その15 「ノアへのお仕置き(そして噂は育つ)」
いくつになっても噂に翻弄される悠馬君
悠馬が休暇を取った。
正確には。
取らされた。
倒れたからだ。
現場の白い視界。
遠のく音。
床に落ちる感覚。
四十二歳の体は、二十代のようには戻らない。
僕はそれを、ようやく理解した。
理解したくなかったが。
理解させられた。
そして。
僕が倒れた瞬間、隣にいたのはノアだった。
弟は土下座をした。
床と一体化して謝った。
その姿が滑稽で、腹立たしくて。
少しだけ本気で怖かった。
僕は思った。
このままでは死ぬ。
胃が、ではない。
社会的に、ではない。
本当に。
身体が。
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休暇前日。
僕はオフィスでノアを呼び止めた。
「ノア」
「なに、兄さん」
いつもの軽い声。
いつもの余裕。
爵位を継いだ男の余裕。
現場に行かなくても回る立場の余裕。
全部、僕が回してきた余裕。
僕は静かに言った。
「任せる」
ノアが瞬きをした。
「え?」
「現場」
「え?」
「担当」
「え?」
「全部」
ノアの顔が引きつった。
「兄さん、冗談だよね」
「冗談で六年放置された側が冗談を言うと思うか」
「……」
僕は淡々と続けた。
「リモートでできることはやる」
「兄さん優しい」
「優しくない」
「じゃあ?」
「最低限だ」
ノアは喉を鳴らした。
「兄さん、休むの?」
「休む」
「本当に?」
「倒れた」
「……はい」
ノアは珍しく素直だった。
僕は最後に釘を刺す。
「現場に行け」
「……行く」
「逃げるな」
「逃げない」
「泣くな」
「泣かない」
泣きそうな顔だった。
お仕置きだ。
当然だ。
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悠馬がいない現場は、地獄だった。
初日でノアは理解した。
遠隔で済む仕事など、半分もない。
現場は生き物だ。
人が動く。
怒鳴る。
泣く。
責任が落ちてくる。
書類ではなく、体で受ける。
ノアは午前中で胃を押さえた。
(兄さん、これを……?)
兄さんが倒れるまで背負っていたもの。
自分が笑っていたもの。
ノアは少しだけ顔色を失った。
でも。
人間は最低だ。
次に思ったのはこうだった。
(でも)
(息子を連れてきたい)
最低だ。
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「上司が先例を作らないとね」
ノアは爽やかに言った。
名目は福利厚生。
実態は私欲。
ノアは幹部会議で堂々と宣言した。
「子育て世代が働きやすい環境を整えます」
役員が顔を上げる。
「急にどうした、ノア卿」
「必要でしょう」
立派だ。
立派すぎる。
誰もが感心する。
ノアは続けた。
「子供を連れて来れるスペース」
「簡易保育士の手配」
「育児部屋」
「上司が先例を作らないとね」
完璧な建前。
完璧な私欲。
息子を連れ歩きたいだけだった。
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そして。
午後。
ノアは息子の手を引いて現場に現れた。
「父上、ここどこ?」
「地獄」
「地獄?」
「地獄」
親子の会話ではない。
だがノアは真顔だった。
そして。
ルイスの顔は悠馬だった。
社員が固まる。
「……佐伯さん?」
「え?」
「小さい……?」
「え?」
ノアがにこやかに言った。
「違いますよ」
一拍。
「僕の息子です」
社員が混乱する。
「え、でも顔が」
「似てますよね?」
ノアは嬉しそうだった。
最低だ。
「兄さんに似てるんです」
社員の脳が爆発した。
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翌日。
噂は育つ。
会社というのはそういう場所だ。
「聞いた?」
「何が?」
「佐伯さんに隠し子がいるって」
「え?」
「ノア卿が引き取ってるらしい」
「いやいや、まさか」
「顔が瓜二つだったって」
「……でもさ」
別の声が入る。
「年齢、七歳くらいだったよね?」
「うん」
「逆算するとさ」
一拍。
「ちょうど佐伯さんが“嫁探し”やめた頃じゃない?」
空気が止まる。
そして。
「……あ」
「……あー……」
「え、怖」
妙に筋が通ってしまう。
佐伯悠馬は有能で、真面目で、私生活が謎。
突然、社交から距離を置いた時期がある。
噂の栄養には十分だった。
「しかもさ」
さらに声が続く。
「ノア卿、急に言い出したじゃん」
「何を?」
「子供を職場に連れて来れる環境を作るって」
「福利厚生改革とか」
「上司が先例を作らないとね、って」
「……あれ絶対その子のためじゃない?」
「隠し子を堂々と連れてくるための環境整備……?」
「やば」
噂は勝手に完成する。
本人不在で。
勝手に。
完璧に。
そして何より。
もっともらしい。
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一週間後。
悠馬が休暇明けに出社した。
僕は静かにオフィスへ入った。
空気が変だった。
視線が集まる。
妙に優しい。
妙に気まずい。
誰かが小声で言った。
「……佐伯さん」
「はい」
「お子さん……お元気ですか」
僕は止まった。
「……何の話ですか」
社員が青ざめた。
「あ、いや、その」
背後から声がした。
「兄さん!」
ノアが爽やかに現れる。
そして。
ルイスが飛びつく。
「悠馬おじさん!!」
僕は固まった。
社員がざわつく。
「本物だ……」
「やっぱり……」
「隠し子……」
僕はゆっくりノアを見た。
「ノア」
「なに?」
「……何をした」
ノアはにこやかに言った。
「福利厚生」
「殺すぞ」
「上司が先例を作らないとね」
「殺すぞ」
ルイスが無邪気に言う。
「おじさん、父上ね、みんなに僕のこと見せてた!」
僕は目を閉じた。
休暇とは。
何だろう。
社会的に死ぬ準備期間だったのか。
ノアが耳元で囁く。
「兄さん、噂、すごいよ」
「殺すぞ」
「でも安心して」
「何が」
「兄さん、モテてる」
「殺すぞ」
僕の胃が、未来を察知して痛んだ。
ここまで読んでくださってありがとうございます!
『佐伯悠馬の結婚事情(仮)』始まりました。
結婚する気がない男の結婚事情(仮)です。
相変わらず周囲がうるさく、悠馬の胃が忙しいです。
更新はのんびりですが、完結まで書いていく予定なので
よかったらまた覗いてください。
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