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最初の任務

二日酔いだった。


書斎の床で目を覚ました時、肩には、毛布がかかっていた。ゼフィルさんの姿は、もうなかった。卓の上に、空になった葡萄酒の瓶が、三本、並んでいた。


三本。


あのおじいちゃん、どれだけ強いんだ。


「……あんた、お酒くさい」


廊下で会ったクレアが、鼻をつまんで、思いきり顔をしかめた。


「おじいちゃんの次に、くさい」


「ギルさんも飲んでたのか」


「マルタさんと、明け方まで。剣の話で、盛り上がってたみたい」


この組織、大丈夫なんだろうか。


 ◇


昼過ぎ、俺たち三人は、また、ゼフィルさんの書斎に呼ばれた。


ゼフィルさんは、ゆうべの酒など一滴も残っていないような顔で、本の塔の間に座っていた。


「さて。昨日の話の続きをしようか」


ゼフィルさんは、壁の大きな地図の前に立った。


赤いピンの群れの、その先。地図の東の端に近いところに、ひときわ大きな町の印があった。


「水門都市ラグーナ」


ゼフィルさんの指が、その印を、とん、と叩いた。


「大陸の東の、商人たちの町だね。大商会がいくつも集まって、町を治めているんだよ。アウレア王国の海の玄関口でね、世界中の品物と、お金と、人が、この町を通っていくのさ」


この世界には5つの大陸がある。

真ん中に巨大な海があり、大陸はその周りを囲んでいる。


アウレア王国は西の大陸だ。


「パンの値段が上がってるって、宿場町の商人が言ってました」


「うん。灯守の別の筋からも、同じ話が届いているね。麦は例年どおり採れているのにね、水都の下町では、パンが、手の届かない値段になりつつある。どこかで、誰かが、麦を止めているらしいんだよ」


ゼフィルさんは、俺のほうを向いた。


「君に、頼みたいことがあるのさ」


 ◇


「水都へ行って、消えた協力者たちの行方を、探ってほしいんだよ。それから、変異の波の起こりをね」


ゼフィルさんは、指を二本、立てた。


「ただしね、協力者たちを消した者らしい相手を見つけても、決して、一人で手を出しちゃいけないよ。まずは、知らせること。灯守の協力者の店を通じて、ここへ鳥を飛ばしておくれ。僕がどこにいても、ここから届くようにしておくからね」


「……わかりました」


「それが、灯守としての、君の最初の任務さ」


灯守としての。


その言葉に、俺は、顔を上げた。


ゼフィルさんは、机の引き出しから、小さな包みを取り出した。


中から出てきたのは、銀の徽章だった。


ランタンの中で燃える、一つの炎。


じいさんが、丘の上で見せてくれたのと、同じものだった。


「カイくんの仕事を、君が継いだ。だからね、これは、君のものさ」


ゼフィルさんは、徽章を、俺の手のひらに、そっと乗せた。


小さくて、思ったより、重かった。


「灯は、消さない」


ゼフィルさんが、静かに言った。


カイの手帳の、裏表紙の言葉。


「……灯は、消さない」


俺は、徽章を、ぎゅっと握りしめた。


 ◇


「それから、これもね」


ゼフィルさんは、もう一つ、折りたたんだ紙を差し出した。


開くと、それは、地図だった。


コレット村のまわりの、手描きの地図。赤い印と、×のしるし。几帳面な字の書きこみ。


カイの手帳の、地図の写しだった。


「手帳そのものは、カイくんの最後の報告として、ここに預からせてもらうよ。でもね、地図の写しは、君が持っていなさい。水都へ向かう道で、きっと、役に立つからね」


それから、少しだけ、いたずらっぽく笑った。


「それに、君には、カイくんの字が、まだ必要だろう?」


俺は、地図の写しを、手帳のあった懐の場所に、そっとしまった。


軽かった。


でも、ちゃんと、そこにあった。


 ◇


「わたしも、行く」


クレアが、言った。


ゼフィルさんが、眉を上げた。


「クレアちゃん。水都は、危ないところだよ。君は、村に帰っても――」


「帰らない」


クレアは、まっすぐに、ゼフィルさんを見た。


「カイは、水都のことを調べていて、殺された。だったら、カイを殺したやつの手がかりは、水都にある。わたしは、それを、自分の目で確かめたい」


クレアは、胸の前で、拳を握りしめた。


「それに、こいつ一人で行かせたら、またどこかで、九十度にお辞儀して、変な人だと思われるに決まってる」


「今は十五度だ」


「どっちでもいいわよ」


ゼフィルさんは、しばらく、クレアを見ていた。


それから、じいさんを見た。


じいさんは、黙って、うなずいた。


「……そうかい。じゃあ、二人で行きなさい。お互いに、背中を守り合ってね」


ゼフィルさんは、やさしく笑った。


「ギルには、別の仕事があるのさ。北のほうでも、気になる知らせが届いていてね。途中の分かれ道までは、一緒に行くといいよ」


 ◇


「ただしね」


ゼフィルさんが、俺の左腕を、ちらりと見た。


「出発は、その腕が、ちゃんと使えるようになってからにしなさい。片腕の若者を、いきなり水都へ放りこむほど、僕は鬼じゃないからね」


「……はい」


「それまでは、ここで、みっちり鍛えてもらうといいよ。マルタもね、昨日の一本が、よっぽど悔しかったみたいだからさ」


ゼフィルさんは、にこにこしていた。


嫌な予感しか、しなかった。


 ◇


それからの半月は、地獄だった。


いや、ブラック企業の地獄とは、種類が違った。


朝は、マルタさんとの稽古だった。


銅貨の手は、二度と通じなかった。


「同じ手は、二度食わん」


俺が懐に手を入れた瞬間に、マルタさんは踏みこんでくる。小石を投げても、袖を振っても、その目は、俺から離れない。


見られたままの俺は、ただの若造だ。


転がされた。


十七回。


一日で、だ。


(いや、これ、普通にパワハラでは)


そう思った。でも、マルタさんは、怒鳴らなかった。


砂の上に転がった俺に、手を差し出して、一言だけ聞く。


「今のは、どこが悪かった」


答えるまで、手を引っこめない。


答えると、「そうだ。次」。


怒鳴られるより、ずっと、きつかった。


でも、怒鳴られるより、ずっと、ましだった。


十日目に、ようやく左腕に力が戻ってきて、吊り布が外れた。それからは、両手で転がされた。


転がされながら、わかったことがある。


見つかってから、正面でやり合ったら、俺は、勝てない。


マルタさんにも。たぶん、街道の野盗にも。


だから、見つからない段取りを作る。見つかったら、目を引きはがして、消え直す段取りを作る。それでもだめなら、逃げる。逃げ道は、先に決めておく。


それが、俺の戦い方だ。


マルタさんが教えてくれたのは、勝ち方じゃなかった。


負けない逃げ方だった。


 ◇


昼からは、じいさんの番だった。


こっちは、剣より、口のほうが多かった。


地図の読み方。野営の場所の選び方。宿の部屋に入ったら、まず、窓と出口を確かめること。灯の印の店で、主人に何をどこまで話していいか。人の多い町では、目線の高さで歩く者と、足元を見て歩く者を見分けること。


「足元を見て歩いておる者はな、懐の中身か、逃げ道を気にしておる」


「僕、日本では、ずっと足元を見て歩いてました」


「……だろうな」


即答された。


夜になると、じいさんは、決まって同じことを聞いた。


「今日は、何を覚えた」


答えられないと、もう一度、同じ話をされる。


だから、俺は、町の紙屋で、薄い帳面を一冊買った。毎晩、その日の教えを書きつけた。


逆算。段取りは、二つ、三つに分ける。崩れたら、組み直す。姿が出たら、目を引きはがしてもらう。逃げ道を、先に決める。


カイ先輩の手帳は、もう、手元にない。


でも、そのかわりに、俺の帳面ができた。


字は、カイ先輩より、だいぶ汚い。


 ◇


稽古が始まって三日目の朝。


じいさんが、細長い木箱を抱えて、訓練場に下りてきた。


「クレア。これを持って行け」


木箱のふたを開ける。


中には、一振りの細剣が、布にくるまれて眠っていた。


細い。峠で折れた剣より、さらに細い。


刃は、綺麗な銀色で、周囲の明かりを、水のように映している。柄には、小さな青い石が一つ、はめこまれていた。石の輝きが剣に写り、銀色がうっすらと青みがかる。


「昔、迷宮で手に入れたものだ。浅いところだがな」


じいさんは、細剣を取り出して、クレアに差し出した。


「レイピアだ。細いが、そこらの鋼より、よほど硬い。簡単には、折れん。それに、軽い。突きの基本ができておれば、扱える」


クレアは、両手で、おそるおそる受け取った。


「……こんなの、どうして、おじいちゃんが」


「わしには、細剣は性に合わん。だが、売る気にもなれなんだ」


じいさんは、少し照れくさそうにし


「なに、フェンサーの孫娘がおるんだ。いつか、渡す日が来るかもしれんと思ってな。……本当に来てしまったな」


クレアの若草色の目が、みるみる潤んだ。


「……ばか。そういうことは、もっと早く言ってよ」


「試してみろ。柄の石に、力を流しこむつもりで、握ってな」


クレアは、訓練場の隅の、藁の打ちこみ人形に向き直り、いつもより距離を取った。


半身に構える。


剣を握る指に、力をこめる。柄の青い石が、ぽうっと光った。


突いた。


切っ先は、人形の手前で、止まっていた。大股一歩ぶん、届いていない。


なのに。


ざくり、と。


人形の胸に、穴が開いた。


藁が、ぱらぱらと、床にこぼれ落ちる。


「……え?」


クレアが、自分の剣と、人形を、交互に見た。


「魔力をこめると、切っ先の、さらに大股一歩ぶん先まで、見えん刃が伸びる」


じいさんが、にやりと笑った。


だいたい、一メートル。間合いの外から、突きが届く。


「迷宮で取れる品には、こういう力が宿っておることがある。身を軽くするもの。力を強くするもの。炎や氷や、雷をまとわせるもの。わしらは、まとめてマジックアイテムや、魔道具と呼んでおる」


マジかよ、マジックアイテムあんのかよ!


「この細剣は折れにくく、間合いが一歩伸びるだけだ。そこまでの品ではないが、クセがなく、扱いやすい。まずはこれを使いこなせ」


「うん、絶対使いこなしてみせる。…おじいちゃん、ありがとう」


クレアが感動している。ちょっとウルウルしているのは気のせいではないだろう。


「うむ。いつか物足りなくなったら、迷宮に行け。まぁ今回はそこまでの長旅にはならんろうがな。」


「でも装備で、そんなに変わるんですか」


じいさんに聞いてみる。俺の世界で、仕事人は、三味線の糸や、かんざしだけで暗殺していたんだぜ。


「変わる。自分に合ったものをそろえれば、同じ腕でも、二倍にも三倍にも強くなる。だから、腕の立つ冒険者ほど、装備に金をかける」


じいさんは、指を一本立てた。


「獣の姿をした魔物は、たいてい、炎を嫌う。だから、炎の魔道具は、どこへ行っても使える。属性付与の武器の中では比較的、手に入れやすい。手に入れたら、使え。」


なるほどね、確かにね。闇属性や光属性なんかは厨二心がくすぐられるが。炎かー、BBQにも使えそうだ。


「はい、そうします」


「だが、炎を好む魔物もおる。そういうのに当たったら、目も当てられん」


ダメなのかよ。どっちだよ。


「ギルさんは、何を使ってるんですか」


「わしの相棒は無属性だ。武器を持ち替えるのは好まんからな。ただ、個人的には雷は勧められる。雷を得意とする魔物は、ほとんどおらんからな」


炎じゃないのかよ。


それから、じいさんは杖を、軽く持ち上げた。


「もっとも、旅の間は、この仕込み杖だがな。いい得物を見せびらかして歩くと、ろくなことがない」


じいさんは1つの武器で通すタイプなんだな。

確かに聖騎士が何本も剣だか槍だかを持ち歩くのは無理がある。


俺は、クレアの手の中の細剣を見た。


それから、自分の腰の短剣を見た。


(……俺のは、普通の鉄なんだけど)


仕方ない、しばらくは初期装備の「鉄の短剣」だな。


クレアを見ると、まだウルウルしていた。


それから、クレアの口元が、ゆっくりと、ゆるんでいった。


人形の穴を見つめたまま、ふにゃっと、ニマニマしている。誰も見ていないと思っているのだろう。柄の青い石を、親指で、そっとなでている。


目が、合った。


クレアの肩が、びくっと跳ねた。


一瞬で、キリッとした真顔に戻る。戻りきれていない口の端が、ひくひくしている。


「……な、何よ」


ふいっと、目をそらした。耳まで、真っ赤だった。


 ◇


クレアも、毎朝、マルタさんに鍛えられていた。


半身の構え。後ろ足で蹴る突き。突いたら、すぐ下がる足。来る日も来る日も、その三つだけを、何百回も繰り返していた。


「剣は、いいものを持った。だが、腕が、まだ剣に追いついておらん。だから、当たらん場所にいろ。当たらん場所から、突け」


マルタさんの声が、訓練場に響く。


クレアのほうは、転がされる回数が、日に日に減っていった。


「あんた、今日、何回?」


「……十二回」


「わたし、四回」


クレアは、片手で口元を覆った。


覆ってはいる。でも、指の隙間から、ニマニマが、まったく隠れていなかった。目まで細めて、思いきり、こっちに向けてくる。


(隠せてないぞ。指の隙間から、完全にニマニマが漏れてる)


何も、言い返せなかった。十二回と四回では、言い返しようがない。


最後の日。


マルタさんとの一本で、俺は、やっぱり転がされた。


でも、転がる直前に、木の短剣の先が、マルタさんの肩口を、ほんの少しだけ、かすった。


マルタさんは、砂の上の俺を見下ろしたまま、しばらく、自分の肩を見ていた。


それから、いつもより、少しだけ長く、手を差し出したままでいた。


「……今のは、悪くない」


初めて聞いた、褒め言葉だった。


 ◇


その日の夕方。


じいさんに連れられて、俺とクレアは、川沿いの通りを歩いていた。


「どこ行くの、おじいちゃん」


「仕上がったと、知らせが来た」


着いたのは、川べりの、小さな革細工の店だった。軒先に、長靴の形の看板が下がっている。


店の奥から、前掛けをした、腕の太い親方が出てきた。無口な人だった。じいさんに軽く顎をしゃくると、作業台の上の布を、黙ってめくった。


革の防具が、二組、並んでいた。


一つは、黒に近い、焦げ茶色。


峠で剥いだ、アーマーベアの腹の皮だ。


胴を前と後ろから包む胸当てと、左の前腕を覆う籠手。脇は、革紐で締めるようになっている。


金具が、一つもなかった。


「旦那に、金具は使うなと言われてな」


親方が、初めて口を開いた。


「留めは、全部、紐と、革の鋲だ。走っても、きしまんように、蝋を引いてある」


着けてみた。


軽い。思っていたより、ずっと軽い。


その場で、腕を回してみた。かがんでみた。跳んでみた。


音が、しなかった。


革のこすれる、かすかな音すら、しない。


「……すごい」


胸当ての、ちょうど胸の真ん中を、指でなぞった。


アーマーベアの爪が、俺の胸を裂いた、そのあたり。


そこを、今度は、アーマーベアの皮が守っている。


なんだか、変な感じだった。


もう一組は、白かった。


雪のような白ではない。少しだけ、生成りがかった、やわらかい白だ。


右手の、肘まである長手袋。それと、薄い胴着。


「こっちも、同じ熊の皮だ。お嬢さんのは、明礬《みょうばん》で鞣した。白なめしだ。手間はかかるが、白い服に合わせるなら、これしかない」


クレアが、長手袋に、そっと右手を通した。


指を、一本ずつ、握ったり開いたりする。それから、腰の細剣の柄を握った。


「……手に、吸いつく」


「剣を受けても、手のひらまでは、響かん」


じいさんが、言った。


「峠で、剣ごと手を打たれたろう。もう、あんな腫れ方はさせん」


クレアは、長手袋の手を、じっと見つめていた。


それから、俺の胸当てを見た。


焦げ茶と、白。


色は、まるで違う。でも、同じ一頭の熊の皮だ。


「……お揃い、ね」


ぽつりと、言った。


言ってから、自分が何を言ったのか、気づいたらしい。


クレアの肩が、びくっと跳ねた。


それきり、何も言わずに、ふいっと、店の外を向いた。


耳が、真っ赤だった。


「代金は」


俺が聞くと、じいさんは、懐を叩いた。


「あの魔石で払う。……それで、もう一か所、寄るところがある」


 ◇


川向こうの広場の外れに、剣と盾を描いた、木の看板が下がっていた。


冒険者組合。


宿場町の酒場で見た、プレートを首から下げた冒険者たちの、あの組合だ。


冒険者登録……!


異世界転生の、お約束イベントだ。


胸が、ちょっとだけ、高鳴った。


建物に入ったら、

酒を飲んでいるモブどもが絡んで来るやつだ。


登録用の水晶玉に手をかざすと強い光が出て、

受付嬢が驚いて悲鳴をあげるやつだ。


ウキウキしながら建物に入る。


中は、思っていたより、ずっと小さかった。


依頼の紙が、べたべたと貼られた板が一枚。長い腰掛けが一つ。


カウンターの向こうで、眠そうな中年の男が、頬杖をついていた。


酒場は、ない。


冒険者の姿も、ない。


いたのは、隅の腰掛けで居眠りしている、猫が一匹だけだった。


(……あれ?)


思っていたのと違う。全然違う。

受付のお姉さんもいない。なんだこれ。


じいさんは、まず、懐から、あの魔石を出して、カウンターに置いた。それから、首から、古びたプレートを引っぱり出して、その横に並べた。鈍い色の、傷だらけのプレートだった。刻まれた文字は、すり減って、俺の位置からは読めなかった。


眠そうな男が、魔石を手に取った。


日にかざす。濁りの奥の、赤い光を見る。


「変異か」


男は、ため息をついた。


「最近、多いね。どこも」


それだけ言って、天秤で重さを量り、銀貨を数え始めた。


数えて、数えて、まだ数えていた。


(……五倍って、こういうことか)


「それと、この二人を登録してくれ」


男は、分厚い帳面を開いた。


「名前」


「カイです」


「天職」


「……暗殺者です」


男は、顔も上げずに、羽ペンを走らせた。


「そっちのお嬢さんは」


「クレア。フェンサー」


男は、ちらりと顔を上げて、それから、また帳面に目を落とした。


「刻み石は、読むかい。銅貨十枚だ」


「要らん」


じいさんが、即答した。


「駆け出しのEに、石もなにもあるまい」


男は、肩をすくめた。それから、カウンターの下から、薄い鉄のプレートを二枚出して、小さな鏨《たがね》で、とん、とん、と名前を刻んだ。


最後に、名前の横に、一文字。


E。


「はい。なくすと、再発行は銀貨一枚ね」


終わった。


水晶玉も、光も、悲鳴も、なかった。


(……地味だ)


冒険者登録、終わってみれば、三十秒だった。


 ◇


納得いかない顔で組合を出ると、

じいさんが、銀貨の袋を、二つに分けた。


一つは、帰りに、革職人の親方の店へ届ける分だ。残りを、さらに二つに分けて、俺とクレアに、一つずつ渡した。


「旅の金だ。半分ずつ持て。一つの財布に入れておくと、すられた時に、全部なくす」


「……はい」


「プレートは、宿でも、関所でも、身の証になる。魔石の買い取りも、組合の者でなければ、買い叩かれる。それに、冒険者なら、どこを歩いておっても、怪しまれん」


俺は、首から下げた鉄のプレートを、指でつまんだ。


薄くて、軽い。


「冒険者ギルドって、あんなにガラガラなんですか?」


「ここモンスターが少ない。そういうところは冒険者も来ないからな。あんなもんだ。水都に行けばギルドも大きいものがある」


そういうことか。


改めてプレートを見る。

刻まれているのは、カイという名前と、Eの一文字だけ。


天職も、技も、どこにも書かれていない。


ここにいるのは、どこにでもいる、駆け出しの冒険者だ。



 ◇


出発は、次の日の朝だった。


俺は、熊革の胸当てを着け、左腕に籠手をはめて、その上から、町で買った外套をはおった。


灰色がかった、濃い紺色の、フードつきの外套だ。夜の森でも、町の人混みでも、目立たない色がいいと、じいさんが選んでくれた。


クレアは、村から着てきた白い旅装に、新しく、銀の小さな肩当てを左肩につけていた。


片掛けの深緑のケープが、その上で揺れている。剣を握る右手には、肘まである、白なめしの熊革の長手袋。


白い上衣の下には、同じ白なめしの、薄い胴着を着こんでいる。

腰には、じいさんに譲られた、青みがかった銀の細剣と、いつもの薬草袋。


二人とも、首には、Eの一文字の鉄のプレートを、服の下にしまっている。


町の入口で、ゼフィルさんが、見送りに出てきてくれた。


マルタさんも、腕を組んで、少し離れたところに立っていた。


「肩をかすらせたまま、終わるつもりはない。帰ってきたら、もう一本だ」


ぶっきらぼうに、そう言った。


「……お手柔らかに」


ゼフィルさんは、俺の手を、両手で握った。


小さくて、乾いた、あたたかい手。


「カイくん」


「はい」


「僕も、明日には、ここを発つんだ。あちこちの書庫を回るのが、僕の仕事だからね」


ゼフィルさんは、にっこりと笑った。


「君には、まだ、聞きたい話が、たくさんある。ニホンの話。かれーの話。妹さんの話。……だから、またどこかで会おう。どこにいても、君の報告は、僕のところに届くからね」


「……はい。必ず」


「僕からも、まだ話したい話がたくさんある。楽しみにしているよ」


「はい」


俺は、頭を下げた。


十五度ではなく。九十度でもなく。


ちゃんと、感謝の気持ちをこめて、深く。


「環《わ》の巡りのままに」


「え?」


「僕たち灯守の挨拶さ。君たちの旅に、幸あれって意味かな」


「ありがとうございます」


俺はもう一度、頭を下げた。


ゼフィルさんは、俺たちが丘の向こうに見えなくなるまで、町の入口で、手を振り続けていた。


 ◇


ミルフェの町を出て、三日目。


左腕の吊り布が外れてから、もう八日になる。まだ重いものは持てないが、指も手首も、ちゃんと動く。背中と肩の傷も、薄い皮が張っていた。


街道は、東へ、東へと、まっすぐに伸びていた。


コレット村のあたりとは、景色が、まるで違っていた。


なだらかな丘が、どこまでも続く。


丘の斜面には、見渡すかぎりの麦畑が広がり、金色の穂が、風に揺れて、波のようにうねっていた。


「きれい。…金色の雲に乗っているみたい」


クレアが、つぶやいた。


「水都では、パンが、高いんでしょ」


「ああ、そうみたいだな」


これだけの麦が、どこへ消えているのか。


その答えが、水都にある。


昼過ぎ、丘の上の、街道の分かれ道に着いた。


道標の石が、一本、立っていた。


右へ行けば、水都。左へ行けば、北の山脈。


「ここで、お別れだな」


じいさんが、足を止めた。


その時だった。


 ◇


空が、急に、暗くなった。


雲が、日を隠したのかと思った。


でも、違った。


風の音が、変わった。ごう、という、地鳴りのような音が、頭の上から降ってくる。


丘の麦畑が、いっせいに、波打った。金色の穂が、一方向に、ばさばさとなぎ倒されていく。


鳥たちが、悲鳴のような声をあげて、四方へ飛び散っていく。


俺は、空を見上げた。


高い。


日本で、空港の近くから見上げた、離陸したばかりの旅客機。ちょうど、あのくらいの高さだ。


そこを、何かが、横切っていた。


最初は、雲の切れ端が、風に流されているのだと思った。


青くて、長い、帯のような雲。


それが、うねっていた。


風に流されているんじゃない。自分で、うねっている。

右へ、左へ。大きな波を描きながら、空を、泳いでいる。


「は?」


蛇だった。


いや。蛇に、四本の短い脚が生えている。

頭には、枝分かれした二本の角。口元から、長いひげが、たなびいている。


翼は、ない。


翼もないのに、空を、まるで水の中を泳ぐように、するすると進んでいく。


翼の生えた西洋のドラゴンじゃない。

掛け軸や、お寺の天井画に描かれている、あの青龍だ。


つまり神龍《シェンロン》だ。いや、違うか。


距離感がバグる。


高度としては、前世で見た、スカイツリーの天辺くらいか。もっと高そうだ。


それにしても、でかい。


その龍は、空を横切る一本の川のように見えた。

頭から尾の先まで300メートルくらいか、もっとあるかもしれない。


その長い体が、うねるたびに、雲が引き裂かれて、渦を巻いた。地上まで届く風が、麦畑を、ばさばさとなぎ倒していく。


空と同じ色をした、青い鱗。日の光を受けて、きらきらと、無数の宝石のように光っている。


龍は、俺たちのことなど、目にも入っていないようだった。


ただ、悠然と、空を泳いでいく。


山を、雲を、丘の上の小さな三人を、まるで川底の小石のように見下ろして。


俺は、息をするのも忘れて、それを見上げていた。


足が、地面に縫いつけられたように、動かなかった。


三本角のビッグボアの前で、足がすくんだのとは、違った。


あれは、恐怖だった。


これは、もっと、別の何かだった。


自分が、どれだけ小さいかを、思い知らされる感じ。


龍の影が、細長い川のように、丘の上を流れていく。


東の空へ。


ゆっくりと、うねりながら、遠ざかっていく。


やがて、その青い尾の先が、雲の向こうに消えた。


空が、明るさを取り戻した。


麦畑が、ゆっくりと、元の形に戻っていく。


 ◇


「……蒼天龍《そうてんりゅう》、ラザリオンだ」


じいさんが、空を見上げたまま、かすれた声で言った。


「神話級の魔物だ。半ば聖霊みたいなもんだという話もある。翼も持たずに空を泳ぎ、何千年も、この大陸の空を巡り続けておる。わしも、この目で見たのは5年ぶりだ」


「神話級……」


「この世界には、ああいうのが、七体いるらしい」


「なぁなぁああ!?」


声が裏返る。


「神話や伝承では、そういう話だ」


いや、実物が目の前を飛んでいるんだが。


じいさんは、ようやく、空から目を離した。


「人の入れん北の大地におるもの、深い海の底に眠るもの。山3つほどの大きさのあるもの。……どれも、人の手でどうこうできるものではない。」


「一匹でも暴れたら、この国の軍でなんとかなるんですか?」


「なるわけない。そうなれば天災・・・というより、天変地異みたいなもんだ。とはいえここ500年ほどは暴れた記録はない。目撃されたのもさっきの蒼天龍を含め3体だけらしい。むしろ見れて幸運だったとも言える。」


マジか・・・。改めてすごい世界に来たもんだ。


クレアが、俺の袖を、ぎゅっとつかんでいた。


自分でも、気づいていないようだった。


俺は、もう一度、龍が消えていった空を見上げた。


峠で倒した、棘だらけのアーマーベアのことを思い出した。


あの時は、死ぬかと思った。三人がかりで、外套を一枚だめにして、ようやく倒した。


あの龍に比べたら。


「……あれに比べりゃ、アーマーベアなんて、子犬以下だな」


精一杯、軽口を叩いたつもりだった。


「膝」


クレアが、ぼそっと言った。


「膝、震えてるわよ」


見下ろすと、俺の膝は、がくがくと、笑っていた。


「……これは、武者震いだ」


「嘘つき」


クレアが、俺の袖をつかんだまま、くすっと笑った。


その手も、まだ、少しだけ震えていた。


「……わたしのも、武者震いだから」


そう言って、クレアは、袖を放さなかった。


怖いのは、お互いさまだった。でも、隣に、同じように震えている手がある。それだけで、膝の震えが、少しだけ収まった気がした。


じいさんが、からからと笑った。


「世界はな、広いぞ、カイ。お前さんが思っておるより、ずっとな」


 ◇


道標の石の前で、じいさんは、俺たちに向き直った。


「クレア」


「うん」


「無茶をするなよ。と言っても、するんだろうがな。お前は、昔から、カイのことになると、まるで聞かん子だった」


「母さんと、同じこと言ってる」


「親子だからな」


じいさんは、クレアの頭を、大きな手で、くしゃくしゃとなでた。


クレアは、嫌がるふりをしながら、されるままになっていた。


それから、じいさんは、俺を見た。


「カイ」


「はい」


じいさんは、しばらく、黙って、俺の顔を見つめていた。


赤ん坊のカイを、最初に抱き上げた人の目だった。


「わしはな、最初、お前さんのことを、カイの体を乗っ取った、得体の知れんものだと思っておった」


「……はい」


「今は、違う」


じいさんは、俺の胸を、杖の先で、とん、と突いた。


徽章をしまってある、そのあたりを。


「お前さんは、カイの代わりではない。カイの仕事を、自分で選んで継いだ、お前さんだ。わしは、そう思っておる」


胸の奥が、熱くなった。


「クレアを、頼む」


「……はい」


返事をしながら、喉の奥が、ひくりと引きつった。


正直に言えば、怖かった。


ダイアウルフの時も、アーマーベアの時も、最後の最後で、このじいさんがいた。頭の中で、どこか、それを当てにしていた。


これからは、いない。


次に詰んだら、助けてくれる人は、誰もいない。クレアを守るのは、俺だ。


本当は、一緒に来てくれと言いたかった。


「それから、お前さん自身もな。死ぬなよ。お前さんが死んだら、わしは、ハンナに一生許してもらえん」


じいさんは、にやりと笑った。


それから、杖をつき、北への道を、歩き出した。


一度も、振り返らなかった。


最後に、杖を高く上げて、一度だけ、振った。


「環《わ》の巡りのままに」


俺たちは、そう挨拶して別れた。


その背中が、丘の向こうに見えなくなるまで、俺とクレアは、道標の石の前に立っていた。


 ◇


「……行こっか」


クレアが、言った。


「ああ」


俺たちは、東への道を、歩き出した。


金色の麦畑の間を、まっすぐに伸びる、街道。


その先に、水都がある。


消えた協力者たち。止められた麦。広がり続ける変異の、波の起こり。


そして、カイが、最後に追いかけていたもの。


俺は、懐の上から、地図の写しと、銀の徽章を、そっと押さえた。


ひと月半ほど前の俺は、棺の中で目を覚ました。


自分が誰の体に入っているのかも、ここがどこなのかも、わからなかった。


ただ、今度こそ、好きなように生きようと、それだけを決めた。


それは、今も、変わらない。


カイの仕事を継ぐと決めたのも。クレアと一緒に、水都へ向かうのも。誰に命じられたわけでもない。


全部、俺が、自分で選んだことだ。


隣を歩くクレアの、結んだ髪が、麦の穂と一緒に、風に揺れていた。


空の高いところで、まだ、蒼天龍の起こした風の名残が、雲を、ゆっくりと流していた。


世界は、広い。


俺が思っているより、ずっと。


「今度こそ、好きなように生きる」


小さく、口に出してみた。


クレアが、怪訝そうに、こちらを見た。


「何か言った?」


「いや。なんでもない」


俺は、前を向いた。


「行こう。水門都市ラグーナへ」




ー序章 転生と旅立ち 終ー

これにて序章は終わりです。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます!


序章では、社畜だったカイの心の成長をテーマに描いてきました。

次章は冒険者としての成長、新たな仲間、そして前任者カイの死と怪異の謎にグッと踏み込みます。


楽しみにしてください^^


また、読者様の面白い「社畜ネタ」や「常識だ。ネタ」があればぜひご提供くださいませ。

無理のない範囲で使わせていただきたいと考えております。


最後に、いつものお願いになりますが、

もし少しでも「面白い!」「続きが読みたい!」と思っていただけましたら、


ページ一番下にある、


【☆☆☆☆☆】を

【★★★★★】にして評価をいただけると、


作者のモチベーションが爆上がります!


ブックマーク登録もぜひよろしくお願いします!


次回は少しお休みをし、一章「水門都市ラグーナ偏」をお届けします。

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