「向いてない」と言われた小説を書き続けて、今思うこと
「自分実は、小説書くのに向いてないな」
それに気づいたのは、結構最近のこと。
何故なら、私の世界は文字でできていない。
映像で見る世界を言葉に翻訳している、というのが正しいか。小説にせよ仕事にせよ、人が優れていると見がちなのは『結果と言語化』だ。
言葉とはスマートでなければならない。
文字にする時、最適化が求められる。
それが結局、成果という形で表出する。
一般的な考え方は、そういうことだと思う。
だからあの言葉もすごく正しいと思う。
あの言葉というのは、ある人のアドバイス。
それはなろう新人だった自分が言われた事。
「異世界、向いてないからやめた方がいいよ」
これが青天の霹靂だったのは、自分の事をまだここまで理解しておらず、しかも言われた相手が他でもない書籍化作家様だったからだ。
このアドバイスは完全な善意だ。
たまたま彼の目に止まったから貰った。
とても丁寧なアドバイスだった。
言われた事を全部は覚えていない、なにせもう7年くらい前の話だ。たしか現代の方があってそうとか、キャラの口調が正しくないのではないか、ということだったと記憶している。
正直、世間的には正解だったのだと思う。
何故なら私は整合性を取るのが下手だ。
それを言葉にする時はもっとそう。
全てを映像で見ている私は、それに筆が追いつかない時もあるし、突然降ってくるそれに対応できない時もある。どの視点でも見られる分、視点がブレまくる、情報過多、キャラの違和感を感じづらいなどがある。
それはつまり、小説を書く、文字に落とし込むということには向いてないかもしれないということの裏付けにもなる。
それでも何故書き続けるかなんて。
答えは簡単! 自分が書きたいから!
自分の小説は自分の我儘で自己満足だから!
以上!!!!!!!!!!!!!
……と片付けると、説明が足りないと普通の人は思うんだろう。(これがまさに言語化下手)
今この頭の中では、理由がふんわり漂って映像になったりしながら、言葉にはならずに消えていっているのを繰り返している。そのまま言えばいいと思うかもしれないけれど、言葉になっていないものを言葉に落とし込むのは難しい。
自分は要領が悪い。
文を読む時も必ず音声が頭で流れる。
動画を切っても音声は切れない。
なんなら動画再生は再開される。
当たり前だけれど、PCなら文字ファイルより音声データが重く、写真や動画はもっと重い。それを処理しながら動かすPCは結構性能が必要で、物によってはカクカクすると思う。
多分、自分の頭もそうだと思う。
動画を見て、文字に落とし込もうとして。
処理落ちして、不備が出ていたのだろう。
しかも異世界ともなればさらに想像力が必要になる。それはとても要領が悪いことで、処理能力の高い人には落ち度しかみえない。ていうか、こんなもん誰にもわかるわけないけど。
人が見えてるものは同じとは限らない。
それを伝えるために言葉はできた。
それを使いこなせる人は優れている。
そして、それをたくさんこなせる人が優れている——現状のなろうは、そういう場所だ。戦略的にたくさん量産して、ウケなければ捨てて、次に行ける人の方が社会的成功は早いだろう。
実際、アドバイスをくれた人もそんな感じのことを言っていた。
自分が書籍化した作品は、狙って書いたのだと。ありそうなニーズでまだ出てない部分を抽出し、書いているのだと。すごく仕事できそうだなと思いました(小並感)
それはとても知的で、効率的で、世の中的に正しいことなのだろうと思った。
でも、フィーリング派の自分は思ってしまった——「それ、小説書いてて楽しいんか?」と。
なんだろう。
目的が自分とは違うんだろうと思った。
正しいけれど、それはその人の正解だと。
自分は自分が楽しく書きたい。書きたいことを書きたい。その上で上手くなれれば嬉しいし、誰かが読んでくれたらもっと嬉しい。楽しませられるというのは素晴らしいことだと思う。
でも小説や読者をただの承認欲求やお金稼ぎの駒のように見てしまうのは抵抗がある。
伝わればいいなと思って言葉を使っている。
あわよくば読んでくれたらそれは嬉しい。
だけど、それらが第一目的ではない。
うーん、なんだろ。価値って、社会的に認められるそこだけじゃないよね? って思う。別にそう思っていても構わないけれど、自分はそう思うなって思った。ある程度自分軸なんだよな。
世の中にはいろんな人がいて、世界が文字で見えている人もいるのだという。
言語思考とか言うらしい。頭で考える時も映像より写真、なんならそれすら出ずに、全部文字で考えて音なんか流れた事ないと、小説を書く同僚が言っていた。
ちなみにその同僚は絵も描くのだけれど、その絵が頭に浮かぶことはないらしい。自分にはわからない。どうやって描いているのか想像できない。自分はパッと頭に浮かぶものを描くし書く。
「自分の書くものは新しい発見などない、なぜなら全てわかっていることだから」と言っていた。それも私にはわからない。私は書いてる途中で主人公が勝手に動くし、勝手に発言する。
同僚は「そんな人がいると思っていなかった。新しい発見があるなんて羨ましい」と言った。自分は整合性の取れる同僚が羨ましいけれど、同時に新しい発見を楽しみにしてることにも気づいた。
そうだ、自分は発見を見たい。
文の中で息づくキャラの成長を見たい。
自分の知らない世界を見てみたい。
だから小説を書いているのだと、最近言葉にできるようになった。(気がする)
自分が言葉を使う時は、発見の時だ。
何かを探している時だ。
だから未熟な時もあるなと感じる。
でもそれは、社会的に評価されないと言うだけで捨てるには、ちょっと惜しい時がある。
そんな風に小説を書いている気がする。
これは作者側のワガママな話だ。
普通、完璧な完成品を出すべきだろう。
でもそれが許されるのも、WEB小説サイトというものではないかと考えてしまう。
だってプロじゃないんだから。
載せる時お金をもらってやってはいない。
ここでは趣味として、みんな載せている。
だからたまには自分のような下手の横好きが、変わり種が、そこら辺に落ちていたって構わないだろうと思う。
それを言語化できないまま続けて、今年は8年目だしそのうち150万字いきそうな感じになっている。(たしか今は148万字くらい?)それだけ書いていれば、いやでも成長もあるし。気になった時に改稿したりもしている。
「やめた方がいい」と言われたその小説は、ブクマ1000を超える。まぁ上を見ればキリがないけれど、捨てればよかったのにと言われるほど読まれていないわけでもない気がする。
そう、「やめた方がいい」と言われるような作品でも、自分の好きを続けたら案外読んでくれる人はいる。
それは自分の中に書きたいものがあるから。
その軸自体はブレてないから。
それがなんとなく伝わってるからかも?
まぁなんとなくじゃダメだし、改善はしていくべきだ。だけど個人的にはやめなくてよかったかなと思っている。少なからず楽しんではもらえてるようだし。
今年完結できるかなーと思っていて、その時もしちょっとでもポイントが増えたなら、それはやっぱり、社会的評価のような要素で考えても無価値というほとではないかなーと思う。まだわからないけれど。
数字を見るのは楽だし、見える事実だ。
決して無視していいものでもない。
面白いのひとつの指標ではあると思う。
でもやっぱり、それはひとつの指標でしかないとも思う。
言い訳にしか聞こえない人もいると思う。それならそれでも構わない。それはその人の価値観であって、自分の価値観とは別のものというだけだから。
小説は文字で書く。
その時点で人に伝えるためのもの。
だから楽しんでもらうべきなのはそう。
書籍化ポイント重視は、そういう意味で正解。
でもそれは社会的な正しさの話なので、そうなったらもちろん嬉しいとは思うけれど、それが目的にはしたくないなと感じる。
あくまでマイペースに自己中に、独自の世界観を作り上げていけるところも、WEB小説のいいところなのではないだろうか?
一辺倒の味付けはいつか飽きる。社会的正解は、味付けの均一化なのではないか——。
まぁ、その味変になれるかはわからないけれど、たまには変わったものを食べたい人もいるし。向いてなさも味になる時があるかもしれない。そんなポジティブシンキングで、自分は下手の横好きを続けている。
この話の同僚は左右盲の方向音痴なのですが、絵で考えるのができないせいもあるのかもしれない(蛇足)




