その16 「へぇ……あなたって(誤解)」
大体ノアのせい
噂は、耳に入る。
どれだけ遮断しても。
どれだけ無視しても。
会社という場所は、そういう場所だ。
僕が休暇明けに出社してから三日。
視線はまだ妙に優しい。
席の近くを通る社員の声がやけに小さい。
「……お子さん、可愛いですね」
「……似てますよね」
似ているのは事実だから余計に胃が痛い。
僕は仕事に戻ろうとした。
戻れば忘れられる。
そう思っていた。
甘かった。
エレノアが、いつものように淡々と資料を置いた。
「佐伯さん」
「はい」
「確認です」
確認。
その言葉だけで胃が縮む。
「来週の現場、ノア卿が行くと」
「はい。行かせます」
「“行かせます”」
復唱される。
怖い。
エレノアは淡々と続けた。
「それと」
一拍。
「社内の噂が、少々」
来た。
僕は固まった。
「……噂」
「はい」
エレノアは書類を揃える手を止めない。
目も上げない。
淡々とした声。
それが一番怖い。
「佐伯さんに“隠し子”がいて、ノア卿が引き取っている、と」
僕は死んだ。
「違います!!!!」
即答。
声が裏返った。
オフィスの数人が振り向いた。
最悪だ。
エレノアは静かに瞬きをした。
そして。
「へぇ……」
小さく。
静かに。
口角が、ほんのわずかに上がる。
笑った、というより。
確信した、みたいな。
「……あなたって」
一拍。
「……ふふ」
やめてください。
僕は必死に言った。
「本当に違うんです」
「そうですか」
淡々と返される。
信じていない。
絶対信じていない。
「ルイスは甥です」
「はい」
「妹の子です」
「はい」
「だから血縁です」
「はい」
はい、が怖い。
「ですが、僕の子ではありません」
「はい」
はい、が冷たい。
僕は焦って追い打ちをかけた。
余計なことを言えば言うほど怪しいのに。
「そもそも僕、そういう関係を持つ時間が」
やめろ。
「ないですし」
やめろ。
「そういう相手も」
やめろ。
「いませんし」
墓穴。
完全に墓穴。
エレノアがふっと笑った。
「……なるほど」
その“なるほど”は、全然なるほどじゃない。
僕は呻いた。
「納得しないでください」
エレノアは小さく息を吐いた。
「……まぁ」
その一言が嫌だった。
嫌な予感しかしない。
「佐伯さんの年齢も考えると」
一拍。
「“そういうこと”もありますよね」
僕は死んだ。
「違います」
「はい」
はい、が優しい。
優しいのに刺さる。
「立場的なご事情もお有りでしょうし」
「ありません」
「表に出せないことも、あるでしょうし」
「ないです」
「責任のある立場ですし」
「違います」
全部違う。
なのに。
エレノアは小さく息を吐いた。
そして。
とどめを刺した。
「……佐伯さん」
「はい」
「私も以前の結婚で子供がおりますから」
空気が止まった。
僕は完全に固まった。
エレノアは穏やかに続ける。
「ご事情は、理解いたします」
理解するな。
理解しないでくれ。
僕は呻いた。
「エレノアさん、それは」
「大丈夫です」
大丈夫ではない。
エレノアは淡々と微笑む。
「踏み込みません」
その優しさが一番残酷だった。
「大人ですから」
大人が一番怖い。
その時。
背後から声がした。
「兄さん!」
ノアだ。
最悪のタイミング。
ノアはいつもの笑顔で近づいてくる。
「何してるの?」
「殺すぞ」
「怖」
ノアが笑い、エレノアを見る。
「あ、エレノアさん。昨日ぶりです」
「昨日ぶりですね」
「兄さん、ちゃんと説明した?」
「黙れ」
「噂のこと?」
「黙れ」
ノアは楽しそうに言った。
「兄さん、今社内、盛り上がってるよ」
「殺すぞ」
エレノアが静かに言った。
「ノア卿」
「はい?」
「あなたは随分と楽しそうでしたね」
ノアが固まった。
「兄さんの噂で」
「い、いや」
「兄さんが倒れたことも」
「……」
「“面白かった”と」
ノアの膝が少し沈んだ。
エレノアは淡々と続ける。
「もし仮に」
一拍。
「佐伯さんに事情があったとして」
事情などない。
「それを面白がるのは」
一拍。
「最低です」
ノアが撃沈した。
完全に。
「……はい」
ルイスが走ってきた。
「悠馬おじさん!!」
僕の腹に突撃。
「ぐっ……!」
そして。
エレノアを見上げる。
「奥さん!」
「違います」
エレノアが即答した。
即答したが。
その目がほんの少しだけ笑っている。
「へぇ……」
またそれだ。
僕は胃を押さえた。
世界は今日も、僕を殺しに来ている。
ここまで読んでくださってありがとうございます!
『佐伯悠馬の結婚事情(仮)』始まりました。
結婚する気がない男の結婚事情(仮)です。
相変わらず周囲がうるさく、悠馬の胃が忙しいです。
更新はのんびりですが、完結まで書いていく予定なので
よかったらまた覗いてください。
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