その35 「違和感」
悠馬君地獄の10日間の始まりです
朝七時。
ロンドンの空はまだ薄暗かった。
悠馬はスーツケースを引きずりながら、
フラットの玄関を出た。
眠い。
胃が痛い。
いつも通りだ。
だが今日は質が違う。
十日。
長い。
長すぎる。
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迎えの車は既に止まっていた。
運転手が礼をする。
「おはようございます、佐伯様」
「……おはようございます」
悠馬は反射で返した。
乗り込もうとして、
ふと視界の端に動く影が見えた。
道路の向こう。
建物の陰。
誰かが立っている。
……ノアだ。
こんな早朝に?
なぜ?
フラットの前に?
悠馬が目を細めた瞬間。
ノアが拳を握りしめた。
そして。
ガッツポーズをした。
”満面の笑み”で。
「……」
悠馬は固まった。
(何を喜んでいる)
(何を達成した顔なんだ)
(頼むからやめてくれ)
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だが時間がない。
運転手がドアを押さえている。
悠馬は胃を押さえながら車に乗り込んだ。
後ろでノアが親指を立てた気がした。
最悪である。
空港へ向かう車内。
エレノアは既に座っていた。
黒いコート。
整った髪。
完璧な平常運転。
「おはようございます」
「……おはようございます」
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エレノアは手帳を開きながら言う。
「搭乗まで四十分あります」
「……はい」
「到着後、そのままホテルへ」
「……はい」
「午後に先方との顔合わせ」
「……はい」
悠馬は頷く機械だった。
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ドイツに降り立つ。
空気が違う。
言葉が違う。
街の匂いが違う。
当たり前だ。
海外なのだから。
でも。
違和感はそれだけではなかった。
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迎えの車。
格式の高いホテル。
スイート。
”十日”。ー
胃が鳴く。
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部屋に入る。
窓の外に街並み。
整いすぎた室内。
静かな高級感。
ここで十日。
胃が耐えるわけがない。
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エレノアが荷物を置きながら言った。
「午後まで少し時間があります」
「……はい」
「休めるうちに休んでください」
優しい。
優しいのが怖い。
悠馬は頷いた。
そして思った。
これは仕事だ。
仕事のはずだ。
なのに。
何かが――
最初から少しだけ噛み合っていない。
窓の外の空は青い。
しかし悠馬の胃は曇っていた。
そして彼はまだ知らない。
このホテルが、
“取引先”だけの場所ではないことを。
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一方その頃。
ロンドン。
いや。
正確には火薬工場。
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ノアは静かに机に向かっていた。
珍しく真剣な顔だ。
周囲が見ればこう思うだろう。
(やっと反省したのか)
違う。
全く違う。
夏休みだ。
子供たちは暇を持て余し始めた。
屋敷の庭は広い。
広いが。
広いからといって全てが解決するわけではない。
走る。
叫ぶ。
芝生が死ぬ。
ルイスが泣く。
ノアは思った。
夏休みと言ったら。
そう。
「バカンス」だ。
もうお気づきだろう。
子供「達」を連れたノアは、
ある計画を立てていた。
『ドイツ旅行』
もちろん周りには秘密で。
もちろん兄さんには内緒で。
もちろん最悪のタイミングで。
ノアはにこにこしながらチケットサイトを開いた。
「サプライズって大事だよね」
火薬工場にガソリンを撒きながら。
ここまで読んでくださってありがとうございます!
『佐伯悠馬の結婚事情(仮)』始まりました。
結婚する気がない男の結婚事情(仮)です。
相変わらず周囲がうるさく、悠馬の胃が忙しいです。
更新はのんびりですが、完結まで書いていく予定なので
よかったらまた覗いてください。
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