第一話:壊れたファインダー
ぜひお寛ぎください!
視界を支配していたのは、百年分の埃を孕んだ午後の斜光と、朽ちた木枠の匂いだった。
俺__九条神楽は、ファインダー越しにその空間を切り取っていた。
場所は日本の地方にある、とうに打ち捨てられた小さな雑貨屋の跡地だ。
崩落しかけた棚、床に飛び散った硝子片、そして斜めに差し込む光の筋。
弁護士という職業柄、平日は人間の醜悪な利害関係や、紙切れ一枚に縛られたロジックの不備ばかりを相手にしている。
だからこそ、週末のこの時間が俺に必要なのだ。誰の意図も介入せず、ただ時間という不可逆の構造によって風化した「廃墟」の完璧な配置。
カメラのシャッターを切る瞬間だけが、俺の脳を静寂で満たしてくれる。
レンズの焦点を絞り、構図を完璧に定めた、まさにその時だった。
カチリ、と指先がシャッターボタンを押し込む。
だが、聞こえたのは耳慣れた金属音ではなく、もっと低く、重苦しい「蒸気圧が抜けるような異音」だった。
「——ん?」
ファインダーの中の風景が、ぐにゃりと歪んだ。
レンズの歪曲収縮ディストーションではない。空間そのものが、水に落としたインクのようにブレて広がっていく。
光の粒子が立ち上り、鼻をついたのは埃の匂いではなく、強烈な石炭の焦げつく香りと、何か香ばしい薬草の匂いだった。
立ち眩みのような浮遊感の後、足元に伝わったのは乾いた木床の感触。
目を開けると、そこは先ほどまでの日本の廃墟ではなかった。
頭上を這う太い銅製の配管。
そこから「シュシュー」と規則的な排気音を立てて吹き出す白い蒸気。
使い込まれたカウンターと、真鍮製の複雑な歯車が組み込まれた見たこともない巨大な珈琲抽出機サイフォン。
俺は自慢のカメラを首から下げたまま、静かに呼吸を整えた。
心拍数は通常通り。脳の混乱を論理的に整理する。
第一に、ここが日本の廃墟ではないこと。
第二に、この空間には現在進行形で誰かの生活が存在していること。
そして第三に——目の前で、目玉を飛び出さんばかりに見開いている一人の老人がいることだ。
「……なるほど」
俺は呟き、スーツの胸ポケットからハンカチを取り出してレンズを拭いた。
パニックを起こしても状況の解像度は上がらない。事実を事実として受け止めるのが、弁護士としての、そして写真家としての基本姿勢だ。
老人は、擦り切れたエプロンを身につけていた。
白髪混じりの髭を蓄え、手には真鍮のパーツと細いドライバーを握っている。
年齢は60代前後といったところか。
手元のタコと姿勢の深さから、長年細かな作業に従事してきた職人だと推測できる。
老人は口をぐにゃぐぐにゃと動かし、俺に向けて声を上げてきた。
「ゼ・グラント……!? ヴォル・ル・ク・シー・ラ!?」
聞いたこともない音韻だ。
ゲルマン系でもロマンス系でもない。俺は静かに首を振り、ポケットから名刺入れを取り出して見せた。
「日本語は通じないか。英語は? ——まあ、期待はしていなかったが」
俺の名刺を見た老人は、怪しむ素振りを見せつつも、俺の仕立てのいいスーツと、手に持ったカメラという未知の精密機械を観察した。
老人の眼光には、異物に対する強い拒絶ではなく、熟練の学者が持つような深い知的探求心が宿っている。
老人は深々と溜息をつくと、煙管キセルに火をつけ、紫煙を燻らせた。
そしてカウンターの奥から一冊の分厚い皮押し本と、羊皮紙を取り出してきた。
これが、俺とオルド・ジョセフという老人との出会いであり、異世界『蒸鋼都グラントヴァル』における俺の新たな日常の始まりだった。
楽しんでいただけたのなら幸いです!




