その71 「帰り際/よろしく」
悠馬君は鈍い
玄関先。
見送りの空気は穏やかだった。
穏やかすぎて胃が痛い。
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「本日はありがとうございました」
悠馬は深く頭を下げた。
完璧な敬語。
完璧な距離。
上司の癖である。
レオンは余裕のまま微笑む。
「こちらこそ、佐伯氏」
一拍。
「では、これからもよろしく頼む」
「……はい」
悠馬は反射で頷いた。
そして。
レオンは何気なく付け足した。
「それと――」
一拍。
「エリーにもよろしくと伝えてくれ」
”ビクッ”
悠馬の肩が跳ねた。
条件反射だった。
レオンは気づかないふりで笑った。
「彼女は忙しいだろうが」
「……はい……」
声が裏返りかけた。
凛が横で無言で見ている。
拳が静かに圧を放っている。
悠馬は必死に平静を装った。
(……なぜ僕が動揺する)
(意味が分からない)
胃が痛い。
車に乗り込む瞬間まで。
悠馬の脳内には
その一言だけが残っていた。
『エリーにもよろしく』
ヴァイスハルト邸を出た瞬間。
悠馬は息を吐いた。
長い。
長すぎる夕食だった。
胃がまだ生きているのが奇跡だ。
車のドアが閉まる。
逃げ場がない静けさ。
凛が隣に座る。
護衛ではない。
これは査問だ。
車が走り出した。
悠馬は窓の外を見つめた。
見つめていないと崩れる。
「悠馬」
凛の声は優しい。
優しいが冷たい。
「何をしているの」
悠馬は小さく答えた。
「……夕食を」
「違う」
即否定。
「”何をしているの?”」
悠馬の喉が詰まる。
(僕が聞きたい)
意味が分からない。
胃が痛い。
「……招待されたので」
「招待されたから行くのは分かる」
一拍。
「なぜエレノアに言わない」
悠馬は固まった。
「……部下ですから」
「部下?」
「僕が上司なのに」
言葉が弱い。
「元旦那の話を振るのは業務ではないので」
凛が目を細めた。
「業務じゃないから言えない?」
「……はい」
「じゃあ何で私には言えるの」
「……拳だから」
言った瞬間死んだ。
凛の沈黙。
車内の温度が下がる。
「拳?」
「護衛です」
「護衛は拳で来るものじゃない」
「……すみません」
悠馬は縮んだ。
凛はため息を吐いた。
「悠馬」
「はい」
「あなた、鈍いのよ」
「……はい」
否定できない。
「レオンは面白がってる」
「……何をですか」
「あなたを」
即答だった。
悠馬の胃がきゅっとした。
(なぜ)
(僕を)
(面白がる)
分からない。
凛は淡々と続ける。
「”エリー”、って呼ばれて固まる上司」
「……固まってません」
「固まった」
「……はい」
「”今なら離婚に至らなかった”、で固まる上司」
「……固まってません」
「固まった」
「……はい」
凛が腕を組む。
「あなた、何を動揺してるの」
「……分かりません」
正直だった。
「なぜ気になるのか分かりません」
凛は一拍置いた。
「分からないなら」
一拍。
「分かるまで考えなさい」
答えはくれない。
拳は優しい。
優しくないが。
悠馬が窓に頭をぶつけた。
「痛っ」
「痛いのは胃でしょう」
「胃も痛いです」
「知ってる」
凛は容赦がない。
「悠馬」
「はい」
「放っておいたら」
一拍。
「あなたは生涯独身でオフィスで死ぬ」
「確定事項にしないでください!」
悠馬が叫んだ。
叫んだ瞬間胃が痛い。
凛は冷たく微笑んだ。
「確定事項よ」
「……嫌です」
「なら」
一拍。
「自分で気づきなさい」
車はホテルへ向かう。
世界は早い。
悠馬は遅い。
『答えはまだ言葉にならない』
妹に敬語を使う兄
ここまで読んでくださってありがとうございます!
『佐伯悠馬の結婚事情(仮)』始まりました。
結婚する気がない男の結婚事情(仮)です。
相変わらず周囲がうるさく、悠馬の胃が忙しいです。
更新はのんびりですが、完結まで書いていく予定なので
よかったらまた覗いてください。
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