その83 「平常/言えない/手につかない」
おじさんの恋(どこに需要があるのか)
会議室の空気は冷たかった。
コーヒーの匂い。
資料の紙音。
キーボードの音。
合理の世界。
いつも通り。
エレノアは席に着いていた。
完璧な姿勢。
完璧な表情。
完璧な距離。
”平常運転”
「本日の議題はこちらです」
淡々とした声。
無駄がない。
いつも通り。
何も変わらない。
変わらないはずだった。
悠馬だけが変だった。
資料を見ている。
読めている。
理解もできている。
返答もできる。
数字も頭に入る。
合理的に動ける。
……はずなのに。
『手につかない』
視線が一瞬、エレノアに向かう。
すぐ逸らす。
逸らす理由がわからない。
逸らす必要もない。
業務だ。
上司と部下だ。
なのに。
距離が気になる。
紙一枚ぶんの誤差が。
致命的に大きい。
「佐伯さん」
名前を呼ばれて肩が跳ねた。
「……はい」
声が裏返りかけた。
最悪だ。
⸻
エレノアは何も気づかない顔で言う。
「こちらの確認をお願いいたします」
業務。
合理。
完璧。
「承知しました」
悠馬は即答した。
即答しかできない。
余計なことを考える前に。
沈黙。
会議は進む。
世界は進む。
自分も進んでいる。
……はずなのに。
(僕が何かしたのか)
悠馬の脳が遅れて追いつく。
(距離を取られる理由があるのか)
(失礼があったのか)
(業務上の問題か)
(噂か)
(爆弾か)
答えが出ない。
聞けばいい。
合理的には聞けばいい。
だけど。
聞けない。
「何かありましたか」
それを言った瞬間、
何かが崩れる気がする。
理由もなく。
合理もなく。
そもそも。
『なぜ気になる』
今まで悠馬は、
誰の距離も気にしたことがない。
好かれようが嫌われようが、
業務が回ればそれでよかった。
なのに。
なぜ、”彼女だけ”
会議が終わる。
椅子が引かれる音。
資料が閉じられる音。
平常運転の終わり。
「以上です」
エレノアは立ち上がった。
完璧に。
距離を保ったまま。
ーーーーーーーーーーーーーー
悠馬は思わず口を開きかけた。
そしてやめた。
言葉が出ない。
理由がない。
理由がわからない。
エレノアは一礼する。
「お疲れ様でした」
「……お疲れ様です」
いつも通りの挨拶。
いつも通りの距離。
いつも通りのはずの世界。
扉が閉まる。
残るのは悠馬だけ。
胃が痛い。
いつも通りだ。
いつも通りのはずだ。
なのに。
胸の奥が落ち着かない。
合理では処理できない。
言えない。
聞けない。
わからない。
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悠馬は机に手をついた。
(……僕は)
(何をしている?)
世界は早い。
自分だけが遅い。
致命的に遅い。
ここまで読んでくださってありがとうございます!
『佐伯悠馬の結婚事情(仮)』始まりました。
結婚する気がない男の結婚事情(仮)です。
相変わらず周囲がうるさく、悠馬の胃が忙しいです。
更新はのんびりですが、完結まで書いていく予定なので
よかったらまた覗いてください。
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