズだったらどうしようか。
世間に出して、万一、人を殺しかないような、そんな子供になったらどうしようか。
その時は自分の子供を殺して自分も死ぬ。
子供が生まれる前はそんなことも言っていた。
―ちょっと飲みすぎじゃない?潤一くん
そう言って肩を軽く突いてくれるのが、妻の癖だった。
愛した癖だった。冗談っぽく笑う妻の顔は誰よりも愛おしかった。
「大丈夫ですよ」
「あの様子じゃマスター気付いていませんから」
その言葉に反応し、我に戻る。
女性は満面の笑みを潤一に渡していた。
「ああ、そうだね」
女性に比べたら10%も笑えたかどうか、しかし潤一は笑顔で返した。
それから女性は酒を注文した。
「ちゃんぽんは、よくないですからね」
そう言って日本酒とコップを二つ用意してくれた。
「お疲れ様なお兄さんとの出会いに、乾杯」
二つのコップが合わせる音。これを聞いたのも随分久しぶりな気がした。
***
「ねえパパ、私すごいの見ちゃった」
長女の優月は秘密だよ、というポーズをとり、声を潜めて言う。
「ママがね、たっくんとセックスしてるの」
突然の出来事に潤一は一瞬呆気にとられる。
しばらくして、「そうなのか」と、その言葉を真剣に受け止め、妻に話した。
妻は顔一杯に不安を広げた。
「どういうことだ?」潤一は問う。
冷静に考えれば、次男の卓はまだ10歳になったばかりだ。
14歳の娘が「セックス」という言葉を何の恥じらいもなく使う。
そちらも気になる。
妻はぽつりぽつりと話した。
「昨日、友達にもらったのって猫のぬいぐるみ、見せてくれたでしょ?」
突然の切り出しに戸惑ったが、優月が大事そうに抱きしめていた猫のぬいぐるみを思い出した。
「ああ」
「何か変だったから、あの子が学校に行ってる間に、ちょっと見てみたの、そしたら」
その猫は死体だった。
慌てて河原の土に埋めて、優月にどうしてあんなもの拾ったのか、妻は訊いた。
すると、
「もらったの。友達に。プレゼントって。どうして捨てたりするの?」
優月が怒ったと言う。
「そう、なのか?」
妻の不安そうな顔は薄まらない。
「どうしよう、ちょっとおかしいかも。こないだも…」
泥だらけになって帰ってきた優月にどうしたのか聞いたところ、猫の死体を見つけたから友達と埋めてた、と答えたらしい。
それにしては顔中泥だらけで、とにかくお風呂に入ると言って夕食も食べなかったらしい。
「もしかして、いじめられてるのかなぁ…」
妻は言う。
「でも、それにしては今日のあれはどういうことだ?」
潤一は援助交際を疑った。
「学校の先生に聞いてみるわ」妻が言い、その日は終わった。
次の日、優月の顔には殴られた後があった。
「パパ、どうしてママは私を殴るの?」優月は涙一杯にして潤一の懐に飛び込んできた。
昨日の一件があったにせよ、やはり驚く。優月の頬は赤く腫れている。
どうしたどうした、なだめながら潤一は優月の話を聞いた。
「わからない。ママがいきなり私を殴るの。私が嘘つきだって。嘘なんてついてないのに」
潤一はぞっとした。
これが嘘なのか?
とにかくママと話し合おう、その提案に優月は首を大きく横に振った。
「もうママの顔なんて見たくない」泣きながら自分の部屋へ行った。
リビングに行くと、妻が震えていた。
「優月、今日は何て言った?」
潤一は正直に答えた。妻は頷くだけだった。
「学校はどうだった?」潤一が問う。
ああ、と妻は話始めた。
学校では特に何もありませんよ。クラスでも明るい性格の子だし、家でそんなことがあったなんて驚きです。
担任の言葉はその程度のものだった。
帰りに偶然、優月とその友達に遭遇した。
「ママ~」と優月は近づいてきたという。「どうしたの?」
友達の前で言うのは気が後れるので、「ううん、大した用じゃないよ」と答えた。
そのまま去ればよかったのに、猫について気になっていた妻は優月に聞いた。
どの子から猫をもらったの?
みんな不思議そうな顔をして、「私が猫をあげました」と一人が手をあげた。
優月はふくれっ面をして「それをママが捨てたんだ」と思いだしたように怒りはじめた。
「猫の、ぬいぐるみ?」
「そうだよ」優月は頷き、手をあげた友達も頷いた。
「私がおかしいのかしら」
妻は自信がなくなったと言う。もともと自分に自信の持てないタイプだった。
「少なくとも、今日優月を殴ったりはしてないだろ?」
妻は頷く。
「だったら安心しな」潤一は妻の背をさすった。
妻の不安を和らげながら、潤一も嫌な予感がした。
猫の件はともかく、昨日と今日の優月の発言が気になる。
本当か嘘か。嘘なら優月が、本当なら妻が精神科送りじゃないか。
潤一はしばらく二人の様子を伺った。
優月の顔の腫れがひいていくことを確認しながら、妻の不安な顔を見ながら、
優月の言葉を聞きながら、妻の言葉を聞きながら、
二人の言葉はあまりにも違いすぎて、一度三人で話し合おうと優月に説得した。
すると、
「パパも私を疑うの?」優月から表情がなくなった。
「そうじゃない、三人顔を合わせて話すことで、お互い絡まった糸を整理しないと」
しかし、優月は何も言わず部屋に戻った。
次の日、「パパ~」と優月が声をかけることがなくなった。
***
「嘘というのは、恐ろしいものですね」隣の女性は宙をみながら言った。
「え?」潤一はまた我に返る。気が付いたら酒は残り半分もなかった。
「私も、嘘しか言わない女の子にあったことがあります」女性は続けた。
女性は精神科に通っているという。そこでその女の子に出会った。
始めは挨拶だけだったが、通っているうちに顔見知りになり、年も近かったためカフェでお茶をする仲になった。
しかし、どうもおかしいことに気付いた。
いきなり週に4回ラブホで泊まる話をしたかと思えば、お兄ちゃんの家で大人しく暮らしている話をしたり、さらには元彼の家で泊まって殴られたなどと話す。
女性もキャバクラで働いたことがあったので、ラブホの話に驚いたりはしなかったが、話すことがごちゃごちゃで恐怖を覚えたと言う。
「そうだったんですか」
潤一は、女性の、見た目だけでは想像できない経験談に親近感を抱いた。
この子も苦労しているんだ。
「脈絡のない嘘に、いったいどういう意味があるのでしょうか」女性は独り言のように呟いた。
「さあ」潤一は情けなさを感じた。そんなこと、考えたこともなかった。
「きっとSOSのサインなんだろうなと、私は思ったのですが、逃げたんです。あまりにも恐くて」
女性は潤一の方を見つめていた。
「逃げていいと思いますよ。それであなたが精神的にやられてしまったらどうしようもない」潤一は答えた。
しかし事が自分の娘か妻になると、逃げるわけにはいかないよな。心の中でつけたした。
女性は微笑を浮かべ、「ありがとうございます」と潤一の瞳を見てから頭を下げた。
「実は、ずっと心残りだったんです。私はとんでもないことをしたって」
もしかしたら、からかっているだけかもしれない。
でも、もしかしたら、それは必死の覚悟だったのかもしれない。
「何年経っても答えは見つかりませんでした。それは私が逃げてしまったから…」
****
どうやって帰ったのか、憶えていなかった。
玄関の前で座り込んでいる潤一を、妻はあわてて家に入れたという。
「どうしたの?こんなに飲むなんて…」
翌朝、妻は心配しながら潤一を受け入れた。
「ああ、うん」潤一は昨日の出来事を話そうか迷った。
「もう若くないんだから」
そう言いながら、妻は少し笑った。
懐かしむような、昔の幸せを思い浮かべるような笑顔。
「優月は?」
「昨日は特に何もなかった。ううん、それがおかしいわよね。なにごともなかったように私に話しかけて、笑顔で、朝も…。もう部活に行っちゃったけど…」
「そうか」
潤一は安心し、目を閉じた。
今日が休みでよかった。とてもじゃないが、会社に行けそうな気配はない。
―本当だ。飲みすぎた。こんなのは―
「久しぶりだね」妻が言う。
潤一は妻の顔を見た。
なぜか、昨日の女性と重なる。
「今日はゆっくり休んで。ごめんね」
妻の顔には、言葉通り労りの表情が刻まれている。
嘘しかつかない人。
どうして、嘘しかつかないのか、か。
妻と優月の矛盾した言葉。
あの人なら、どちらが嘘をついているのか、分かるのだろうか。
いや、その前に、
「こっちこそ、いつもありがとう。優月のこと、二人で考えような」
素直に気持ちを伝えた。
妻も優月も、大切だ。どちらも大切だ。
どちらからも逃げたくない。
妻は驚いたのか、安心したのか、
「うん」
返事と一緒に涙を流した。
それはさらさらとした、滞るものなどないという風に、頬を伝い、次々に流れていった。
最後までお読みいただきありがとうございます。