その6 「侵入」
ゆうまはにげだした。
しかしまわりこまれてしまった。
ゆうまはにげられない。
悠馬のロンドンのフラットは、静かだった。
静かすぎて、生活の音がしない。
あるのは書類と、胃薬と、椅子に積まれた洗濯物。
そして――場違いなほど大きい部屋着。
悠馬は袖を引っ張った。
ノアが置いていった私服だ。
なぜか自分の服より落ち着く。
理由は考えない。
胃が痛いので。
インターホンが鳴った。
悠馬は固まった。
こんな時間に来る人間は一人しかいない。
扉を開けると、エレノア・ローズが立っていた。
整ったコート。整った髪。整った表情。
生活感のない女が、生活感のない部屋に侵入しようとしている。
「おはようございます」
「……おはようございます」
一拍。
悠馬は言った。
「なぜここに」
エレノアは首を傾げた。
「仕事です」
「仕事はオフィスで完結します」
「完結していません」
即答だった。
悠馬の胃がきゅう、と縮む。
「ここは僕の家です」
「存じております」
エレノアは淡々と靴を揃えた。
その動作が自然すぎて、悠馬はぞわりとした。
ここは自分の領域だったはずなのに。
彼女は踏み込まない顔で、正確に侵入してくる。
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「……秘書が家に来るのは一般的ではありません」
「私は“パーソナル・アシスタント”として雇われています。
つまり、個人付きの管理担当です」
「管理」
「生活の整備、と条件にありました」
悠馬は口を閉じた。
条件を出したのは自分だ。
だが実行されるとは思っていなかった。
エレノアは部屋を見回した。
視線が一つずつ、淡々と現実を拾っていく。
「冷蔵庫」
「……はい」
「空ですね」
「……はい」
「食事は?」
「コーヒーで足ります」
エレノアが初めて、ほんの少しだけ眉を動かした。
「足りません」
悠馬は反射で言った。
「余計なお世話です」
「承知しています」
淡々。
淡々すぎて逃げ場がない。
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エレノアはキッチンに立った。
手袋もせずに、流し台のコップを洗う。
音がする。
生活の音だ。
悠馬はその背中を見つめた。
怖い。
生活が戻ってくるのが怖い。
整えられるのが怖い。
「……エレノアさん」
「はい」
「ここまでしなくていいです」
エレノアは手を止めずに言った。
「倒れられると困ります」
「僕は倒れません」
「大丈夫と言う方ほど倒れます」
悠馬は胃を押さえた。
なぜこの人は正確なのか。
踏み込まないのに、当ててくる。
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ふと、エレノアの視線が悠馬の服に落ちた。
一拍。
「……それは?」
悠馬が固まる。
「服です」
「見ればわかります」
「……随分大きいですね」
悠馬は言い訳を探した。
見つからない。
「ノアが置いていっただけです」
エレノアは微笑んだ。
踏み込まない微笑みだ。
「仲が良いのですね」
「違います」
「そうですか」
信じていない声だった。
悠馬の胃が痛い。
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エレノアは淡々とメモを取った。
「生活改善案を提出します」
「提出しないでください」
「提出します」
「拒否権は」
「ありません」
悠馬は頭を抱えた。
その仕草を見て、エレノアはほんの少しだけ目を細めた。
(……今まで関わった男たちにはいなかったタイプ)
整えれば整えるほど怯える男。
押しても引いてもいないのに、勝手に逃げ場を失っていく。
興味が湧く。
ほんの少しだけ。
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その時、スマートフォンが鳴った。
エレノアが出るより先に、悠馬が取ってしまった。
『やあ』
ノアの声だった。
嫌な予感しかしない。
『今どこ?』
「……自宅です」
『へぇ』
声が楽しそうだ。
『エレノアさんも?』
「なぜ知ってる」
『父上が言ってた』
悠馬は目を閉じた。
叔父上。
最終計画。
『生活、整ってる?』
「整わなくていい」
『整うと逃げ場がなくなるもんね』
「黙れ」
電話の向こうでノアが笑った。
『じゃあ今度、邸に来てよ』
悠馬の胃が死んだ。
「……なぜ」
『ルイスが会いたがってる』
悠馬は天井を見上げた。
まだだ。
まだ爆弾は早い。
エレノアが静かに言った。
「ハミルトン邸、ですね」
悠馬が振り返る。
「……聞いてましたか」
「仕事ですので」
淡々とした声。
逃げ場がない。
悠馬は小さく呟いた。
「……僕の生活は、どこまで仕事なんですか」
エレノアは一拍置いて微笑んだ。
「必要なところまでです」
悠馬は胃が痛かった。
ここまで読んでくださってありがとうございます!
『佐伯悠馬の結婚事情(仮)』始まりました。
結婚する気がない男の結婚事情(仮)です。
相変わらず周囲がうるさく、悠馬の胃が忙しいです。
更新はのんびりですが、完結まで書いていく予定なので
よかったらまた覗いてください。
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