その66 「九日目/動かない有能」
二日酔い悠馬君
九日目。
最終日。
ドイツの空は澄んでいた。
昨日の夜が嘘みたいに静かだ。
爆弾もいない。
噂だけが、まだいる。
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悠馬は椅子に座っていた。
スーツは着ている。
ネクタイも結んでいる。
顔色は終わっている。
(……動けない)
頭が重い。
胃が痛い。
体が鉛みたいだ。
努力ではどうにもならない種類の最悪。
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会議室。
取引先が揃っている。
書類が並ぶ。
最終確認。
本来なら――
ノアがやる仕事だ。
普段なら。
悠馬は思った。
(僕は、こういう場に来ない)
(来るべきなのはノアだ)
(噂のために来たようなものだ)
最悪だ。
噂のために海外出張。
胃が痛い。
隣でエレノアが淡々と資料を整えている。
彼女の手は迷いがない。
悠馬の手は震えている。
「佐伯さん」
小さな声。
「大丈夫ですか」
「……努力しています」
「努力でどうにもならない顔です」
正論で刺してくる。
商談が始まる。
取引先が言う。
「条件の最終確認を」
悠馬は口を開こうとして――
開かない。
声が出ない。
胃が先に拒否している。
一拍。
エレノアが前に出た。
「では私から説明いたします」
空気が変わる。
取引先が頷く。
誰も驚かない。
彼女は“できる人”だからだ。
悠馬は椅子の背に沈んだまま、
ただ聞いていた。
ただ頷いていた。
ただ存在していた。
――それだけなのに。
取引先の男が小声で言った。
「佐伯氏は全体を俯瞰している…」
「任せるところは任せる」
「余裕ですね」
違う。
余裕ではない。
動けないだけだ。
悠馬は心の中で訂正した。
(違います)
(胃です)
(僕は今、限界です)
だが口には出さなかった。
訂正しても。
どうせ信じない。
噂も。
評価も。
世界は勝手に物語を作る。
商談は成立した。
握手が交わされる。
拍手が起こる。
悠馬は立ち上がれない。
ただ静かに頭を下げた。
会議室を出た廊下で、
年配の女性の声が聞こえた。
「佐伯様は本当にお強い方ね」
「ええ…ご子息の件も…」
噂だ。
まただ。
悠馬は足を止めた。
喉まで言葉が上がる。
叫びたい。
違うと。
僕は、と。
でも。
出なかった。
(……訂正しても)
(どうせ)
(信じない)
悠馬は静かに歩き出した。
青い顔のまま。
黙ったまま。
少しだけ、
昨日より大人になって。
エレノアが横で言った。
「佐伯さん」
「……はい」
「今日は休んでください」
「……仕事は」
「終わりました」
一拍。
「あなたが倒れなかったので」
それは褒め言葉なのか。
悠馬には分からない。
ただ胃が痛い。
ここまで読んでくださってありがとうございます!
『佐伯悠馬の結婚事情(仮)』始まりました。
結婚する気がない男の結婚事情(仮)です。
相変わらず周囲がうるさく、悠馬の胃が忙しいです。
更新はのんびりですが、完結まで書いていく予定なので
よかったらまた覗いてください。
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