その10 「迎えに来る女」
こーいのーよーかーんーがーー(古)
意識が戻った時、天井が白かった。
病院ではない。
オフィスの休憩室でもない。
ーー自分のフラットだった。
僕は瞬きをした。
喉が乾いている。
胃が重い。
体が鉛みたいだ。
横を向くと、椅子に誰かが座っていた。
足を組まず、背筋を伸ばし、静かに本を読んでいる。
エレノアさんだった。
僕は固まった。
今日何度目だ。
「……なぜここに」
声が掠れた。
エレノアさんはページを閉じて顔を上げた。
「帰ってこなかったので」
「帰ってこなかった?」
「夕食の連絡もありませんでした」
淡々。
責めない。
怒らない。
ただ事実だけを置く。
それが一番怖い。
「……仕事です」
「倒れたそうですね」
僕は言葉を失った。
倒れた。
そうか。
僕は倒れたのか。
エレノアさんは立ち上がり、キッチンへ行く。
鍋の蓋を開ける音。
湯気。
スープの匂い。
現実が戻ってくる。
「食べられますか」
「……わかりません」
「少しでいいです」
彼女は器を持ってきて、テーブルに置いた。
白いスープ。
温かい。
僕はそれを見て、妙に胸が詰まった。
生活だ。
僕が捨てたものだ。
「佐伯さん」
エレノアさんが静かに言う。
「あなたは壊れます」
「……壊れません」
「壊れかけました」
淡々と訂正された。
僕は反論できなかった。
沈黙。
スープの湯気だけが揺れる。
エレノアさんは続ける。
「ノア卿が連絡を寄越しました」
胃がきゅっと縮む。
「……なんと」
「兄さんが倒れた、と」
「……」
「久しぶり現場に行ったそうですね」
「……はい」
「遅いですね」
僕は小さく息を吐いた。
「本当に」
エレノアさんは少しだけ首を傾げる。
「あなたは、ずっと一人でやってきたのですか」
質問ではない。
確認だった。
僕は答えられなかった。
ずっと。
一人で。
それが当たり前だった。
当たり前にしてきた。
だから倒れた。
エレノアは席を立ち、僕の前に膝をついた。
距離が近い。
反射的に身が強張る。
「……近いです」
「倒れる人を放置できません」
「仕事ですか」
「仕事です」
即答。
でも、声が少し柔らかい。
僕は目を逸らした。
怖い。
生活が戻るのが怖い。
誰かがいるのが怖い。
支えられるのが怖い。
エレノアは淡々と言った。
「食べてください」
「……」
「生存確認です」
僕は一瞬、笑いそうになった。
その言葉は、僕の未来の台詞になるのに。
まだ知らない。
僕はスプーンを取った。
温かい。
喉を通る。
胃が少しだけ落ち着く。
エレノアは立ち上がり、窓を少し開けた。
夜の空気が入る。
「明日は休みを取ります」
「……取れません」
「取ります」
命令形だった。
僕は驚いて彼女を見た。
エレノアさんは穏やかに微笑む。
「あなたが倒れると、私の仕事が増えます」
「……」
「困ります」
僕は、今度こそ小さく笑ってしまった。
怖いのに。
安堵が混じる。
世界が少しだけ色づく。
そんな気がした。
ここまで読んでくださってありがとうございます!
『佐伯悠馬の結婚事情(仮)』始まりました。
結婚する気がない男の結婚事情(仮)です。
相変わらず周囲がうるさく、悠馬の胃が忙しいです。
更新はのんびりですが、完結まで書いていく予定なので
よかったらまた覗いてください。
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