その49 「私用」
ロッテちゃんあんまりオジサンを目の敵にしないであげてね
エレノアはホテルを出た。
”私用”である。
そう告げた瞬間、佐伯悠馬の脳が停止したのを見た。
……休日の上司は扱いに困る。
彼は平日も困っているが。
空は澄んでいた。
ドイツの朝は静かだ。
ノア卿がいないだけで、世界は驚くほど平和になる。
平和すぎて、少し怖い。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
目的地は決まっている。
『シャーロッテ・フォン・ヴァイスハルト。』
娘のロッテ。
十七歳。
処す気満々。
昨夜の視線は、十分に鋭かった。
若いというのは時に刃物だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
待ち合わせは市内の小さなカフェだった。
ロッテは先に座っていた。
姿勢が良い。
目が強い。
父親に似ている。
「ママ」
ロッテは立ち上がらずに言った。
「おはよう」
「おはようございます」
礼儀はある。
殺意もある。
エレノアは席に座る。
「昨夜はありがとう。参加してくれて」
「……参加というより、監視」
「言葉を選びなさい」
ロッテは鼻で笑った。
「選んでる」
選んでこれである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
飲み物が運ばれてくる。
ロッテは紅茶。
エレノアも紅茶。
沈黙が落ちる。
先に切ったのはロッテだった。
「ママ」
「なに」
「あのウサギ」
エレノアは瞬きした。
「……ロッテ」
「ウサギ」
「佐伯さんです」
「ウサギ」
譲らない。
エレノアは淡々と訂正した。
「失礼よ?」
ロッテは肩をすくめる。
「失礼なのは向こう」
「何が」
「存在」
処す気満々である。
エレノアはため息をついた。
「ロッテ。あの方は――」
一拍。
「ママのボスなのよ」
ロッテの顔が歪む。
「……ママが従うの?」
「仕事です」
「仕事なら処していい?」
「処さない」
即答だった。
ーーーーーーーーーーーーーー
ロッテは少し身を乗り出した。
「ママ。あのウサギ、好きなの?」
直球で来た。
エレノアは紅茶を一口飲んでから答えた。
「違うわ」
「じゃあ何」
「面白いだけ」
ロッテが固まる。
「……面白い?」
「ええ」
エレノアは淡々と言う。
「肩書きほど華やかではない。静かで、妙に真面目で、少し変わっている」
「褒めてる?」
「観察しているだけ」
ロッテの顔が歪む。
「観察対象が隣に立つの?」
「隣に立っていません」
「立ってた」
「仕事です」
「仕事なら処していい?」
「ダメ」
二回目である。
ロッテは納得していない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
エレノアは一度、話題を変えた。
「ロッテ」
「なに」
「そろそろアビトゥーアでしょう」
ロッテの眉がわずかに動く。
「……そうね」
「進学はどう考えているの?」
ロッテは紅茶を見つめた。
十七歳の沈黙。
「進学……よね」
当たり前の言葉が、少し重い。
エレノアは淡々と続ける。
「あなたはイギリスに行くと言っていたでしょう」
「言った」
「変わらないの?」
「変わらない」
即答だった。
ロッテは顔を上げる。
「ママの国だから」
「……それだけ?」
「それだけじゃない」
ロッテは言い切ってから、少しだけ黙った。
そして心の中で考える。
(イギリス)
(オックスフォード)
(あのウサギ)
昨夜、壁際にいた男。
肩書きは華やかなはずなのに、本人は驚くほど地味で、胃が痛そうで。
でも。
オックスフォードの卒業生。
取引先の頂点。
ママのボス。
(……そうか)
ロッテの目が細くなる。
(そういう手もあるかも)
処すだけじゃない。
近づくという手も。
敵を知る必要がある。
ロッテは静かに微笑んだ。
エレノアはそれを見て、嫌な予感がした。
「ロッテ」
「なに」
「余計なことはしないで」
「してない」
もうしている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
外に出る。
街は穏やかだ。
その穏やかさの裏で、噂は育っているのだろう。
奥様方の通信速度は国境を越える。
エレノアはそれを気にしない。
今気にしているのは娘の刃だ。
「ママ」
ロッテが言う。
「ウサギは論外だから」
「論外にしないで」
「処す」
「処さない」
母と娘の会話は平行線だった。
エレノアは歩きながら思う。
(佐伯悠馬は、不思議な人だ)
書類の上では完璧なのに、本人は壁際で胃を押さえている。
興味深い。
それだけだ。
今は。
ここまで読んでくださってありがとうございます!
『佐伯悠馬の結婚事情(仮)』始まりました。
結婚する気がない男の結婚事情(仮)です。
相変わらず周囲がうるさく、悠馬の胃が忙しいです。
更新はのんびりですが、完結まで書いていく予定なので
よかったらまた覗いてください。
感想・フォロー等とても励みになります!




