静かな幸福について
その日は、特別なことが何もなかった。
朝、目を覚ます。
カーテンを開けると、薄い雲の向こうから太陽が出ていた。
朝ごはんを食べて、仕事へ行く。
仕事では、いくつか小さなミスをした。
けれど、誰かに怒鳴られることもなかったし、帰る頃にはもう忘れていた。
家に帰ると、母が夕飯を作っていた。
「おかえり」
「ただいま」
それだけだった。
けれど、その「ただいま」を言えることが、最近は少し嬉しかった。
昔の私は、もっと大きな幸せを探していた。
好きな人に愛されること。
人から認められること。
誰かより優れていること。
何か大きなことを成し遂げること。
そういうものを手に入れれば、自分の人生は完成すると思っていた。
だから、人の人生が気になった。
結婚した人。
子どもがいる人。
仕事で成功した人。
友達がたくさんいる人。
誰かが何かを手に入れるたびに、自分には何かが足りない気がした。
けれど、ある日ふと思った。
――私は、いったい誰の人生を生きているのだろう。
その問いを考えているうちに、昔読んだ哲学の本の一節を思い出した。
人生は、他人との競争ではない。
その言葉は、以前の自分には綺麗事に聞こえた。
けれど今は、少しだけわかる。
人生というものは、そもそも競争になっていないのだ。
百メートル走なら、同じスタート地点から走り始めて、同じゴールを目指す。
でも人生は違う。
生まれた場所も違う。
体力も違う。
好きなものも違う。
背負っているものも違う。
そして、目指したい場所さえ違う。
それなのに、他人の速度を見て、
「私は遅い」
と悩んでいた。
考えてみれば、おかしな話だった。
夕飯を食べ終え、自分の部屋に戻る。
スマートフォンを見ると、友達から連絡が来ていた。
『今度またご飯行こう』
私は少し笑った。
昔なら、
「最近あまり誘われないな」
とか、
「私は友達が少ないのかな」
とか、余計なことを考えていたかもしれない。
でも今は違った。
一緒にご飯を食べて、くだらない話をする。
それだけでいい。
人生には、人生を変えるような人だけが必要なのではない。
たまに会って、
「最近どう?」
と聞いてくれる人がいる。
笑いながらご飯を食べられる人がいる。
それだけでも、十分に人生は温かくなる。
窓を開ける。
夜の空気が入ってきた。
私は空を見上げた。
星は少なかった。
昔なら、
「もっと綺麗だったらいいのに」
と思ったかもしれない。
けれど今日は、その少なさがちょうどよかった。
人はどうして、
「もっと」
を求めるのだろう。
もっと美しく。
もっと賢く。
もっと愛されて。
もっとお金を持って。
もっと充実して。
もちろん、向上することが悪いわけではない。
でも、
「今では足りない」
という前提で生き続けると、どれだけ手に入れても、永遠に足りない。
幸福とは、何かを獲得した瞬間に完成するものではなく、
「これでいい」
と思える瞬間なのかもしれない。
私は、今日を振り返った。
朝、起きた。
仕事をした。
家に帰った。
家族とご飯を食べた。
友達から連絡が来た。
夜になった。
それだけ。
でも、それだけの一日を、
「何もなかった日」
と呼ぶ必要はないのだと思った。
むしろ、
「何も壊れなかった日」
だった。
誰かに無理を強いられることもなく、
自分を嫌いになることもなく、
明日が怖くなることもなく、
家に帰れば安心できる。
それは、とても静かな幸福だった。
そして私は、ようやく気づいた。
人生の目的は、
誰かに「幸せそう」と思ってもらうことではない。
自分が、自分の人生を生きていると感じられること。
それだけなのかもしれない。
私は窓を閉めた。
明日も、きっと特別なことは起きない。
でも、それでいい。
人生は、特別な日の集合ではない。
何でもない日を、
「まあ、悪くなかったな」
と思いながら積み重ねていくこと。
その積み重ねの先に、
いつか振り返ったとき、
「ああ、私の人生、結構幸せだったな」
と思えるのなら。
それで十分なのだと思う。
私は明日のために、スマートフォンを置いた。
そして、静かな部屋で目を閉じた。
何者かにならなくてもいい。
誰かに勝たなくてもいい。
人生は、もう始まっている。
そして私は今、自分の人生の中にいる。




