その35 「事後報告」
悠馬君の地獄の10日間前夜です
翌日の夕方。
悠馬は胃を押さえながらフラットに戻った。
戻ったというより、
荷物を置きに来ただけだった。
生活は相変わらず破綻している。
整っているのは仕事だけだ。
そして胃薬の在庫。
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玄関の鍵が回る音。
中は静かだった。
静かすぎて怖い。
でも。
キッチンの灯りがついている。
「おかえりなさい」
淡々とした声。
エレノアだった。
悠馬は反射で背筋を伸ばす。
「……ただいま、です」
仕事相手にただいまもおかしい。
だが言ってしまった。
エレノアは手を止めずに言う。
「夕食は軽めにしてあります」
「……ありがとうございます」
優しさが怖い。
整えられると落ち着かない。
自分の生活に他人が入ってくる感覚。
まだ慣れない。
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悠馬は一拍置いて切り出した。
言わなければならない。
逃げても決定事項は消えない。
「その」
エレノアが視線を上げる。
「はい」
「……ドイツ出張の件なんですが」
声が少し固くなる。
胃が縮む。
エレノアは驚かない。
驚くはずがない。
秘書とはそういうものだ。
「伺っています」
即答。
怖い。
「叔父上が」
一拍。
「……明日行けと」
「はい」
「それで」
悠馬は言葉を探す。
探すが、胃が邪魔をする。
「同行が必要だと」
エレノアは穏やかに頷いた。
「当然です」
当然。
当然で片付けないでほしい。
「……秘書同伴で、と」
「はい」
淡々。
平常運転。
悠馬だけが揺れている。
エレノアがふと手を止めた。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
視線が遠くなる。
「ドイツの取引先……」
小さな独り言。
悠馬は聞き返せなかった。
聞いたら何かが崩れる気がした。
しかし。
次の瞬間。
彼女はいつもの顔に戻った。
仕事の顔。
整える人の顔。
「滞在は十日ほどです」
「……え?」
悠馬の声が裏返った。
「と、十日?」
三泊四日じゃないのか。
普通、出張はそんなものだろう。
胃が追加で痛くなる。
エレノアは首を傾げた。
「先方が長めに、と」
一拍。
「現地で詰める案件が多いそうです」
さらり。
当然のように。
「叔父上が……?」
「はい」
決めた。
最初から。
逃げ道など最初から存在しない。
エレノアは淡々と続ける。
「ホテルは先方指定です」
「……え?」
「資料は既にまとめました」
早い。
早すぎる。
「視察と会食が複数入っています」
多い。
胃が死ぬ。
悠馬は固まった。
「……いつの間に」
エレノアは少しだけ首を傾げる。
「仕事ですから」
その一言で全てが終わる。
悠馬の胃も終わる。
彼女は続けた。
「パスポートはお持ちですね」
「……はい」
「スーツは三着」
「……はい」
「薬も忘れずに」
「……はい」
胃薬まで把握されている。
怖い。
完璧すぎて怖い。
悠馬は思った。
これは出張ではない。
搬送だ。
しかも長期の。
その夜。
悠馬が帰宅した時には、
すでに机の上に封筒が置かれていた。
航空券。
ホテルの詳細。
先方のアポイント。
十日分の予定表。
ぎっしり。
胃がきゅっと鳴いた。
そして小さく添えられたメモ。
『明朝七時に車が参ります』
悠馬は封筒を見つめた。
逃げ道はない。
準備は整っている。
整いすぎている。
エレノアはキッチンで食器を片付けながら、
何でもない声で言った。
「では、明日もよろしくお願いいたします」
「……はい」
悠馬は頷いた。
頷くしかなかった。
悠馬はまだ知らない。
その十日間が、
仕事の顔をした“過去”の領域だということを。
ここまで読んでくださってありがとうございます!
『佐伯悠馬の結婚事情(仮)』始まりました。
結婚する気がない男の結婚事情(仮)です。
相変わらず周囲がうるさく、悠馬の胃が忙しいです。
更新はのんびりですが、完結まで書いていく予定なので
よかったらまた覗いてください。
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