幕間 「地獄」
ノア君はお兄ちゃんに似てるご子息爆誕で一時も離れたくないようです
子供が産まれてから、ノアはほとんど職場に来なくなった。
最初は皆、好意的だった。
「初めての子ですものね」
「溺愛するのも分かります」
「育休でしょう」
育休。
それ自体は何の問題もない。
いや、問題は一つあった。
ノアの担当は主に現場だった。
会議と書類は遠隔で済む。
だが現場は遠隔では済まない。
現場は現場にしかない。
結果。
僕の仕事が倍になった。
倍どころではない。
朝から晩まで動き、夜に戻り、また朝が来る。
生活は後回しだった。
食事はコーヒーで誤魔化す。
洗濯物は椅子に積まれる。
書類は机を侵食する。
胃薬だけが規則正しく減っていく。
僕はロンドンに住んでいたはずなのに、
ほとんどオフィスに住んでいた。
家に帰る理由がない。
帰っても眠るだけだ。
眠れればいい方だ。
唯一、生活が完全に崩壊しなかったのは母さんのおかげだった。
菜摘母さんはロンドンにいた。
表には出ない。
だが内側を整える人だ。
母さんは淡々と環境だけを整えた。
家政婦を手配する。
最低限の食事を置く。
書類を分類する。
僕の生活を、僕の代わりに維持する。
けれど。
母さん本人も忙しい。
僕自身も家にいない。
整えられる場所に、住人がいない。
家は空洞だった。
その頃。
ノアは息子を溺愛していた。
隙あらば抱く。
笑いかける。
現場には来ない。
代わりに、時々ビデオ越しに言う。
『兄さん、ルイスが歩いたよ』
『兄さん、ルイスが兄さんに似てきたよ』
『兄さん、見て。最高だね』
最高じゃない。
僕の仕事は増え続ける。
胃は痛み続ける。
生活は後回しになる。
そして叔父上は、穏やかにそれを見ていた。
ある日。
叔父上の執務室に呼ばれた。
僕は立ったまま報告を聞く。
叔父上は紅茶を飲みながら言った。
「家政婦が辞めた」
それだけのことのはずだった。
けれど僕の生活は、
そういう「それだけ」で簡単に崩れる。
叔父上は続ける。
「探せ」
僕は静かに言った。
「条件があります」
「家事全般」
「雑務」
「家計管理」
「生活の整備」
一拍。
「できれば少し年上で落ち着いた人」
さらに。
「同伴が必要な場合の相手にもなれる人」
叔父上は目を細めた。
満足そうに。
まるでずっと待っていたかのように。
「……なるほど」
そして穏やかに言った。
「では、ちょうどいい人がいる」
僕は嫌な予感しかしなかった。
数年後。
その“ちょうどいい人”が、僕のフラットの鍵を持って現れることになる。
エレノア・ローズ。
僕の生活を整える女。
そして僕が、世界の色を思い出す女。
ここまで読んでくださってありがとうございます!
『佐伯悠馬の結婚事情(仮)』始まりました。
結婚する気がない男の結婚事情(仮)です。
相変わらず周囲がうるさく、悠馬の胃が忙しいです。
更新はのんびりですが、完結まで書いていく予定なので
よかったらまた覗いてください。
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