その27 「耳に入れるな」
大体ノアのせい
距離が変わった。
ほんの少し。
ほんの少しだからこそ、
悠馬には致命的だった。
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「佐伯さん」
エレノアの声はいつも通り落ち着いている。
「本日の確認事項です」
「……ありがとう」
書類を受け取る。
指が触れそうで触れない。
触れないまま終わる。
最近、それが増えた。
彼女は淡々と整える。
冷蔵庫。
予定。
生活。
胃薬の補充。
完璧だ。
完璧すぎて怖い。
そして最近、
完璧の中に一枚だけ壁がある。
見えない壁。
踏み込まない壁。
悠馬は理由を知っている。
たぶん。
ルイス。
夏休み。
職場。
噂。
火山。
でも本人には届いていない。
届かないように皆が避けている。
優しさなのか、
恐怖なのか。
エレノアがふと立ち止まった。
「明日の打ち合わせですが」
「はい」
「先方の同席者に、ご家族がいらっしゃるそうです」
一拍。
悠馬の胃が縮む。
「……家族」
「ええ」
エレノアは穏やかに微笑んだ。
「世の中、色々ありますから」
色々の中に全部入っている気がした。
事情。
立場。
過去。
火山。
悠馬は何も言えなかった。
昼。
ノアは託児スペースへ向かう途中だった。
ルイスの迎え。
それだけだ。
それだけのはずだった。
休憩室の前を通りかかった時、
中から声が聞こえた。
ひそひそ。
笑い混じり。
軽い。
軽いから刺さる。
「……今日もいるよね」
「いる」
「夏休みって便利だなあ」
「でもさ」
一拍。
「最近、エレノアさん距離置いてない?」
ノアの足が止まった。
「置いてる」
「ちょっと丁寧になったよね」
「佐伯さん、胃が死んでる顔してる」
「そりゃそうでしょ」
別の声が続く。
「ルイスが毎日いるじゃん」
「もう“家族”じゃん」
「甥って言ってるけどさ」
「甥でここまで常駐する?」
空気が一段落ちた。
「……結局、事情ありなんじゃない?」
「事情って?」
「ほら」
一拍。
「表に出せないやつ」
最悪の濁し方。
「佐伯さんってさ」
「一回、急に噂消えた時期あったよね」
「え?」
「有能嫁探しがどうとか言われてた頃」
「エドワード卿が騒いでたやつ?」
「で、突然終わった」
「……ああ」
もっともらしい接続。
事実は全部ズレている。
「だからさ」
誰かが小さく言う。
「子供が絡んでたんじゃない?」
「うわ」
「それで今さら職場に連れてきてる?」
「後継者教育って名目で?」
勝手に整う。
最悪だ。
「ノア様がやたら協力的なのもさ」
「兄弟愛っていうより執着だよね」
「好きすぎて妹さんと結婚したって噂もあるし」
「最悪じゃん」
笑い声。
軽い声。
軽いまま地獄を作る声。
「エレノアさんも大人だから」
「踏み込まないんじゃない?」
「巻き込まれたくないよね」
「そりゃ距離取るわ」
結論だけが正しそうに見える。
ノアは、そこに立っていた。
知らずに全部聞いた。
呼吸が一拍遅れた。
視界が冷える。
一拍。
(兄さんに聞かせるな)
脳がそれだけを結論にした。
兄さんの胃が死ぬ。
兄さんの心が死ぬ。
兄さんの人生が死ぬ。
ノアの中では国家危機である。
ノアは踵を返した。
音を立てない。
笑顔も戻さない。
廊下を歩きながら拳を握る。
「僕が何とかする」
小さく呟いた。
最悪の決意だった。
ノアが動く時、
火山は必ず噴火する。
その日の夕方。
悠馬はまだ何も知らない。
胃薬を飲みながら、
淡々と仕事を片付けていた。
背後で火薬工場が起動しているとも知らずに。
ノアはスマホを取り出した。
連絡先を開く。
最初に押したのは――
「蘭」
発信。
ここまで読んでくださってありがとうございます!
『佐伯悠馬の結婚事情(仮)』始まりました。
結婚する気がない男の結婚事情(仮)です。
相変わらず周囲がうるさく、悠馬の胃が忙しいです。
更新はのんびりですが、完結まで書いていく予定なので
よかったらまた覗いてください。
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