その78 「誤解/佐伯悠馬の場合」
人として致命的に鈍い悠馬君
本社ビルの廊下は静かだった。
騒がしい爆弾もいない。
子供の足音もない。
噂好きの婦人もいない。
平和だ。
平和なはずだった。
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悠馬はデスクに座り、
いつものように資料を見ていた。
数字。
予定。
会議。
合理。
世界はいつも通り回っている。
自分もいつも通り働ける。
それでいい。
それでいいはずだ。
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(……誤解は落ち着いている)
ノアが笑いながら言っていた。
「兄さん、最近は静かだよ!」
「そうか」
「でもね!」
その「でもね」が一番いらない。
悠馬は胃を押さえた。
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噂。
ルイス。
隠し子。
偽装結婚。
全て意味が分からない。
いや、意味は分かる。
人間は暇だと物語を作る。
それだけだ。
いつもなら放っておいた。
どう思われてもいい。
誤解されてもいい。
仕事ができればいい。
それが”自分”だった。
なのに、今日は違う。
(……嫌だ)
悠馬はペンを止めた。
(このままでも困らない)
会社は回る。
契約も回る。
噂は勝手に消える。
自分が説明する必要などない。
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それなのに。
(嫌だ)
胸の奥に、引っかかりが残る。
胃ではない。
胃はいつも痛い。
もっと別の場所だ。
困る。
思い出す。
帰る前のエレノアの声。
「いつもでは困ります」
淡々としていた。
合理的だった。
部下として正しい言葉だった。
なのに。
刺さった。
妙に。
噂よりも。
(……なぜ)
悠馬は額を押さえた。
(なぜ僕は)
(エレノアさんにだけは)
(誤解されたくないと思っている)
意味が分からない。
自分の感情が分からない。
それが一番困る。
誤解なんてどうでもいい。
ずっとそうだった。
人に興味もなかった。
誰かのプライベートも気にならなかった。
元夫がいると聞いても、
三回結婚したと聞いても、
本来なら「そうですか」で終わる。
なのに。
彼女が「私用で外します」と言っただけで、
脳が止まった。
どこへ。
誰と。
なぜ。
”関係ない”のに。
(……関係ない)
悠馬は呟いた。
(仕事だ)
(合理だ)
(僕はそういう人間だ)
言い聞かせる。
言い聞かせても。
引っかかりは消えない。
誤解を解きたい。
でも。
どうして?
別に困らないはずなのに。
”嫌だ”
なぜ?
悠馬は椅子に沈み込んだ。
胃薬を取り出す。
条件反射で飲む。
意味がない。
胃じゃない。
痛いのは。
もっと遅い場所だ。
そして悠馬は気づかない。
その「嫌だ」は、
今まで一度も持ったことのない種類の感情だということに。
世界は早い。
悠馬は遅い。
致命的に遅い。
ここまで読んでくださってありがとうございます!
『佐伯悠馬の結婚事情(仮)』始まりました。
結婚する気がない男の結婚事情(仮)です。
相変わらず周囲がうるさく、悠馬の胃が忙しいです。
更新はのんびりですが、完結まで書いていく予定なので
よかったらまた覗いてください。
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