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その9 「ノア、現場に来る(地獄)」

関係ないのですが、キーボードを載せていたテーブルを破壊しました。新しいの買わなきゃ・・・_| ̄|○


ノアが現場に来た。

それだけで事件だった。


六年ぶりの奇跡。


社員がざわついた。


「ノア卿が……?」


「本物?」


「遠隔じゃない……?」


ノア本人は涼しい顔で言った。


「兄さんとの約束です」


約束。


よく言えたものだ。

僕はその横で胃を押さえていた。


現場は朝から荒れていた。


トラブルが連鎖し、担当が飛び、書類が追いつかない。

僕は走り続けていた。


ノアが隣で言う。


「兄さん、ここは僕が」


「当然だ」


「久しぶりだなぁ、現場」


「感想を言うな、働け」


ノアは笑った。


笑うな。


現場は戦場だ。


ーーーーーーーーーーーーーーー


午前十一時。


最初の会議が終わった瞬間、次の電話が鳴った。

午後の予定が崩れる。

現場の責任者が顔を青くして駆け込んでくる。


「佐伯さん、追加で確認が……!」


「今やる」


「ノア卿にも……!」


責任者がノアを見て一瞬固まる。


ノアは穏やかに頷いた。


「聞きましょう」


……そうだ。


聞け。


それがお前の仕事だ。


僕は喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。


飲み込むのが癖になっている。


ーーーーーーーーーーーーーー


午後二時。


ノアの顔色が少し変わってきた。


遠隔越しでは分からない匂いが現場にはある。


汗。

焦り。

責任。


誰かが失敗すれば、誰かが被る。


その被る役が、ずっと僕だった。


ノアが低い声で言った。


「……兄さん、これ」


「地獄だろう」


「……」


「今さら理解するな」


ノアは口を閉じた。

珍しく黙った。

それだけで少し腹が立った。


六年分の遅刻だ。


ーーーーーーーーーーーーー


午後四時。


追加の案件。

追加の会議。

追加の責任。


僕の視界が少し白くなった。


(まずい)


足が重い。


呼吸が浅い。

昔と違う。


歳を取った。

無理がきかない。


ノアが気づいて眉を寄せた。


「兄さん?」


「大丈夫だ」


「大丈夫じゃない顔だ」


「大丈夫と言った」


僕は机に手をついた。


指先が冷たい。

胃が痛い。

胃だけじゃない。

体の芯が冷える。


ノアが珍しく真剣な声で言った。


「兄さん、休んで」


「休めるか」


「休め」


命令形だった。


腹が立つ。


だが立っていられない。


僕は息を吸った。

吸えない。

喉が詰まる。


「……ノア」


「なに」


「お前」


一拍。


「二度と育休を言い訳にするな」


ノアの目が揺れた。


「……兄さん」


「現場は」


「分かった」


分かった、では足りない。

六年分が足りない。


ーーーーーーーーーーーー


その時。


スマホが震えた。


『夕食は?』


エレノアからだった。

短い文字。

それだけで胸が少しだけ締まる。


僕は画面を見て、返せなかった。


返す余裕がない。


ノアが覗き込む。


「エレノアさん?」


「見るな」


「兄さん、生活してるんだね」


「黙れ」


生活。


そんなものはずっと後回しだった。

後回しにしてきた結果が、今だ。

僕の膝が少し笑った。


(まずい)


次の瞬間。


視界が傾いた。

世界が遠のく。


「兄さん!」


ノアの声が聞こえた。


腕が掴まれる。


誰かが何か言っている。


現場の音が遠い。

僕は思った。


ノアが現場に来ても、地獄は地獄だ。

僕の限界は、もうとっくに超えていたのかもしれない。


そして。


支える手が必要なのは。

嫁じゃない。

生活じゃない。


……僕自身だった。



ここまで読んでくださってありがとうございます!


『佐伯悠馬の結婚事情(仮)』始まりました。

結婚する気がない男の結婚事情(仮)です。

相変わらず周囲がうるさく、悠馬の胃が忙しいです。


更新はのんびりですが、完結まで書いていく予定なので

よかったらまた覗いてください。


感想・フォロー等とても励みになります!

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