その87 「蘭/地獄の声/兄さん」
恋愛話を書いてるはずなのに毎回こうなる
ルイスが眠ったあとも、
ノアはしばらく動けなかった。
腕の中に残る小さな震えが、
消えない。
ルイスの声がまだ耳に刺さっている。
『ぼくは、”悠馬おじさん”じゃないのに』
正論だった。
残酷な正論だった。
父親の胸にだけ刺さる正論だった。
ノアは暗い廊下に出た。
屋敷は静かだ。
静かすぎる。
冬は音を吸う。
だから余計に心の音がうるさい。
(父上……やりすぎだ)
そう思う。
思うのに。
止め方がわからない。
ふと、昔の光景が浮かんだ。
父の声は厳しかった。
屋敷の空気はいつも張り詰めていた。
それは知っている。
けれど。
その矢面に立っていたのは、
いつも自分ではなかった。
少し前を歩く細い背中。
正しく答える声。
表情を動かさない兄。
(兄さんが受けていた)
(僕の代わりに)
ノアはその後ろで、
兄を見ていた。
守られていることに気づかないまま。
ーーーーーーーーーーーーーーー
拓海はよく笑っていた。
「ノア、外行くぞ」
「息抜きしろ」
父の空気から引き剥がすように。
だから、ノアは知らない。
本当に追い詰められる感覚を。
出来るしかない世界を。
兄が堤防になっていたことを、
当たり前にしてしまっていた。
それが今。
息子に向いている。
(ルイスは悠馬じゃない)
(僕も悠馬じゃない)
(誰も堤防になれない)
ノアは胃の奥が冷えるのを感じた。
ーーーーーーーーーーーーーーー
スマホを取った。
迷いは一秒。
送る相手は決まっている。
『蘭』
『相談がある』
既読はすぐについた。
早すぎる。
地獄は眠らない。
時差すら関係ない。
『今?』
短い。
圧がある。
返事ではなく命令だった。
ノアは通話ボタンを押した。
呼び出し音が二回。
すぐに繋がる。
『……ノア』
低い声。
アメリカの早朝。
母の声。
妻の声。
地獄の声。
「蘭」
ノアは小さく息を吐いた。
「ごめん」
『謝るのは後』
即座に切られる。
『ルイス?』
「寝た」
『泣いてたのね』
断定。
地獄は察しが早い。
「……泣いてた」
数秒の沈黙。
電話の向こうで呼吸が一つ。
怒りを整える音だ。
『義父上?』
「……うん」
『また?』
「また」
『何を言ったの』
ノアは目を閉じた。
言葉にするだけで胃が痛い。
「……兄さんと比べた」
『悠馬兄さんと?』
噛みしめるように。
「“悠馬は出来ていた”って」
沈黙。
冬の沈黙。
地獄が冷える。
『ルイスは』
『何て言ったの』
「……僕は悠馬おじさんじゃない、って」
電話の向こうで空気が止まった。
アメリカの朝が一瞬凍った気がした。
『……そう』
短いほど怖い。
『ノア』
「うん」
『あなたは父親でしょう』
「……うん」
『守りなさい』
刃物みたいな優しさ。
「父上を止めたい」
『止めるべきよ』
「でも……伯爵家の教育で……」
『教育』
蘭がその言葉を繰り返す。
氷のように。
『兄さんは教育で出来たのではないわ』
『出来るしかなかっただけ』
『出来なければ壊れるしかなかった』
蘭の声が少しだけ揺れた。
地獄が人間になる瞬間だ。
『それを伝説にして子供を殴るなんて』
『許されない』
「蘭、どうしたらいい」
『私が動く』
即答。
『まず兄さんに話す』
『兄さんは知らないまま働いている』
『知らないまま比較に使われている』
『それが一番残酷よ』
ノアは目を閉じた。
「……わかった」
『ノア』
『あなたも黙らないで』
『伯爵でしょう』
爆弾が伯爵に戻される。
通話が切れた。
ノアは暗い廊下で立ち尽くした。
冬は静かに燃えている。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
数時間後。
アメリカの午後。
蘭はスマホを握りしめた。
画面に表示された名前。
『悠馬兄さん』
呼び出し音。
一回。
二回。
『……蘭?』
いつもの声。
英国の夜。
兄の声。
「寝てた?」
『いや、大丈夫』
嘘だ。
兄はいつも大丈夫と言う。
蘭は息を整えた。
「兄さん」
『うん』
「ルイスが泣いてたって」
沈黙。
兄の沈黙は長い。
遅い。
致命的に遅い。
「義父上がまた言ったの」
「“悠馬は出来ていた”と」
電話の向こうで呼吸が止まる。
「ルイスは言った」
「“僕は悠馬おじさんじゃない”って」
冬の沈黙。
『……そうか』
平常運転の声。
壊れないための声。
「兄さん」
「あなた、どう思う」
『……僕は』
小さな声。
『好きで出来ていたわけじゃない』
「でしょうね」
『逆らう選択肢が……なかった』
沈殿していた言葉。
家族だけが知っている冬の底。
蘭は静かに言った。
「兄さん」
『うん』
「もう伝説にならないで」
「ルイスはあなたじゃない」
「あなたも義父上の道具じゃない」
「私たちの兄さんでしょう」
電話の向こうで、
小さく笑う音がした。
笑うと泣きそうな音。
『……困ったな』
『蘭』
「なに」
『僕はどうすればいい』
蘭は即答した。
地獄の回収だ。
「父さんに言うか」
「拓海父さんに。」
「今度は私たちが義父上を止める番よ」
冬は静かに燃え広がっていく。
クリスマスは近い。
距離は育っている。
爆弾も育っている。
そして。
家族が回収を始めた。
ここまで読んでくださってありがとうございます!
『佐伯悠馬の結婚事情(仮)』始まりました。
結婚する気がない男の結婚事情(仮)です。
相変わらず周囲がうるさく、悠馬の胃が忙しいです。
更新はのんびりですが、完結まで書いていく予定なので
よかったらまた覗いてください。
感想・フォロー等とても励みになります!




